温故知新は、『論語(為政篇)』の出典によるもので古いものをたずね求めて新しい 事柄を知る意から、すなわち古を知る=意識化するというのは、実は今を知る=意識化することにほかならないことであり、我々創作現場でも古典から学ぶことは多い。工芸デザインにおいてもモノの形の進化は現状の欠陥に気づくことからはじまる。産業の技術革新も数多くの失敗(過去の経験)からイノベーションがはじまった。
「本当の意味でモノの形を決めるのは、ある働きを期待して使ったときに感知される現実の欠陥にほかならない。」とは、米国の工学者ヘンリー・ペトロスキーが『フォークの歯はなぜ四本になったか』でいった言葉である。
モノづくりにおいて、創造性に大いに関係するのが抽象化能力である。抽象とは事物や表象を、ある性質・共通性・本質に着目し、それを抽(ひ)き出して把握すること。その際、他の不要な性質を排除する作用(=捨象)をも伴うので、抽象と捨象とは同一作用の二側面を形づくる。 (三省堂大辞林)
観察した自然を切り取る。体験した場のエッセンスを抜き出す。味わったアートの良さを引き出す。こうしたことを行うには、自分が観たもの、体験したものから特定の要素を抽象化する力が必要になってくる。つまり、自然を観て絵を描く。体験したことを元に文章を書く。作品の制作に当たる。こうした創造的活動には、抽象化の力が不可欠になってくる。
抽象化には、まず自分が実際に観たり触れたりする現実の文脈から要素を抜き出せないといけない。要素を抜き出し、必要な要素だけに単純化し、単純な要素だけで事象を組み立てる力が抽象化でもある。一般的には、ある「モノ」が空間上の位置を欠いているとき、またそのときだけにそれが抽象的であるといわれる。
カンジンスキー 連続 |
いわゆるアブストラクト(抽象美術)は、1910年ごろから興った芸術思想で、「外界の形象を借りて表現するよりも、外界から抽出した線や面を造形要素とし、あるいは色彩自体の表現力を追求してこれを造形的な作品に構成するもの」だという。ロシヤ生まれのカンジンスキ-は、物ではなく、音楽のような目に見えないものも描いている。これは色や形ばかりでなく、対象からも自由になったといえるだろう。
人は概ねイメ-ジで思考することが多い。言葉だけが浮かんで、イメ-ジが浮かばないときは思考が停止するが、イメ-ジが先に浮かぶと仕事は速い。
作ることと見ることは、車の両輪 のようなものだ。良い作品を見ることにより眼の力は鍛えられていく。眼で見ることのできないものは、かたちにできない。作る技術はあっても、あるべきかたちをイメージする力がなければ、そのかたちを作ることはできない。
手の暴走、過剰な加飾の誘惑を抑制するのが目の力でもある。作品を通じて何が人を気持ちよくさせるのか、何が人を幸せな気持ちにさせるのか。
そういう意味での作品(もの)の良さを知らなければ、ちゃんとしたものづくりにはならないのではないか。それには多くのものを見て、さらにそのさまざまなものが人の感情をどう動かし、暮らしのなかの行動にどう影響するのかということを想像するための眼の力を鍛えておく必要があると思う。それが個々の感性につながることでもある。
デザインを考える場合、色や形をそのほか物に求められる機能や使い勝手や耐久性や安全性など、それぞれの属性を切り離すことなく包括的に捉えなければ良いデザインは生まれてこない。人の心に愛着やぬくもりやときめきや懐かしさや楽しさなどを感じさせる色々な要素が、デザインの裏には潜んでいて、それらの要素がデザインを豊かにする。
柳宗悦が『工藝の道』で、「用」をもたない物は生命を持たない物といっているが、その場合の「用」は単に物的用という意味では決してなく、心の「用」に適うものではなくてはいけないのである。つまり「用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である」と言及している。
今年も忙しさにかまけて、当ブログもあまり頻繁には書けませんが、ご高覧の皆様には良いお年を。 (わいは猫じゃー Y CAT)