2012年7月26日木曜日

ネット社会のうらおもて

7月16日 代々木公園
3月11日の東日本大震災からすでに1年4か月が経過した。震災直後に起こった福島第一原発の事故を契機に、日本国内のみならず、海外でも「反原発・脱原発デモ」が相次いでいる。東京においても、4月10日の高円寺デモ、24日の代々木公園のパレードと芝公園デモ、5月7日の渋谷区役所~表参道デモとつづき、6月11日には、全国で大規模なデモが行なわれた。作家や評論家など知識人の参加者も目立つ。ようやくデモの少ない日本でも大規模なデモが盛り上がってきた。

脱原発運動では、日本でこれまで最大の17万人が参加して「さようなら原発集会」が7月16日、東京・代々木公園で開かれた。猛暑にも関わらず、会場には家族連れや団体、グループ、個人で、北海道から九州、沖縄、そして海外からの参加者が、朝早くから続々と集まった。そして7月20日の首相官邸デモではあのルーピー鳩山が参加するといったギャグのようなサプライズもおこった。


そんな折に東日本大震災に伴う東京電力福島第一原子力発電所事故で、日本の国会の事故調査委員会は5日、事故原因に関する報告書をまとめ、緊急事態への適切な対応などを欠いた「明らかな人災」との見方を示した。
 人災をもたらした責任は、東電や原子力行政当局、日本政府にあると結論付け、対応の遅れは「日本の特質」にもあると指摘。
「日本製」の災害と形容し、上部機関当局に疑問をぶつけることをためらい、プログラムの手順に固守する風土などが災害拡大を招いたと主張した。今や福島の問題が解明解決しないまま、原発再稼働に踏み切る国に対して多くの国民がNOを突きつけている。
このように反原発脱原発運動は、ネットを通じて拡散、拡大化していき、あらゆる反対運動は内外を問わずネットという武器を得て民衆に浸透していく。まさにアラブの春が広がったように、21世紀のネット社会は独裁国家をも揺るがしていく。


その一方でネットはその匿名性により無責任な発言や誹謗中傷に至るまで、ありとあらゆるものが垂れ流されている。匿名という鎧を付けて人は非日常的な発言や傲慢な行動を目論む。私は非人称である匿名の物言いは信用しない。なぜなら匿名という仮面に隠れた相手には名指しで批判されることもなく、言ったことに対する責任も及ばないからである。そのため有害無害を問わず無責任な便所の落書きのような書き込みが多いのもネットの別の一面である。

2012年7月21日土曜日

近頃思うこと


最近些細なことでカッとして人を刺したり、駅のホームで人を突き飛ばしたり、大声で怒鳴り合う風景などを通して、現代の日本のストレス社会が生み出す社会現象が論じられている。その短絡的で理不尽な事件の多いことで受け取る側も、またかと日常的な事象としてやり過ごす。その背景には最近の国内経済の悪化と共に若年層や30代40代に至るまで、その生活環境は厳しさを増していることが伺える。鬱積していた不満や怒りが臨界点に達したときに,他者に対する攻撃がはじまる。事件を起こした連中の決まり文句は、「誰でもよかった。」である。犠牲者は各地で増えているが、この通り魔的な犯罪と対極にあるのが、全国的に非常に多い公立学校のいじめ問題である。最近報道された大津中学校いじめ事件は衝撃的だ。

荒廃していく教育現場

いじめには「誰でもよかった」ではなく、自分より弱い者に攻撃の矛先が向かう。その根底には人間のもつ潜在的な支配欲が働き、自分の手中で弱者をもてあそび自由に操作するメンタリティが、類が友を呼んで、狭い学級空間の中でいじめはさらにエスカレートしていく。そしてそれが恐喝および金品の強奪まで発展し、最悪は被害者を自殺に追い込む、まさに加害者は学校社会から逸脱した一般社会の犯罪予備軍である。同時に学級教師の学級統治能力のないことや、校長ー教育委員会ー文科省と続くシステム(一般社会と隔絶した風通しの悪いムラ社会)の欠陥が招いた悲劇でもある。その構造は原子力村が身内で保安院や安全委員会を運営しているのと同じである。

文科省が掲げたいじめの半減目標を定めた成果主義によって、各学校や教師の査定をすることにより、実際はいじめが増えているのにいじめが存在しないように取り繕うため、臭い物に蓋をするだけで臭いのもとを根絶する気概が学校も教育委員会もない。そこには自分たちの点数を下げないためにいじめを隠蔽する体質が肥大化した姿しかない。事が取り返しのつかない事態になり公表されると自己弁護に走る姿は報道を見てのとおり。この間警察に3度の被害届を出した親も警察に却下され、事態が訴訟問題にまで及んだため警察も重い腰を上げた。ストーカー事件で懲りない警察の姿が再び浮かび上がる。市民の命を守れない警察も、子供たちの命を守れない教師も情けないかぎりだ。


