2008年9月19日金曜日

カジノ経済の行方


すわアメリカ経済の崩壊か!世界中に衝撃が走った。経営難に陥っていた米4位の大手証券リーマン・ブラザーズの破綻に続き米保険最大手のAIGの破綻である。米政府はFRB(中央銀行)の9兆円の融資と同時に、政府の管理下におき再建を図ることになった。米政府は15日に経営破綻(はたん)した米証券4位のリーマン・ブラザーズの救済には公的資金を使わなかったが、AIGの救済策では一転、公的資金を活用することにした。

AIGの破綻は世界経済を揺るがす一大事であることからの決定であるが、アメリカの金融経済(実質GDPの10倍に膨らんだ膨張経済)の危うさを垣間見た。日本でも国内主要行のリーマン向け債権は総額3200億円と金融庁が公表しているが、AIGの場合規模が大きく、CDS(債務保証保険)の額は半端ではない。グローバル経済の下では、世界経済に与える影響は計り知れない。

まっとうな従来型の経済から離れ,目に見えないカネを転がして利潤を追求するアメリカ経済が曲がり角にきた。アメリカ経済は空洞化した生産業の大半を中国などに移行し、海外に垂れ流されている証券化された金融商品(住宅ローン証券、国債、社債)を含む米ドル建て証券は推計で2000兆円、わが国だけでも620兆円あり、この数字は世界1である。世界中からマネーを集めるアメリカ、特に中東やロシアを含むオイルマネーと貿易黒字の中国やヘッジファンドのマネーがその供給源である。

これらのマネーは少ない資金で大きな運用ができるレバレッジ(乗数金融)にも手を染めている。いわゆる先物投資などで、原油や穀物などの相場を上げている元凶である。まさに賭場で博打を打っている様を連想する。胴元がリーマンやAIGで全世界の客(年金基金なども客の一人である)からテラ銭(手数料)を取っている。額が多いから上がりも大きい。リーマンの社員などで年収1億以上の者がゴロゴロいても不思議ではない、まさにカジノ経済である。アメリカンドリームを見ているラスベガスの様相だ。


胴元は今やアメリカそのものになり、G8さながら主要国がラスベガスの上客となっている。このような経済情勢の中、基軸通貨のドルの暴落が近いと囁かれている。アメリカにいい顔をしている日本政府は不遜の事態に対処できるのであろうか?最後にババをつかませられないことを願う。

2008年9月15日月曜日

相撲の美学


         相撲絵 歌川国貞
昨今の相撲界の箍のはずれた状況の中で起きた一連の不祥事で、北の湖理事長が渋々辞任した。
国技として日本人に親しまれた相撲、もともと力比べからはじまった相撲は古代からあった。古くは神事として、行事として行われていたが、源頼朝や織田信長は相撲を奨励し、度々上覧相撲を催し、行司が生まれたのもこの上覧相撲からと言われている。現在の大相撲は江戸時代の勧進相撲から始まり、今の日本相撲協曾の前身にあたる江戸時代相撲会所が整備され、次第に組織も充実し大相撲と呼ばれるようになった。

江戸の昔より相撲は「興行」であり現在も変わりない。日本人の強い横綱を筆頭に魅力ある力士たちが居たのは昔のことで、今や外国から弟子を集めないと興行が打てない状況である。年若くして古い体質の世界に入り、相撲道を教育する間もなく駆け足で出世するものだから、相撲の美学や人間としての美学を身につけないまま、社会の規範を外し問題を起こしていく。
このことは外人に限らず問題の親方や力士にも言える。強いだけが美学であれば相撲の伝統は成り立たないであろう。そこにあるのは男のいさぎよさであり、品格である。立ち会いの待ったが多いことも見苦しいものだ。


この際私論であるが、いっそ相撲部屋を世界中から集め、たとえばモンゴル部屋、ロシア部屋 と言うように、日本以外は1国1部屋の外人部屋を作り、部屋には相撲関係者と日本の文化教養としきたりを教育する係を置いて、各部屋同士で戦わせたら面白くなるのではないかと思う。

2008年9月9日火曜日

欲望と人生

                画像 歌川 国芳




 ミクロ経済学において「限界効用逓減(ていげん)の法則」というものがある。人が消費できる財の消費量には限度があるのが普通である。最初の1杯のビールは美味いが、2杯目からは最初の味に及ばない。回転寿司や食べ物の場合は、最初は美味しいけど、だんだん お腹がいっぱいになってきて、効用の増分が小さくなっていくという当たり前の現象である。一般的に、財の消費量が増えるにつれて、財の追加消費分から得られる効用は次第に小さくなる。これを限界効用逓減の法則という。


人間の物欲はこの無限連鎖である。一つのものを手に入れるとまた次の物が欲しくなる。最初に手に入れたものの効用が小さくなると、次のものに触手が動く。欲望の尺度は人によって異なる。究極の尺度は自己満足が最も重要な尺度である。それぞれの人間がそれぞれの自己満足を目指して生きている。あることに満足できなくなると、別の満足を探す。金を稼ぐことに満足できなくなると、知的な満足を求め、知的満足に満足できなくなると、宗教的満足を求め、あるいは慈善活動などに満足を求める。
お互いの満足がぶつかり合うと、争いが起きる。それが例え国のため世界のため真理のためであろうが、全ての争いは満足を求めて行われている。あらゆる美化された行為、あらゆる卑小な行為は自己満足の結果である。



我々の人生は、「自己」の物語そのものである。人はよりよい生活や社会的地位、あるいはよい人間や物などを求め右往左往し、それが得られるとそれを維持することにエネルギーを費やし、やがて死にいたる。大方の人生はそうした簡単な図式に集約される。それが最も顕在化しているのが政治の世界である。金と利権、派閥と官僚に囲まれた政治家たちが、国民のため、国民のためと連呼しているが、果たしてどれだけの政治家が本気で今の日本の窮状を救う強い意志をもっているのか疑問である。先日の福田首相辞任劇は身内の自民党員に対する謝罪はあったようだが、我々国民に対して一言も謝罪の弁は発していないことを見ても、この一国のリーダーの目が一般国民に向いていないことを現している.

