2009年6月20日土曜日

横浜開港150周年



今、わが町横浜では開港150周年記念のイベントが盛大に行われている。この4月から放送局に勤務し始めた娘も、これに関連したドキュメンタリー制作の取材に飛び回っている。勤務時間が不規則なことで自宅通勤は物理的に無理なため、局のある渋谷近くのアパートを借りることになり、、先日引っ越しを手伝ってきた。


そんな折、先週の梅雨の晴れ間に女房とこのイベントのベイサイドエリアを散策した後、昼食をイタリア料理でビールとワインで軽く済ませたのだが、もう一杯やりたくなり近くの野毛あたりの居酒屋に足を運んだ。と言うのも昼間から空いている居酒屋は場外馬券売り場の近くの一角しかないことを知っていたので行ったわけだが、店で一杯やっていると、行きつけの寿司屋の親父が馬券を手に持ってふらふら歩いているのが店の窓から目に入った。競艇だけに飽き足らず競馬にも手を出しているようだ。最近BS放送でよく見る吉田類の酒場探訪ではないが、野毛は飲み屋の多いところである。暗くなるとまだまだ面白そうなところがありそうだ。




ここ横浜は日本で発祥のものが多い。その一つがビールである。1870年(明治3年)横浜・山手の外国人居留地123番にウィリアム・コープランドが、ビール醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」を造り、コープランドの醸造所の敷地では、コープランドの廃業後もビール醸造が継続され、麒麟麦酒株式会社へとつながり、コープランドは自身の持つビール醸造の知識と技術をより多くの日本人へ積極的に伝授した。
ビールの起源は紀元前1800年ごろにバビロニア(現在のイラク南部)でシュメール人がビールを作った記録が知られているが、長い歴史を経て流れ流れて たどり着いたビールが日本の横浜の地で誕生したわけである。


二つ目に山手公園がある。ここはテニス発祥の地として有名な所で、私も数年来ここで仲間とプレーしてきたが、最近メンバーも年を重ねてきて足が動かない連中が増えてきたのでご無沙汰しており、忘年会ぐらいしか出席しない。クラブの創始者の亀井氏の名を取ってタートルクラブと称して35年ぐらい続いている同好会である。そのほかも競馬発祥の地である根岸公園など横浜発祥のものは数え上げたらきりがない。




さて話を横浜に戻せば、アメリカのペリー提督が浦賀に渡来した時から開国が始まったわけだが、当時、砲艦外交は世界の常識であった。我が国も米ペリー艦隊の脅迫を受け「日米和親条約(1854)、日米通商条約(1856)の不平等条約を強要された。まさに「力こそが正義」の時代であった。当時ペリーは、大統領の国書とは別に白旗を2本幕府に渡していた。それには手紙が添えられ、「開国要求を認めないならば武力に訴えるから防戦するがよい。戦争になれば必勝するのはアメリカだ。いよいよ降参というときにはこの白旗を押し立てよ。そうすれば和睦しよう」と書かれてあった。武力で脅して要求をのませるこういうやり方は、「砲艦外交」とよばれ、欧米列強がアジア諸国に対して用いてきた手法だった》 まさに後に言われる「強姦」というにふさわしい状況である。

2009年6月14日日曜日

道具と歴史





人類社会はこれまでに2度の大きな変化を経験してきた。第1の変化は1万年前の古代メソポタミアで興った農業革命である。これが世界の4大文明の地に伝播したことは想像するに難くない。きっかけは磨石石斧である。切れるまで研いだ石と木の枝を括りつけた斧によって、木を切り森を伐採し、野山を放浪する狩猟生活から一定の場所で農耕したり家畜を飼ったりして定住するようになり定住社会が生まれ、やがてヒッタイト(トルコのあたり)の鉄器に代表される新しい文明が出現して、都市国家が形成されていった。この農業革命の意義は、人類を含め動物も飢餓線上で生きてきたものが、物不足の時代からモノ余りの時代に移行するきっかけとなったことである。






農業革命以降、基本的に人類は自らが消費する以上のモノを生産するようになった。平和が続くと、自然とデフレギャップが出現し、これをどう処理するかがまさに人類の歴史であった。つまり人類の歴史はデフレギャップとの闘いの歴史であったのだ。エジプトのピラミッド建設も公共事業として需要の喚起のために行われ、日本の江戸時代においては火事の多いことで周知であるが、これも公共事業の一種で、火事になれば復興のための膨大な資材と労働力が必要になり、これらの需要が江戸経済を支えていたという説もあるほどだ。



このデフレギャップの打開に手っ取り早く効果的なものが諸刃の剣である戦争である。人類の歴史がデフレギャップとの戦いであるとの認識から推察すれば、戦争を起こすことによって有効需要の創出が生じ、人類全体から見れば少数者の民衆の犠牲によりデフレギャップを調整し、人類全体の生存を図る自然淘汰の法則から逃れられない宿命になっている。しかし戦争が20世紀以後、特に第一次大戦後悪とされたのは、戦争規模の大きいことにより、当事国や同盟国の疲弊が著しく、需要が莫大になりすぎて当事国ではその需要をまかないきれず、今度は極端なインフレギャップになってしまったことに起因する。




