2010年8月24日火曜日

安楽死


お盆になるとうちの寺から慣例のお施餓鬼法要の案内があり、墓参り方々塔婆を貰いに行った。今年も半ば過ぎの行事である。

万物の霊長たる人類は、自然界のあらゆる生物の命を頂いて日々生きている。仏教ではこれを殺生と呼んでいるが、原始仏教では肉食(にくじき)は殺生戒めに触れることから忌み嫌われて、今日我が国では精進料理というものが発展してきた



私の殺生は魚類である。釣りを始めて25年、釣った魚は150種類は超えているが、その中でもお世話になった魚たちの供養のために彫ったのが私の作品 飾り皿「鎮魂歌」である。

釣った魚を美味しくいただくには、魚をいつまでもバタバタ苦しめてはならず、ナイフでコメカミ当たりの急所を刺して安楽死させる。口を開けてすぐ動きが止まったら成功である。そのあと必ず血を抜く、死後硬直に入る時間を遅らせ身を活かす処置でもあるが、魚の臭みの大元である血も流すのである。この血抜きは島周りの釣り場では、サメが寄ってきて釣った魚を横取りされるので禁止されている。遠洋の職漁船で捕るマグロにおいて、長時間バタバタ暴れ過ぎたマグロは、体温が上昇し身が焼け、肉に細かい斑点が出てまずくなるので、ズボ抜きと言ってエラを内臓ごと引き抜く作業をする。ちなみにフグ類はポンプで生かしていても狭い所でのストレスから皮から毒を分泌するようだ。
ところで、釈迦は80歳まで生きたが、亡くなった原因はキノコ料理の食中毒であると言われているが、一部の学者からは豚肉料理であったと主張する者もいる。釈迦がその料理を食べる前に、他の者に食べさせないように語った言葉が残っているとも言っている。仏教では釈迦が没した(入滅)日を仏滅、あるいは涅槃(ねはん)と呼ぶ。

さて話は変わるが、豚肉は周知のようにユダヤ教に端を発するキリスト教やイスラム教では程度の差はあれ、豚を食べることを制限している。ユダヤ教徒にとっては、特に豚の肉は悪魔と同等にして忌むべきものである。 砂漠 や周辺の乾燥した気候では、寄生虫 を持つ豚の肉を十分に加熱するための薪や燃料の調達が困難であり、調理の不十分なまま豚肉を食べたことで健康を害し、あるいは死に至るなどした経験がその原点に存在するとも言われる。

ユダヤ教にルーツをもつキリスト教 徒もその多くは、豚を食べる事を制限する傾向があったようだ。新約聖書でも、イエスが悪魔に憑かれた人間から悪魔を追い払い豚に乗り移らせ、湖に走り込ませて溺死させた事が書かれている。

イスラム教 はキリスト教と同様にユダヤ教をルーツとし、キリスト教も内包するイスラム教 徒の制限は、ハラームとは禁止されたと言う意味であり、食べることを許されない食物の事をさす。イスラムの正式な屠殺方法で殺された肉以外はハラームに該当し食べてはならない。豚や肉食動物などは無条件でハラームとされている。イスラム教徒の中では豚は特に忌み嫌われており、ユダヤ教徒と同様に悪魔の化身に等しく扱われているが、他国にいる連中には食する不心得者もいるという。
またイスラム教では飲酒を禁じており、これは酩酊を楽しむ文化・手段としてもっぱら麻(大麻 )が用いられてきたという歴史的経緯に拠っている。世界の酩酊文化は大別して酒(アルコール)と麻に二分されており、どちらかが主流の社会では他方を禁忌とする例が多く、イスラム圏ではこの例に漏れず、麻が主流であり酒を禁忌としているということである。これに反した者には鞭打ちの刑が待っている


