2010年6月18日金曜日

アートな話 「間」について



ここにある鎌倉彫は中国宋代からの影響を受けた唐獅子牡丹の図を、硯箱の蓋に彫った県指定の重要文化財でもある獅子牡丹文硯台の模刻である。

室町から桃山時代にかけて造られたものであるが、作者は不明である。躍動感あふれる画面の獅子を背後で支えている様式化した牡丹と波の構図は、大胆で日本的な抒情性を感じさせ、中国的なものから一歩抜け出た構図となっていて、余白部分を埋め尽くす地紋の様な波は、画面の密度を際立たせている。彫刻も力強くまさに日本のルネサンスたる桃山時代を象徴する鎌倉彫である。背景の波はものを言う(余白)でもある。

     吉川創雲 文具セット「屈輪」2008


上は私の作品屈輪(ぐり)の文具セットであるが、彫刻面に残る余白は物言わぬ(余白)である。屈輪文の発祥の地は中国宋代で「ぐりぐり」ともいわれ、元、明へ流行った彫漆文様の様式である。その文様の原型は雲型で同じ形の連続から渦巻き、蔓草、唐草などに変化していくが、中国の屈輪は余白のないのが特徴である。

                  

古今東西、あらゆる芸術のジャンルにおいて、人間の意識の中に存在するものとして「」という概念がある。

まず時間芸術における音楽では、間の取り方でリズムになったり,メロディになったりし、それぞれの民族による土着性が,様々な国の音楽を作っているのである。
そしてわが国の文学においては、間の妙味と言われる俳句などの独特の表現様式が生まれた.また舞台芸術においては西洋のオペラ、やミュージカルなどのアップテンポなものとは対照的に、日本的な間の取り方が具現化された歌舞伎と言う伝統芸能が継承されてきた。

かいつまんで言うならば、日本文化の神髄は「間」にあるとみていいだろう。それは時間芸術にとどまらず空間芸術における「間」にも現れている。
それは、千利休の茶道でも、芭蕉の俳諧でも、夢窓疎石の作庭法でも通じる一種の日本文化の中で生成した哲学のようなものである。

芸術における表現対象物から余分なものを取り去って、その「間」に、美を観じることにつきるではなかろうか。そこには自己主張的、明示的なものを抑え、さり気なく黙示的な「粋」の精神が、わび、さび、もののあわれとなって見る者のに漂ってくる。


私が図案を考えるとき、絶えず余白「間」を意識する。世界の図案などを概観してみると、時代をさかのぼるほどに民族間の侵略や紛争が多くみられ、それらに曝された時代の民族意匠は、ある心理学者に言わせると、紛争の時代には空白恐怖、すなわち画面上にある余白を忌み嫌い、画面上をすべて埋め尽くす充填構図が多くみられるという。それはとりもなおさず空白恐怖と言った強迫観念がこの構図を生みだした一方、国が安定した時代には画面の余白が増えるという。


わが国の美術意匠に余白の多い絵画的な文様が多いのも、他民族からの侵略もない風土がその感性を育んできたのかもしれない。
日本人は昔から、すべてのものと一緒に生きるという共生という考えを持って生活してきたので、世界の人たちには見られないような特有の自然観・人生観を持つようになった。自然を支配、搾取する西欧の自然観とは対照的に、日本人は自然との同一性、すなわち自然に融合する志向性の強い民族でもある。

2010年6月11日金曜日

外道


先日釣り仲間と南房にフグを釣りに行ったが、白子を期待して釣り上げたフグは全部メスで、釣友全員もオスは全然いなかった。
当日は本命のフグは潮の濁りが入り釣果はパッとせず、外道が6種類釣れた。中でも異色なのは、1.2mのダイナン海ヘビというアナゴに似たやつで、船頭が旨いと言ったので持ち帰り食してみたが、アナゴと同じ食感で意外と旨かった。
釣りの世界では外道という言葉は、本命で狙った魚以外のものをさして言うが、もともと外道(げどう)とは、人間世界の仏教用語で、悟りを得る内道(ないどう)、つまり仏の教えに対する言葉から転じて、道に外れた人をさして言うようになった.

                              環境保護に名を借りた外道たち

最近問題になっている環境保護を標榜する米団体「シー・シェパード(SS)」のメンバーによる日本の調査捕鯨妨害事件で、艦船侵入や傷害など5つの罪に問われたSS抗議船「アディ・ギル号」元船長でニュージーランド国籍、ピーター・ジェームス・ベスーン被告(45)の第3回公判が先月、東京地裁で開かれた。被告人質問が行われ、ベスーン被告は「酪酸がかかっても問題がないと思っていた」などと、改めて傷害罪の犯意がなかったことを強調した。