第2の変化は18世紀後半から始まり20世紀の前半までかかった英国の産業革命である。タービンとシリンダーの発明を契機として,人類はエネルギーを利用して自らの筋力だけでは不可能だった夢を実現させ,20世紀の物質文明を築き上げてきた。この時点から人類の経済社会の大量生産、大量消費が始まった。と同時に今までの農業人口の多くが工業人口にシフトしていったのである。同時に資本主義の誕生は世界を大きく変えていった。






そして,第3の変化が、1950年代に出現したコンピュータに代表される社会的技術的な大きな変化が,今,地球上で起こっている。歴史学者のアルビントフラーはこの変化を「第3の波」と呼んでいて、今日従来の権力(パワー)が音を立てて崩れており,ビジネス,経済,政治,世界問題において「パワーシフト」が進行している,と述べている。 これら3つの変化はいずれも道具によって変革してきた大きな波である。








人類が発明した道具は人類に多くの恵みを与えてきたが、片や究極の破壊兵器の「核」を対極として存在させ、北朝鮮のような零細国家の脅しゆすりとたかりのこの上もない道具となっている。北朝鮮の夜間上空写真を見ると、この国とまともに対峙することがアホくさくなる画像である。今日,世界規模の情報ネットワークが急速に発展していき,情報は瞬時にしかも同時に世界中に伝わるようになった。このために,社会の制度や経済の仕組みが大きく変わろうとしている。まさに 21世紀は情報文明の世紀となるのである。

2009年6月7日日曜日

アートな話 (木について)

           桂(かつら)  手刳りによる木地作り
木は古今東西精霊が宿るものとして考えられてきた。西洋における生命樹伝説や、中国における神仙思想、日本における山岳信仰など、多くの民族の神話などにもその逸話が残っている。飛鳥時代になると、大陸から続々と新しい文化が流入し仏教の伝来とともに、建築、彫刻、工芸、絵画など、もろもろの造形技術がわが国に伝えられ、それぞれに華やかな花を開いた。それにともなって木は最も重要な造形材料の一つとして脚光をあびることになった。日本ではそれはやがて仏の信仰と結びつくようになり、木は仏像の素材として長い間親しまれてきた。木材が彫刻の中に占める比重の大きさは、石材、金銅、塑造、乾漆などを抜いて、わが国に残っている文化遺産をみれば木彫の割合が大きいことに気がつく。これは世界に例をみないところであり、いいかえれば日本の彫刻史はすなわち木彫史といってもよいほどである。やがて明治に入ると仏教彫刻の需要は減り、また西洋からの美術思潮の流入などによって、木彫は鑑賞、愛玩を目的としたものが中心となった。



よく言われることであるが、西洋は石の文化で日本は木の文化であることの要因は、我が国がまれに見る森林大国で国土の67%を森林が占めており、1位はフィンランドの76%で2位はスウェーデンの70%についで、世界で3番目の森林国である。また河川の数の多いことも木材の運搬を容易にした。飛鳥以来法隆寺をはじめ多くの寺社、仏像の材料として多用されてきたものには、ヒノキを始めクスノキ、ケヤキなどがある。


造形材料の木材が金属、石材、プラスティックなどの多くの工業材料とは、一味違った性格をもつ素材であることを、我々は日常の体験から感じている。素材の相違は結局のところ工業材料が鉱物系で、木材は生物系だというところに帰着している。 ここで生物系というのは、細胞と言うかつて生命をもっていたものの遺体でつくられているという意味で、生物材料と呼んでいるが、それはまた人為的に思い通りのものをつくれない宿命をもつ材料で、人の姿や顔かたちが一人ひとり違うように、木もまた同じ木目のものは二つと存在しない。何よりも木は自然界の張力材であり、木が持っている圧縮作用と引張り作用は木の収縮により狂いとなって現れる。木の内部の細胞間に溜まった含水率を、時間をかけて下げるために自然乾燥を1~2年行う。すなわち木の伐採後(死後)1~2年で造形材として使われるわけである。

我々鎌倉彫を生業といているものは、その材料の多くを広葉樹に頼っている。特に多いのが桂(かつら)で、最近では大きなものが少なくなった。北海道産の日桂は入手しづらくほとんどが本州北部の青桂である。私も桂以外に広葉樹では朴(ほう)シナ 楠(くすのき)欅(けやき)栃(とち)など使ってみたが、彫りやすさと入手しやすさから桂に落ち着く。たまに飲み友達の大工からもらい受けた針葉樹のヒメコ松 ヒバ 桧(ひのき)なども使ってみたが彫り味は広葉樹の方が勝っている。いずれの材も一つとして同じのものは無い。それぞれの木に向かうとき一期一会の気持ちで彫っている。