2011年2月21日月曜日

八百長

世の中、相撲八百長で揺れ動いているが、大相撲に限らず官民挙げて日本社会によくある構造がここから見てとれる。


根底にあるのはこの種の「貸し借り」であり日本社会に広く見られる慣習である。会社の中の人間関係でも商慣習でも、「貸しをつくった」とか「借りを返す」といった行動が実に多い。

人間関係でも商売でも、こうした「貸し借り」でお互いに困ったとき、助けあうのが日本の伝統かもしれないから、長年くすぶっている八百長疑惑は、観客にとっても織り込み済みであると言えよう。現に毎日新聞の世論調査では、相撲の八百長は以前からあったと思うと答えた人が、調査中93%を超えていたことから根の深いことが分かる。



八百長は明治時代の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべえ)」に由来するといわれる。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であった。囲碁の実力は長兵衛が優っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとっていた。

しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたり、以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになった。(ウイキペディア)


大相撲の隠語では八百長は「注射」真剣勝負は「ガチンコ」という。対戦者の一方のみ敗退行為をおこなう場合は「片八百長」と呼ばれることがある。星の貸し借りがカネで換算されるという分かりやすい八百長ではあるが。八百長の肝心なことは第三者にばれないことである。しかし従来から取りざたされてきた大相撲の八百長疑惑は物証がないから協会側もしらを切り通せたが、今回は携帯電話の解析による物証を突き付けられた。国技という名のもとであらゆる面で優遇されていたこの公益法人は今や存亡の危機にさらされている。もはや公益法人と言う権益の上に胡坐をかいている時代ではなくなった。


写真の放駒理事長の現役時代(魁傑)は大関は負け越すと休場するのが慣例だったが大関で負け越しても「休場は試合放棄と同じだから私は休場しない」と千秋楽まで相撲を取り続けたのも大関陥落後に再び大関に返り咲いたのも放駒理事長であり、典型的なガチンコ力士でもあった。



いわば興行の世界で 八勝七敗は、勝ち越しであり、地位が安泰。 七勝八敗は、負け越しであり、地位が陥落というきわどい世界で、ましてや十両とそれ以下では報酬の差が、たとえ親方から小遣いをもらているにしても、100万と〇と報酬の差があるのは、異常な世界であり、そこに八百長の余地が無いという方が不自然である。もちろん1勝に心血を注いでしのぎを削っている力士が数多くいることは当たり前の話であるが。興業、賭博と言ったキーワードに絡んでくるのが暴力団の影と臭いである。協会は膿を出し切ると言っているが、膿は留まるところを知らないどころか後から臭いにおいがついてくる。


たった1勝の差で、大差が付く。七勝七敗で千秋楽を迎えた力士にとって、次の1勝の価値は、1場所全体の星にも匹敵する。 これは、特定の1勝の価値が大きく変動するという意味で、きわめて非合理なシステムでシステムの改革をしない限り、今後も同じ問題が出てくるだろう。
野球賭博に端を発して、自らの星をよりどころに相撲賭博にまで手を染めている力士が広がっているという事態は、何をか言わんやである。

2011年2月13日日曜日

アナログとデジタル



CP+が9日から12日(土)まで横浜・パシフィコ横浜で開催されていて、最終日に少し時間があったので、駆け足で見て来た。
昨年まではフォトイメージングエキスポ(PIE)という名称で行われていたが、新しく(Camera & Photo Imaging Show、シーピープラス)という名称でスタートしたカメラなどの展示会イベントである。



CP+(シーピープラス)は、国内外の写真映像に関わる企業が集まり、カメラ・レンズをはじめフォトプリンター、フォトアクセサリー、望遠鏡、その他写真関連機材など、多岐に渡る写真映像関連商品や最新技術を紹介する場であり、“撮る・見る・つながる”をキーワードに、あらゆるセミナーやイベントを通してより楽しく豊かなフォトライフを提案する、カメラと写真映像の情報発信イベントである。
2回目に当たる今回は“ワールドプレミア ここからはじまるフォトイメージング”とテーマを掲げ、より国際的に、カメラおよび写真映像文化の最先端の情報を発信している。(CP+ HPより)