捕鯨の是非はともかくとして、近年、アメリカやイギリス政府が中心となった国際捕鯨委員会(IWC)や環境保護団体の捕鯨反対運動の裏には、環境保護や鯨種の保護などとは別の意図があるようだ。
捕鯨反対理由の特徴的な事由は鯨が大きな脳を持つ哺乳類で知的生物であるということらしいが、これもおかしな話で、脳が大きいから知能が優れているというのはこじつけで、犬程度の知能しかないものを、異常に海の生態系をゆがめる形で保護することや、鯨類保護が環境保護につながると言ったことは、そこに論理の整合性は見当たらない。

オーストラリア政府は31日、南極海における日本の調査捕鯨の廃止を求め、オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)に提訴した。これにより、調査捕鯨を巡る豪州と日本の対立は国際法廷の場に持ち込まれた。捕獲枠削減などを話し合う6月下旬の国際捕鯨委員会(IWC)総会の議論にも影響を与えそうだ。国際法で認められている調査捕鯨という日本の最後の砦を崩そうと、カンガルーの屠殺国家は躍起になっている。



転じてシーシェパードを抱えている米国は、1972年に捕鯨反対を唱えるまでは、食用ではなく軍事用に鯨を捕りまくっていた。つまりマッコウクジラをその脳漿(のうしょう)の確保のため大量に捕獲していたわけだ。マッコウクジラの脳漿は、戦車用の燃料オイルや潤滑油の不凍液として貴重なものとして今も使われており、このマッコウクジラの脳漿は零下60度になっても凍らない天然の不凍液で、これを人工的に作るには巨額の費用がかかり採算が取れないようだ。
米軍は既にこのマッコウクジラの脳漿を大量に確保して貯蔵しており、 アメリカの安全保障(国防)に関わる重大問題として、キッシンジャー博士が 早くから捕鯨禁止の外交活動を始めた。そのためにグリーンピースなどの 環境保護団体を上手に使ったのだともいえる。

グリーンピース自体世界から環境保護の名目で年間200億の寄付を貰っており、シーシェパードはそこから分派した連中で活動の基盤は同じである。いろいろ活動しているようだが、別の意味でクジラで飯を食っているようなもので、鯨(芸)は身を助けるとはよく言ったものだ。(笑い)
スポンサーを意識してか、今回殺傷能力のあるアーチェリーの矢を4本を所持していた船長を除名したと言っている。

今シーシェパードの酪酸攻撃が問題になっているが、酪酸は皮膚から容易に吸収され、吸収されると体内で代謝されて別の物質に変化し、その代謝産物は酪酸そのものよりも毒性が強く、酪酸が皮膚に付着すると、皮膚から体内に吸収され、体内で毒性の高い物質に変換された物質は血液で体中に廻ることになり、内蔵の細胞なども破壊されていくことになると考えられる。

連中の非道の闘いぶりはまさに海の外道である。

2010年6月3日木曜日

短命


ここでいう短命とは政治生命のことである。麻生太郎にしろ鳩山由紀夫にしろ

戦後の名宰相 の孫である。今日の政治の停滞を見て、吉田茂も鳩山一郎もさぞや草葉の陰で泣いていることだろう。


大言壮語を掲げて理想をぶち上げた鳩山首相の目は遠くを見ていたが、近くの現実を直視するほど、政権運営の困難な壁を乗り越えることは出来ず、道半ばにして、ついにやめざるを得ない局面が訪れた。


「最低でも県外」との自らの発言に反して自公政権時代の計画と同じ沖縄県名
護市辺野古周辺への移設を閣議決定。アメリカに普天間を沖縄に明け渡す明確なメッセージも出せず、署名を拒否した社民党党首の福島瑞穂消費者・少子化担当相を罷免し同党が連立離脱する事態を招き、政権の求心力が低下していった。党内でも、このままでは夏の参院選を乗り切れないとの意見が大勢を占めるようになり、これ以上の政権維持は困難と判断した小沢、輿石両氏に退陣を求められたが、首相は最後まで続投の姿勢を崩さなかった。


「利を求めて集まった衆は、利によって結束もし、また分裂もする」とはよく言ったもので、来る参議院選は党首の首を挿げ替えれば上手くいくと思っているのだろうか?参議院選での敗北が予想される中で火中のクリを拾う党の代表選挙を行おうとしているが、負け戦が分かっているのなら参議院選が終わるまで鳩山を続投させたほうが、次の代表の傷も浅くすむと思うのだが、


 1日、2度目の会談後、首相は「続投ですか」との記者団の問いに、笑みを浮かべ、勝ち誇ったかのように左手の親指を立てた。
「厳しい局面だが、3人で頑張ろうということになった」と説明。続投は「当然だ」とまで語っていた。首相の発言は最後の最後まで、操り人形のようにくるくると変わったが、最後に小沢幹事長の辞任勧告を公の場であえて強調し、身にまとわりついた紐を自らの手で切った。


鳩山・小沢体制の崩壊で、今後の民主党は菅直人副総理兼財務相、岡田克也外
相、前原誠司国土交通相らが中心となるが、現段階ではいずれにも決め手になるような強い求心力はない。気の重くなるわが国の政治である。