ヒンドゥー教  では牛を聖別するため、牛肉食に関する制限があるのみならず、多くが菜食主義者である。 また、菜食主義 の例として、マハトマ・ガンディー は、菜食主義者のカースト出身であった。しかしもちろん建前と本音の乖離は、他の社会同様小さくなく、歴史上王侯貴族は肉食を楽しんでいる。


命あるもの誰もが苦しんで死にたくはないはずである。それにしても最近の世の中来るところまで来たかという衝撃的な事件が大阪で起きている。母親による幼児殺害であるが、幼いわが子2人を猛暑の続く部屋で、食料も与えず目張りまでして長期間放置した揚句死なせた事件であるが、自分の欲望のために殺意を持って行った行動は、すざましいばかりの母性崩壊である。悪魔の仕業であろうか寒気を覚える事件であると同時に、助けを求めて泣き続けた子供たちに為すすべもない周辺住民の無関心さと、行政の不備は否めないだろう。

命の重さが軽んじられている昨今ではあるが、我々夫婦は最後の時は、延命措置をしてまで生きることは止めようとお互い言っている。人間泣いて生まれて来たのだから、死ぬ時は笑って死にたいものである。人間いつ死んでもおかしくはないのだから、のっぴきならないこの生を謳歌し悔いのない人生を送りたいものだ。

2010年8月18日水曜日

大人のおもちゃ


大人のおもちゃを買った。と言っても電子板とでも言うべきか、いわゆるお遊びボードのipadである。人気の商品なので入手まで3週間かかった。初物食いの私としてはつい手が出てしまった。小型ながら重量は680gある。バッテリーのもちもいいのでセカンドPCとして使っている。

パソコンの重ったるさとは一線を画した、早くて実に快適なネットサーフィンが出来る。外に持ち歩かないからもっぱら家庭内の無線ランで、居間や工房、作業場などで見ている。コンテンツも豊富で、電子書籍も買える、音楽もダウンロード出来るし、保存していた写真や、デザインも即座に出てきて、図案を考えるときには便利である。唯一難点は、タッチパネルでキーボードをたたくと指先の少しのずれで誤字が出るのと、スクリーンがガラスのため指の跡がベタベタ付き、こまめに拭かなければならないことであろうか。

居間でねそべって、テレビを見ながらタッチパネルの液晶端末であるipodで番組表を見たり、調べ物をしたりで、退屈はしないおもちゃである。

アマゾンのキンドルを意識して電子書籍をめくるように読めるが、今のところ電子書籍は英文のものが多い。やがて日本語の書籍も今後増えていき、将来は重い本を持ち歩かなくてもこれで見れるわけだが、アマゾンなどは本はもとより日用品やあらゆるアイテムもネットで購入でき重宝している。書籍に関しては日本はまだアメリカにほど遠いが、いずれ紙の文化が電子文化に移行する日もそう遠くはなさそうだ。

いまのところiPadで読める日本語の電子書籍はアプリとして売られているが、アプリの「ブック」のカテゴリには現在すでに1686点もある。検索もできるが、検索するには目的の本の著者名か書名だけでもわかっていなければならない。漠然とミステリが読みたいとかSFが読みたいといったことになると、ひたすら探し回るしかなさそうだ。日本語の本と英語の本が分かれているわけでもなく、現状では英語の本が多いから、日本語の電子書籍をまともに探して読もうとすると、そうとう厄介だ。

ibookstoreのほうも現状では、ジャンルが「伝記・回想録」「フィクション&文学」「歴史」「宗教&スピリチュアル」「旅行」の5つだけ。英語の本ばかりである。今のところ本の購入はアマゾンですべて賄っているので、ipad で読むものとしては、所蔵本をPDF化したり、スキャナーでコピーしたものを読んだり見たりすることが増えるだろう。

この先、IT文化の広がりと可能性はどこまで進むのだろうか?
同時に社会構造や産業構造の変革も速度を速めて行くことになるだろう。世界はテクノロジーの面では刻一刻と進化しているが、それを使う人間がセキュリティーのもとを握っている。ipad自体セキュリティに問題はないとアップルでは言っているが、すでにアプリの脆弱性も指摘されている。

原爆の父アインシュタインの言葉、「20世紀は核兵器が武器になり、21世紀は石が武器になる。」といった強烈なメッセージは人類の明日を予見したアイロニーとして心に刻まれる言葉である。

2010年8月11日水曜日

核無き世界は幻影か?


