2015年11月29日日曜日

京都ぶらり旅

東福寺


入院後はや1年が経ち、無事でいられる有り難さをかみしめ、全快祝いを兼ねて、多忙の中、カミさんと秋の京都を訪れた。過去に娘が京都で大学生活を送っていた関係で、京都には何度か足を運んだが、今回は初めての京都の秋である。今回は京都の北(洛北)にある鷹峯(たかがみね)が旅の出発点となり、まだ行っていない寺巡りをしてみた。

今年は全般的に気温が高かったせいで、紅葉の色合いが例年になく芳しくなく、それでも紅葉で有名な社寺は大勢の人々でむせ返っていた。それでも春、夏、冬とそれぞれの季節が醸し出す京都各地の風情のなかでも、秋ならではの格別なものがあった。

東福寺境内

当日は10時ごろ京都駅を降り、JR奈良線で一つ目の東福寺を散策。東福寺は京都五山の一つ、境内の通天橋は紅葉の名所でもあり、人気のスポットのため、海外からの観光客も多く、境内は人でごった返していた。紅葉を浴びるほど見て歩き、昼前に京都駅に戻って、12時半の送迎バスで鷹峯のホテルについてからは、チェックインの時間まで近隣の3寺を散策した。


光悦寺山門

光悦寺、源光庵、常照寺、と拝観するが、各寺とも京の北の外れもあって人出は緩慢で、境内をゆっくり散策できたことは何よりだった。
光悦寺 京の北、鷹峯三山を見渡すふもとにあるこの寺は、江戸時代に工芸美術で名を馳せた琳派の祖、本阿弥光悦の一族の集落(光悦村)のあった場所に位置し、光悦ゆかりのこの日蓮宗の寺は、あらゆる工芸、書画に影響を与えた当時の芸術家たちの面影を残した佇まいである。

源光庵 悟りの窓と迷いの窓

源光庵  こじんまりした庭園を望む本堂には迷いの窓と悟りの窓があり、迷いの窓は矩形をなしており、角形には人間の生涯を象徴し、生老病死の四苦八苦を表す。また悟りの窓は円形をしており,禅と円通の心を表し、円は大宇宙を表現しているそうだ。すべてを丸く収めるといったところか。完全な円というものは仏教では悟りを示すことになるようだ。


常照寺山門

常照寺 
井原西鶴の「好色一代男」の人情話や歌舞伎に出てきた吉野大夫ゆかりのこの寺には吉野の墓がある。芸妓である吉野大夫における太夫の称号は、江戸時代初期に誕生し、当時は女歌舞伎が盛んで芸 達者の役者が「太夫」と呼ばれたのが始まりだといわれる。写真の山門は吉野大夫が寄進したものである。



二日目

銀閣寺
銀閣寺 ホテルから徒歩25分くらいのところに金閣寺があるが,そこは以前訪れたことがあるので、ここはパスして近くのバス停から銀閣寺行のバスに乗り40分くらいで銀閣寺についた。
銀閣寺は、金閣寺ほどの派手やかさはないが、日本人好みのさびのきいた佇まいは世界遺産にもなっている。起伏に富んだ庭園からは、室町時代の金閣に代表される3代義満時代の華やかな北山文化に対し、8代義政の銀閣に代表されるわび・さびに重きをおいた「東山文化」の発祥の地としての趣がうかがえる。足利幕府の栄華の跡が忍ばれるとともに、当時、正室の日野富子と管領が政治を行う傀儡政権で政治を妻任せにして、隠居の身に身をやつし、文芸に耽る風流将軍の姿が、歴史に思いを馳せると、もの悲しくもある。


哲学の道
さて銀閣を拝観した後は紅葉で有名な禅林寺永観堂に続く哲学の道を散策した。琵琶湖水路の小川沿いに石畳が2kmほど続き、哲学者西田幾多郎が思索をしながら歩いた道ということでこの名がついたようで、この細い一本道が、雑念を払い思索に専念できるのかと、歩きながら思ってみたが一回歩いただけでは周りの紅葉に目を取られ焦点は定まりそうもない。