各メーカーのブースには、写真家がそれぞれの製品の性能を実際の映像を駆使して解説するコーナーもあり、見ごたえがあったが、1時間半ほど展示会場を回って会場を後にした。

私が長年使用しているカメラは、アナログタイプでニコンF3とミノルタのAFタイプの一眼レフだが、現在は画像処理や利便性から、ほとんどニコンのデジタル1眼レフと、コンパクトカメラを使い分けているが、他のメーカーの最新のスペックをカタログで知ると、また新たに触手が動きそうだ。特にカシオが写真革命と謳っているコンパクトカメラのEXILIMの新機種が3月上旬に発売されるのが楽しみだ。

さて世はまさにデジタル時代である。情報技術 Information Technology、略称:ITの進歩で文字や画像といった情報が全て0と1に標準化され、ネットワークで自由に共有されている現代社会では、電車に乗っていても街中にいても携帯で親指を動かしている人の多いことか。
筆者は小さいボード上で親指を動かすのが面倒で、携帯は電話機能だけ使用し、メールはPC以外やらないことにしている。また各社携帯はスマートフォンに移行していくので、この先ますます情報端末としての利用が増えていくだろう。
今、高校生の携帯所持率は7割以上とも言われている。特にメールについては、迅速に一度に多くの人へ伝達ができるため、友人との連絡はすべてメールという学生や、また職場では仕事の指示や報告はすべてメールという形態が日常化しているようだ。


一方、コミュニケーションの基本は人と人が直接対話することであるが、人は文字によるデジタル情報だけでなく、目や耳から入るアナログ情報も不可欠のため、メールといった文字だけのコミュニケーションでは、このアナログ的な情報が入ってこない。自分が伝えたいことを相手に「わかる」ようにすることや相手の伝えたいことを「わかる」ためには、直接相手の顔色を見ながら話をしなければ分からないことがたくさんある。日頃の対面コミュニケーションがあってこそ信頼関係が生まれ、デジタルツールの便利さも後から享受することができるのであろう。機械はデジタルになっても、人間はデジタルにはなりきれない。

2011年2月8日火曜日

元町界隈


2月になって最初の日曜日、久しぶりにカミさんと元町に食事に出た。


娘が担当しているTV番組「キッチンが走る」に出演して頂いた和食の料理人、元町SIMOMURAのオーナーシェフ下村邦和さんの店である。
店は横浜元町の入口あたりにあり、こじんまりした3階建の店で、当日は3階の席が用意されていたが、12時頃には1階から3階まで全フロアーが満席の大盛況である。(店と下村氏のプロフィール詳細はURL参照されたし


創作料理の和食は素材を活かす工夫が随所に見られ、絵の具で例えれば原色のメリハリの利いた色ではなく中間色の妙とでも言おうか、作り手の技が味を鑑賞する側に、研ぎ澄まされた舌を要求するような絶妙な味を醸し出している。この味が分かるかなーといった具合にそれぞれの食材が味を鑑賞する側に語りかけてくる。店で自叙伝の小冊子を頂き読んだが、最後の一節には「人生の機微に触れ、食材に感謝し、素材の旨みを引き出すのではなく、素材の旨みを迎えに行くことを悟った。」と締めくくってある。ご本人は厨房で大忙しだったので話は出来なかったが、帰りには店の入り口でお見送りいただき、特製のロールケーキまでお土産に頂いた。


当日のランチ、左から黒豚の黒煮、季節野菜の茶わん蒸し、雪のしずく、ほか6品 陶釜炊きご飯(あさり)ご飯は多めで残りはおにぎりにしてお持ち帰りOK。


元町は、JR石川町から近いので山手公園でテニスをしていた帰りによく歩いたが、久しぶりに来てみたが2年前とあまり変わっていない。下村さんの店も元町に出店して2年と日は浅いが、店内は特に女性客で賑わっていた。飽くなき美食とショッピングと、どこを見ても女性は消費の王様である。