2008年9月3日水曜日

どうなる日本丸


福田康夫首相は1日午後9時半、首相官邸で緊急に記者会見し、辞任 の意向を表明した。
 辞任の事由を説明したあげく「先を見通す私の目には。自公政権が順調にいかない可能性が見えている。」こう言って辞任した首相、これが一国のリーダーの言うことか?なんて軽い首相の座だろうか!
公明党との亀裂やテロ特措法の成立の見通しが不透明になったり、次の国会で未解決の諸問題に対処できないなど、どん詰まりの状況で安倍に続いてまたもや首相の政権放棄、自民党内の2~3世議員の脆弱さと淡白さが目立つ。
各国の政治家において世襲で議員をやっている議員の数は日本が飛びぬけて多い。声の上がっている麻生幹事長もその一人である。また政界の渡り鳥などの声も上がってるようだが、雌鶏が鳴かないことを望みたい。
この期に及んでは早々の解散総選挙が、我々国民にとって分かりやすい帰結である。

 さて現在の我が国の経済情勢を菊池英博・日本金融財政研究所所長は月刊紙『BAN』2008年6月号で述べている事を要約すると次の通りである。
公共投資の削減、地方交付税交付金の削減、財政赤字の原因である社会保障費、特に医療費を削減等々小泉構造改革は7年経過した現在、すべてが失敗であり、日本は惨憺たる経済社会情勢である。 国民にとってよくなった経済指標は何一つない。
(小泉・竹中)構造改革が始まる前の指標と比較してみると、①1人当たりの名目GDPは00年には世界で2番目だったのが06年には18位まで凋落(35年前の1971年並み)、②世界のGDPに占める日本の比率は15パーセントから10パーセントに低下、③われわれの平均給与は9年間続落、④可処分所得(手取り給与)は00年から毎年減り、貯蓄率は7.6パーセントから3.2パーセントまで続落、⑤過去10年間で、正規雇用は460万人減少、逆に非正規雇用は600万人も増加、生活保護世帯が100万世帯を突破、経済的理由での自殺者の激増(毎年3000人から8000人への増加)、所得格差の拡大、
06年6月に強行採決された「医療制度改革」によって医療費予算が大幅に削減されたために、赤字の病院が増加し、救急病院が激減し、もはや世界に冠たる日本の国民皆(保険)制度が崩壊しているのである。また税収は00年度に51兆円あったのに03年度には42兆円まで落ち込み、若干戻っても06年度には49兆円しかなく、「構造改革」は日本の経済社会構造を破壊し、税収が増えない弱体化した経済にしてしまった。

これら難題を抱えたまま、日本丸の船長は逃亡し荒波の中を、我々国民を乗せて船長のいないこの船はどこまで漂流するのだろうか?

2008年9月1日月曜日

アートな話


 遅い夏休みを女房と九州で過ごしたおり、2日目の別府のフグ屋で一杯やっていたら、店の壁に気になる絵が掛けてあったので、店主にいい絵だねと言ったら親父は鼻の穴を広げながら、「これより大きな絵があったがこちらの絵のほうが高かったよ」と言っていた。
絵はサムホールのサイズに茶碗とサクランボを描いた静物画であったが、非常に写実的で奥の深い絵だった。額縁の裏に貼っていた説明書きを見せてくれたがあまり聞いたこともない画家だったので気にも留めなかったが、印象に残った作品であった。
旅から帰った次の日、NHKの日曜美術館を見ていたら、写実の果て「高島野十郎」と言う画家の特集をやっていたので見ていたら、まさにフグ屋で見た絵の作者である。奇遇であった。
  ●画像は筆者25歳の時のモダンアート展出品作「エロスの神話」 F100号

 この福岡久留米出身の孤高の画家は写実をとことん追求した人で、画壇や、世の価値観のしがらみから無縁の、芸術における自己完成をひたむきに貫き通した稀有の芸術家である。美術学校には親父の反対で行けず、東大を出て魚類学者の道を捨て世俗的な色に染まらず、独学で絵を追求した画家は魅力的な作品を多く残して無名のまま85歳の生涯を終えた。実家が裕福な造り酒屋だからこのような生き方が出来たのだろうか?
今の時代、芸大を出ても、美術にしても工芸にしてもまともに食えない人々が我々の周りにいる。国は芸術、強いて言えば美術や伝統工芸の育成にもっと予算をつぎ込まないと、この国の文化はやがて廃れてしまうだろう。 特に伝統工芸を地場産業としている地方の疲弊は著しい。

いま思い出すと私が24歳の時、サラリーマンをやりながら、縁あってモダンアート協会の女性会員の先生に師事し、抽象絵画から絵の修業が始まりこの年に初出品初入選で以後5年間入選が続くが。これは通常のアカデミズムから言えば邪道で、デッサン、写実から始まり抽象へ変容していくところが逆を行ってしまった。
抽象をやっているうちに、師匠は前衛の道に進み、私はマグリットなどが好きになりやがて写実の迷路に足を踏み入れ、折からのエアーブラシの流行りに取り付かれ、アクリル絵の具を駆使した絵を描いていた。今思えば師匠には芸術と人生についていろいろ教わった。美の放浪者として、我が性春の思い出である。