禅林寺永観堂
禅林寺永観堂につくと、境内の大きな池を中心に紅葉が取り囲み、やはり観光客があふれていた。永観堂を出ると、タクシーで寺町通りの俗称美術通りの一角に向かい、書画骨董や漆器の店などを見て歩き、二時ごろに昼食を済ませ、最後の寺高台寺まで市内バスで20分ほど移動した。





高台寺の夜景

高台寺 秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺で、桃山時代の蒔絵の寺として有名であるが重要文化財の霊屋の中の蒔絵は見られなかった。日が暮れライトアップを待って、夜景に浮かび上がった紅葉を見た後、近くの祇園から先斗町まで足を運び、軽く一杯やってから、地下鉄に乗り、京都駅を発ったのは7時過ぎであった。本日の総歩数は23000歩。荷物を背負っての起伏のある遊歩行は、さすがに疲れて、車内でもう一杯やりながら眠ってしまった。

2015年11月17日火曜日

変化する住宅事情

産経新聞

近頃横浜のマンションのくい打ち施工データ改ざんに端を発し、同じ施工会社の担当者のみならず、次から次と改ざんなどの不正行為が見つかっており、業界全体のデータ改ざんが常態化していることが問題になっている。住んでいるマンションが傾いていることが明らかになったのだから、住人にとって穏やかな話ではない。おそらく東日本大震災の揺れで欠陥が現れたのだろう。




問題のマンション

確かにマンションは居住性に優れ、利便性と経済性の点で私の場合、30代初めころに、県の住宅供給公社の4LDKの分譲マンションを購入し、20年ローンが残りわずかになったとき、あの阪神大震災が起きた。
ニュース映像で見た倒壊マンションの復旧が容易でないことや、数多くの居住者の考えの相違などで、合意形成が難しく、修理、建て替えがスムーズにいかないことを知ることになり、自分たちのマンションは世帯数が大きく管理組合がしっかり機能しているにもかかわらず、その後の耐震性の問題などを鑑みて、ここは終の棲家にはならないと判断し、売却して一戸建てを購入したものの、そこも6年足らずで手放し、親と同居するために2世帯住宅を新たに建て、現在に至っている。


国交省の資料によると、全国の分譲マンションは今や500万戸を越え、うち築30年以上は73万戸で今後毎年10万戸のペースで増えている。日本全体の人口が減少傾向にあるにも関わらず、どんどんマンションが建設されている状況である。
特に築30年を超えるような物件では、住民の高齢化や建物の老朽化、それに伴う空室率上昇や資産価値下落など、問題が山積しているようだ。
集合住宅の場合、個人が所有するのは住戸の内部だけ、建物の外壁や柱、エレベーター、廊下などは共用部分であり、全員の所有となる。それを全員で管理修繕しなければならないため、このマンションの区分所有権が建物の維持を難しくしている。また管理費滞納者の増加や、高齢者の増加によるマンションのスラム化が危惧されている。
 日本で建て替えを実現したマンションは、特例を認めた阪神大震災の被災地を除いて全国で40例ほどしかないそうだ。マンションのスラム化は、建物が古くなったから起こるのではなく、人間が住まなくなった時に始まり進んでいく傾向にある。


NPO法人空家空地管理センター

総務省が5年に1度調査する「住宅・土地統計調査」によれば、日本全国の空き家数は2013年時点で820万戸。国内住宅総数6063万戸に対する比率、空き家率は13.5%に及んでいる。
野村総合研究所の調査によれば、地方の高齢化と人口減少により、空き家が急増。2018年には日本の空き家は1000万戸を超え、2023年には空き家数は1396万戸、空き家率は21.0%となり、日本の住宅の5軒に1軒が空き家になりかねないとしている。地方にみられる限界集落という言葉は、今後少子高齢化が進むにつれ、都市部にも広がっていくだろう。