2011年2月6日日曜日

アートな話「色について」

 ◆青について

 
写真は1972年に発掘された国宝の高松塚古墳壁画の一部<西壁の女子群像図>。この中でひときわ目を引く青色が最新の技術(蛍光撮影分析)によって最も高貴とされた鉱物性顔料の青「ラピスラズリ」がふんだんに使われていた事実が明らかになった。この「ラピスラズリ」、実はアフガニスタンの山中でしか産出しない鉱物である。


 今は無き日本画家の平山郁夫氏の解説によると、西欧文化圏にはインド洋からイエメン、メッカなどを経てコンスタンチノープル以西にも輸出されたが、東方向には絹の道を通って洛陽、長安の中華文化圏にもたらされ、さらに極東の朝鮮半島、そして東の極まった「日出づる処」の国、日本にも到来していたことが、「蛍光撮影」のような手法によってあきらかにされたそうだ。 平山氏は日本画家としても多くの仕事を残されたが、同時に古美術品の修復や保存、古代の姿の正確な復元などに、科学的な手法をふんだんに投入され、完全に新しい分野を築いた人である。


   

葛飾北斎とべろ藍 


時代を遡ること江戸中期を迎え当時の浮世絵の版元 西村屋与八は「富士山」を画題として、新顔料「べろ藍」の魅力をフルに発揮する新しい浮世絵連作を葛飾北斎に依頼した。誰もが目にし、身近に感じる富士の山が江戸庶民の身近に存在していることに着目した与八は、地本問屋永寿堂を今の日本橋馬喰町に構えていた。北斎は永寿堂の期待に大いに応え、「べろ藍」の魅力をフルに生かす富士山の連作を発表する。それが今日「富嶽三十六景」として全世界にあまねく知られる作品成立の経緯である。この「富士山」が江戸で大ヒットした。北斎は後継の類似作品を量産することになり、北斎と言えば富士山が定番になった。

この北斎の、最もよく知られた代表的作品「富嶽三十六景」は「べろ藍」の発色効果をもとに考案された所産であるが、実はこの「べろあい」という風変わりな顔料は長崎を通じて輸入された南蛮渡来の鉱物性顔料だった。
すなわち「べろりん藍」のもとの名前は「ベルリンブルー」つまり「プルーシャンブルー」あるいは「デルフト青」などとも呼ばれた、ザクセン王国エルツ山脈の銀鉱で不純物として分離された青色顔料、つまり「ザクセンの酸化コバルト」の藍色である。

北斎は1849年に数え年90年の生涯を閉じてこの世を去るが、19世紀後半、ペリー来航後の開国によって日本から文物が流出してフランスに導入されると、いわゆる「印象派」画家たちは浮世絵の色彩と構図に仰天し、圧倒的な影響を受ける。俗にジャポニズムと呼ばれる現象だが、実はこのジャポニズムの頂点として賞賛を浴びた北斎の富士山が、当時フランスが大嫌いだったドイツのコバルトで印刷されていたとは、印象派画家の誰一人として知ることはなかったと言われている。

いっぽうで青に関連して江戸庶民の色、藍は藍染として広くもてはやされた。江戸時代後期になると、一般庶民に藍色に染め上がった布地が広く普及したのだが、初めは耐久性から仕事着として使用された経過は、アメリカのジーンズに類型をみることが出来る。片や染料の藍、片や顔料のインディゴと現代でも広く知れ渡っている。藍は海外からジャパンブルーの名で親しまれている。
上は藍の葉