原爆被爆から65年たち、広島では8月6日に平和記念式典がおこなわれ、ルース駐日大使や潘基文国連事務総長をはじめ米英仏から初めて代表が出席することになった。
その背景にはオバマ大統領の核無き世界の構築の過程で、核戦争当事国として世界に向けての最大のプロパガンダになる今回の式典に臨む意図が見える。


オバマ大統領の「核なき世界」とは何か。今後アメリカはみずからと国連による政治圧力で小国に核廃絶を強行し次に寡占国にまで廃絶を求めながら、アメリカが最後の核廃絶国になることを目指す。これがアメリカの新たな世界核支配構想であるが、核に代わる強力な国家間の緩衝材がない以上、縮小はあっても廃絶、ゼロにはならないだろう。それが人間のどうしようもない業(カルマ)と言うものだ。


安保理の核廃絶決議も核不拡散条約も対象としているのは北朝鮮、イラン等核寡占国(米、ソ、英、仏、中:安保理常任理事国)以外の国々であり、目的としているのは核寡占国の寡占維持に他ならない。このことは最近の核技術の簡素化で今や核兵器がアルカイダ等テロリストの手に渡る可能性
が出てきたことを示唆するものだ。核兵器がテロリストの手にまで拡散されるようになればアメリカを
筆頭に核寡占国の核抑止力が効かなくなる。ならばむしろ世界から核をなくしてしまえばいいではないかという理論が出るのも当然のことである。まさに最近のアメリカ映画を地で行っているような状況である。




広島長崎に原爆が落ちた年は年末までに、両市合わせて民間人20万人以上が犠牲になった。戦争はどの時代でも国家の違法性がつきものであるが、米国の犯した違法性は結果の甚大さからみると特出している。すなわち国際法(ハーグ陸戦協定)では非戦闘員(民間人)の殺戮禁止が謳ってあるにもかかわらずである。
イラクや、アフガンでの間違って攻撃された民間人のレベルではない。恐ろしいことに米国の右派をはじめ多くの米国民が原爆投下は正しかったと認識していることである。右派の突き上げが激しい米国議会の圧力もあって、駐日大使はどうやら長崎までは足を運べないらしい。


戦後、中華人民共和国を意識した核抑止力として日本返還前の沖縄に配備されていたものに、国立アメリカ空軍博物館に展示されているCGM-13B戦術地対地巡航ミサイルがある。もちろんこれに核弾頭装着は可能である。(右写真)

沖縄本土復帰36年の今年、「核抜き・本土並み」での返還の約束の下、返還前に沖縄に貯蔵・配備された核兵器はすべて撤去され、返還後に米国政府が沖縄に核兵器を持ち込む場合には日本政府と事前に協議することが必要となった。しかし、今日ではよく知られた話であるが、この「核抜き・本土並み」返還には裏があった。

「密約は返還のための代償だ」として佐藤首相を説得し、密約の草案を作成したのが、首相の密使、若泉敬・京都産業大学教授だった。若泉は、1994年に著作『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』でその秘密交渉を暴露し、2年後に亡くなった。
沖縄返還交渉に佐藤の密使として関与した若泉によれば、有事の際に事前協議なしに米国が沖縄に核兵器を再び持ち込むことに日本政府が同意する旨、佐藤とニクソンが密約を交わしていたという。