2015年11月9日月曜日

アートな話「芸術と経済」


私の好きな日本の画家に田中一村(本名、田中孝)がいる。生前は、まったくの無名の画家で、明治41年(1908年)仏像彫刻家の父の長男として栃木県に生れ、69歳の1977年に、日本の最南端の奄美大島で画家として認められないまま、孤独の生涯を閉じている。南の島奄美の自然を描いた画風は昭和の若冲とも称され、飽くことなき動植物の写実に徹し、どこか平坦で装飾的な画面から漂う躍動感と静けさは、アンリルソーにも似ていて、また日本のゴーギャンともいわれている。



神童と呼ばれ、若くして水墨画にその才能を発揮した彼は4、7歳の時には児童画展で天皇賞もしくは文部大臣賞を受賞し、10代では、蕪村、木米らを模した水墨画を自由に描いたという。
1926年、18歳にて東京美術学校(現東京芸大)の日本画科に学ぶが、父の病のため中退。同期には東山魁夷がいた。その後、家族を養うため水墨画を描いていたが、従来の水墨画を捨て、日本画にもどってみたものの、画壇からは不評であった。

日本美術展覧会(日展)、日本美術院展(院展)に何度も応募するが落選を繰り返す。名の売れた画家になりたいという夢が強かったと言うが、中央画壇で認められることはなかった。
 50歳の時に出品した作品は、自分の絶対的自信作であったが、これも落選。東京美術学校の同期生は、すでに審査員になっているものも多かった。中央画壇に失望した一村は、すべてを捨て、そして、一人、日本の最南端の奄美大島にわたる。そして生計のため大島紬の染色工になるが、無口で、あまり他人と交わることはなかったという。生業以外の余った時間はただ、ひたすら絵を描いていたという。画集の写真からうかがえる貧しい生活も、やせ細った身体も如何にも満足げである。そこにはゴッホのような貧しさの果ての狂気は見いだせない。
 
奄美大島に来てから描いた花鳥画は、自然を愛し、植物や鳥を鋭い観察眼で、精緻に描いた、いかにも熱帯の日本画、と呼ぶにふさわしい大作が何枚もある。一村のエピソードでは、彼が描いた村人が、亡くなってから家に飾るための遺影として、どの家にも大切に残されているという。貧しかった村では、写真にして遺影を飾ることができなかった。そこで、絵で代用をしたそうだ。
神童と呼ばれ、画家としての将来を期待されながら認められず、外側からだけ見れば、悲運の人の生涯であったようだが、本人にしてみれば好きな絵を描いて、貧しくても幸せで孤高の人生を全うしたのだろう。


奄美パークにある田中一村美術館
 
中央画壇で認められたいと、悪戦苦闘し、夢破れて、俗世間から離れ、一人自分の志を守り、静かに去って行った一人の無名の画家。そこに垣間見るのは男の美学か。現在奄美大島の奄美パークにある田中一村記念美術館に機会があれば足を運んでみたいと思っている。


思えば芸術も、我々に身近な経済も人それぞれの人生を語っている。人間の営みの根底にあるものが経済で、これなくしては個人も国も社会も成り立たない。バブルのころならいざ知らず、今の時代、芸術で飯を食うのは難しい。芸大を出ても二足わらじの人もいれば、芸術とは関係のない仕事をしている人もいる。幸いにして絵で食っていける人でも、世間に迎合すれば芸術家精神の堕落が始まる。
いっそ商業主義に徹したデザインの世界や工芸の世界であれば、その葛藤は少ないだろう。なぜなら消費者あっての生産者(製作者)であることが前提にあるからだ。
一般消費世界では、把握しきれないほど多量なモノや情報が、限られた消費者の関心を奪い合っている。良いモノさえ作れば売れたような時代は終わりつつある。前時代の希少性とマスメディアの情報独占に操作された価値観は、ネットの出現により、知識や情報の源泉が広く分散され、消費者の関心を引きつけるものは、モノに内在するエンターティメント(面白さ)とモノの属性、即ち、デザイン、性能、品質と消費者にとっての有用性であろう。芸術は長く、人生は短し。されど人生の基盤は経済である。