上の画像は学校が取ったいじめアンケート内容の概要と、これを口外しないことをアンケート提示の条件にした学校側の親への確約書である。いずれもひどい内容でとても容認できない人権侵害の結果である。もはや学校も教育委員会も知らぬ存ぜぬでは済まされない事態になった。

大津市の越市長はこれまでの市教委の対応のまずさを改めて認めた上で、その遠因に教育委員会制度の矛盾があると指摘。「市民に選ばれたわけではない教育委員が教育行政を担い、市長でさえ教職員人事などにかかわれない。民意を直接反映しない無責任な制度はいらない」と述べ、国に制度改革を求める意向を示したことは一歩前進である。
背景にある小中学校の教職員の実態は、都道府県がその給与を負担しているために都道府県の職員である。極論すれば公立の小中学校は市町村の管理を受けない治外法権の場と化している。これに市長はメスを入れたのだ。 

 文部科学省、都道府県教育委員会、市町村教育委員会、学校という中央集権的教育行政の人達では、いじめ問題を解決することは不可能で、そろそろ国も予算を組んで外部の監査機関を設置し市町村に小中学校の教育統治を委託したらどうだろう。明日を担う子供たちの心の荒廃を広げないためにも。




2012年7月10日火曜日

看板


五月に約束していた土肥港のとびしま丸の看板が出来上がったので、船長に送った。古来看板にはいろいろな形態があるが、主なものは屋号や組織名が書かれたものが多い。書体もいろいろあってすぐに看板主が分かるものから、屋号から業種を想定するものまで多種多様である。右の写真は私どもの工房の看板で、作成してから8年ほど経っている。
看板にまつわる言葉も巷には少なからずある。看板娘、看板役者、看板商品、看板メニュー、看板教師、看板事業、おっと、忘れてはならないのが民主党の看板(マニフェスト)だ。看板に偽りありとはよく言ったものだ。


看板メニューがことごとく消され、最後に残った民主党の文字も薄くなり、看板自体も下ろさざるをえなくなってきた。これだけ虚偽の多い政党も珍しい。
国民を馬鹿にするのも程々にしてもらいたいものである。「口に言うは易し行うは難し」で、政治は結果責任を取れなければ退場しかないだろう。マニフェストを作った小沢も反小沢も同類のレッドカードだ。三代続いたリーダーの体たらくに国民は愛相もクソも着き果て政局は混沌を極める。カオスから新党が生まれ、やがて離散を繰り返す。この国は何かが欠落しているようだ。
対外的に見ても顔(看板)のない国、日本。聞こえてくるのは国民のため息と官僚の高笑いだけである。

2012年7月1日日曜日

釣り談義

15階からの鴨川海岸

この時期になると、一度は出かけるのが外房のイサキ釣りである。常宿にしている会員制ホテルに一泊しての2連続の釣りの予定を組んで、今回は釣友の一人で工務店をやっているKさんと出かけたが、釣果はさっぱりで、房総くんだりまで釣りに行ったのか飲みに行ったのかわからない結果に終わった。

当日勝浦初栄丸での午後のメバル釣りは、うねりが強く残っていて出船できず鴨川に直行した。翌朝のイサキ釣りに備えて鴨川市内の居酒屋を探していたら、3軒ハシゴしてしまった。気が付けば吉田類の居酒屋放浪記状態で、最後の2軒は久しぶりのカラオケで時間が過ぎてしまった。


翌朝月曜日だというのに釣り客が10名と混んでいた。江見港から出る新栄丸という初めての船に乗ったのだが、よくしゃべる船頭で操船中も釣りの講釈から始まって、最後はボヤキに終る。イサキの型が小さく数もあまり出ないので、イサキを餌に泳がせをやってみたが大物の気配もなかった。外道はメジナ、ハナダイ、アジ、ウマズラで本命は中小型が15~6匹といったところか。







イサキは気難しい魚で、食わない時は一向に釣果が上がらないが、食いが立っている時はバカみたいに釣れる。この魚は生息域によって味の違いがあって、東京湾湾口の剣崎のイサキが旨みと脂のノリが申し分ない。しかし年々大型が少なくなっているのが残念だ。釣期も6月から8月一杯だが、8月も終わりごろになると脂が抜けてくるから味が極端に落ちるのがこの魚の特徴である。
千葉のイサキは、外房大原、勝浦、南房総白浜、布良、洲崎、最後に江見と釣り歩いたが、数は出るがいずれもこれより味は落ちる。むしろ相模湾東寄りの根付きのイサキの方がこれに近い旨みがある。美味美食を追求すればきりがないが、魚を知ること、旬を知ることが日本人に生まれてよかったと思うところでもある。