しかしその後、さらに時代が進むと、戦術核の必要性も低下し、わざわざ戦術的な目的のために小さい核兵器を使わなくても、効果的に敵軍を止められる戦法や兵器が開発された。さらに冷戦が終わり、核でないと止められないような大軍が攻めてくる恐れが劇的に減ったことで、この流れは強まり、かつて韓国に配備されていた戦術核は、韓国政府の反対にも関わらず撤去され、またヨーロッパに配備された戦術核も次々に撤去・削減が進んでいる。

戦略核として陸上では大陸間弾道ミサイル(ICBM)は、その命中精度がぐっと上がり潜水艦に搭載して海中深くに隠しておける潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)も同じレベルにあると言われている。そのような最新兵器(戦略核)が存在する中で、戦術核を前方配備する必要性も低下したこともあって上記のような状況になっている。

オバマも佐藤首相もノーベル平和賞を授与された国家元首である。佐藤は非核三原則やアジアの平和への貢献を理由として、オバマは核兵器無き世界の構築を目指していることを評価され、道半ばにして受賞している。(まだ始まったばかりであるが、世界の期待が大きいことを物語っている。)

今一度矛盾を秘めた平和の意味を考えてみたい。



 

2010年8月2日月曜日

アートな話「写実からデフォルメへ」



デッサンは、絵画や彫刻における対象物の把握、認識にいたる手段であるが、それは描いた人の技量だけでなく、ものの見方や考え方がむき出しになるものでもある。
描く対象(モチーフ)と自然の理(ことわり)の間で描き手が、技術と感性のはざまでいかにさまよったかが分かる、ある意味で怖い絵である。

             野田 弘志 「鳥の巣」 鉛筆


学生時代、東京の下町に下宿していた頃、日暮里に太平洋美術研究所という所があった。画家志望の友人に誘われて、時々裸婦を描きに通ったことがある。あらゆるモチーフの中で女体に興味があった年頃で、どちらかと言うと短時間に仕上げるクロッキーだったと思う。1ポーズ20分ぐらいで、描く道具は自由で鉛筆、木炭、パステルと使ってみたが、そのころ描いたものは、引っ越しを繰り返すうちにすでに無くなってしまったが、、今思うと気恥ずかしいクロッキーであった。当時裸婦にあこがれていたこともあり、後年見た印象ではギラギラしたデッサンで、顔は概念的にモデルのアンニュイな雰囲気と違った顔になっていた。


さて、デッサンについてまわる精緻な観察と、息詰まるモチーフとの対話から解放されたところにあるのがデフォルマシオンである。
デフォルマシオン(変形、歪形)とは造形芸術において、一般的には自然界に与えられている標準的な規範を変更することを意味するもので、意図するしないにかかわらず再現されたものとその原型との総意を現わす言葉として使用される、一般的にはデフォルメと称しているものである。



あらゆる創造的な要求は、常に自然界の単なる模写、写し取りではなく、何らかの解釈である以上、デフォルメは表現に付きまとうものだ。
20世紀に入り、表現目的のために意図して形をゆがめるという芸術家の造形意志としてのデフォルマシオンは、彫刻や絵画において顕著にあらわれた。
右の彫刻は今年サザビーズのオークションで95億円で落札された、ジャコメッティーの「歩く男」で素材はブロンズ。かのサルトルに「現代における人間の実存を表現したもの」と言わしめた作品である。



ジャコメッティと対照的なのが、右の彫刻ヘンリームアーの「横たわる女、肘」である。
ヘンリームアーの彫刻は人間と自然との融合を、あるいは人間の普遍性を素材の石を巧みに利用して表現している。そのホルムは豊曉さに満ちた生命のかたちである。


デフォルマシオンは、ある既知の事物、たとえば人間の姿かたちをある程度の再現を残しつつも、その対象の標準的な規範を変更させることで、別の意図したものを恣意的に表現する手立てであり、その対象に見出される有機的な形態から本質的なものを抽出するという意味において、自然な衝動から発しているものである。