他方海外に目をやれば、ドイツと言えば「マイセン陶器」なかでも有名なのがブルーオニオンだ。過去に数多くのブルーオニオンが出ているがオリジナルは1739年のマイセンのもの。東洋の縁起の良い模様を真似て、ザクロ、桃、竹、菊が描かれている。プレートのリム部分のザクロが玉ねぎからこの名が付いたと言われている。あまりに類似品がでまわってしまったため、竹の根元とプレートの裏に双剣のマークを入れ、マイセンのものとわかるようにして、今も作り続けられている。

ブルーオニオン

マイセン窯草創期、日本や中国の東洋の東洋磁器に描かれたコバルトブルーのザクロが西洋に伝わったさい、西洋ではザクロが一般的では無かったためタマネギと誤認されたことから作られた図案。上絵付釉の調合技法を開発したヨハン・ヘロルトが絵付け部門の指揮者を務めていた1739年に完成した。1860年代に意匠登録されたが、19世紀末の財政危機の際に使用権が売却されたため、現在ではマイセンの他、フッチェンロイターやデュビでも生産される。白い陶磁器を作る技術は東アジアで開発され、ヨーロッパ人はそれを取り入れようとした。同時に東アジア特有の絵柄(柳、行灯を持った人、ザクロなどの縁起物)も浸透していった。現在はその模様を世界中の陶器やガラス会社が模倣するようになった。(ウイキペディア)




2011年2月2日水曜日

独裁政権の末路


チュニジアに続きエジプトの独裁政権が崩壊の危機にさらされている。23年間にわたってチュニジアを支配してきたベン、アリ大統領がサウジアラビアに亡命したあと、エジプトではチュニジアに触発された民衆がムバラク大統領に向かって反旗を翻した。


今回の事態の発端は、昨年の末に、八百屋を営む一青年が政府に抗議して焼身自殺をしたことに始まった。政府の役人は民衆の苦しみをよそに、平然と賄賂を要求し、それを拒むと店の品物を没収する、こんな腐った役人が支配する政治はくそ食らえと青年は訴えたのだった。インターネットの普及などでこの訴えにこたえて、おびただしい若者たちがベン・アリ政権に対して、強烈な反乱をはじめ、各地で大規模なデモが催された。政府側はこれを武力で粉砕しようとしたが、そのたびにデモの規模は膨らむばかり。ついには国全体を巻き込んだ大規模な内乱に発展していった。

チュニジアと言えば古代地中海世界で繁栄した経済国家カルタゴである。その国でインターネットによる革命が起きた。チュニジアの国花はジャスミンであるからネット上でこの革命がジャスミン革命と呼ばれるようになった。

チュニジアのジャスミン革命の振動がエジプトを揺さぶっている。ムバラク大統領は2日次期大統領選に不出馬を表明したが、即時退陣を要求する民衆の騒乱事態は収まっていない。
亡命先のエジプトでもインターネットの威力は大きく、30年間権力の座に座り続けているムバラク大統領にも火の粉が飛んできた。インターネットや携帯電話を封鎖統制しても民衆の勢いを止めることは出来なかったのだ。

毎日のように群集がカイロの広場を埋め尽くし、ムバラクの退場と政治の民主化を求めて叫んでいる。その波は地方都市にも広がり、国民全体が変革を求めて動き出した。連日日本の観光客の空港で足止めを食った映像が流れている。

1981年にサダト大統領が暗殺され、副大統領だったムバラクが大統領に就任して以後30年、自分の息子を次期大統領に据えようとしているのは、北朝鮮の独裁者金正日と同じである。長年の民衆の不満は頂点に達し、ついに爆発した。今や将軍様も夜も眠れない日が続いていることであろう。

それにもまして戦々恐々としているのは中国である。この中東全土に広がりつつある内乱が、膨張経済下でインフレに苦しめられた生活困窮民衆や労働者によって体制に波及するのを恐れて、情報操作や映像遮断などが始まっている。その中国も独裁政権であることに変わりは無い。

歴史は繰り返す。民衆が目覚め立ち上がった時、やがて独裁者は消えていなくなる。