2009年8月28日金曜日

日本のたそがれ


評論家の田原総一郎氏が、中田宏前横浜市長と市長辞任の3日後に会談したことが、彼のコラムに出ていたので引用させていただくと。
 中田さんは「今だから言いますが」と断わって次のように話した。 実は彼が市長になるとき、横浜市は借金が5兆円あると言われていた。この借金を減らさないと横浜は第二の夕張になると言われた。市長になって調べてみると、借金は実は5兆円ではなかった。7兆円だった。しかも7兆円あることを調べるのが大変で、半年かかったという。官僚や役所は皆、隠そうとするからだ。私は、借金が増えれば第二の夕張になるという危機感が官僚などの役人にはないのだと思う。市会議員にもない。市民にもない。そこが大問題だろう。

借金を減らすために、中田さんはいろいろやった。例えば、横浜はまだ人口が微増している。そこで学校を作らなくてはならない。だが、財源を悪化させないようにプレハブの学校を建てたら、まず市会議員が大反対。マスコミも大反対した。市民運動まで起きた。「なぜちゃんとした校舎を作らないのか。差別じゃないか」と。だが、財源をどうしたらよいのかについては論議したこともない。他にもあった。横浜市内の市立の保育所を民営化しようとした。これには市役所の職員が反対。労働組合も反対。市会議員も反対。市民団体が反対デモまでやる。しかも、マスコミまで反対。本当に財政を悪化させないためにやろうとすると、全部が反対に回った。
国債の利息だけで10兆円近くある今年の国への収入は46兆だ。その中で、現状でも利息が約10兆もあるのに、これ以上膨らむとどうなるのか。
生活保護も、年金も、何もかもがアウトになる。こういうところまで追い込まれている、そういう意識がこの国を運営している人たちにはないのではないか。私はそういった危機感を、改めて感じている。マスコミまでが反対に回るので、国も反対されるのを怖れてばらまきをしている。最大の問題は「国のことだから何とかなるさ」と、国を仕切っている政府、官僚が総理大臣も含めてすべてが、何とかなるさと思っている。

(以上日経BPネット)


どの国も経済が悪くなるとケインズの景気浮揚のための公共投資(日本の場合財政投融資)に走り、不要なものまでふくめ今日まで膨大な借金を生んできた。国は景気対策に傾くか、財政再建に傾くか二律背反のジレンマが常に付きまとうが、景気対策最優先の結果がこれだ。国の借金は今、どれくらいあるのか。国債と地方債を入れておよそ820兆円である。
 アメリカは今、借金が多い多いと言われるが、OECDの2009年度見通しによると、アメリカの借金はGDP比で78%。日本の借金は、GDPの168%(2009年度末見込み)。世界でもこんなに借金の多い国はない。しかも、日本は借金をなお、加算しようとしている。国の要の経済のバランスシートを改善しない限り、近い将来この国は破綻の道に突き進むことになるだろう。

2009年8月20日木曜日

アートな話 「イメージの発露」


いい絵というものは、小説において豊かに情景を思い浮かべることができるものが評価されるように、目で見ながら目で見えないイメージをふんだんに含んでいるものだと思う。たとえば音、風、動き、温度、湿度、などの自然環境や時間、思い出、そこで暮らす人々の営み、精神、内面の葛藤などである。左の絵はアメリカの作家アンドリューワイエスの「クリスティーナの世界」で具象絵画の典型であり、右の絵はロシアの作家で抽象絵画の元祖カンジンスキーの「ゆるやかな変奏曲」である。

端的に言うと 具象表現は、おもに光と影でこれらのイメージを「もの-対象」を通して間接的に表現していく手法であり、抽象表現は、色や形でイメージや精神性を直接的に表現する手法である。
造形における創作の契機となるイメージにおいて、言葉に先立つものが純粋イメージで、それは能動的で突然やってくるひらめきにも似たオリジナルなものであり、アプリオリ(先験的)な要素をはらんでいる。それに対して経験イメージは、能動的に自らが発想する創造的なイメージである。イメージとは本来人間の思考経路に存在するものであるから、実態を有するものではない。湧き出たイメージを視覚化することによって、イメージの不確実性を補うものが我々がよく行うところのイメージのスケッチや覚書である。

造形表現の様相を大別すると、客観的な自然物認識を契機とする具象表現がある、一方,主観的イメージを契機とする抽象表現の二つの形式を上げることが出来る。

花一つとってみても花を支える茎や葉は生命力という動かしがたい自然の条理によって、構造的法則性を有していることを我々は知る。このような自然物から視覚的に吸収した経験的知識は、「具象的認識」としてイメージに蓄積されていく。つまり具象というのは、表現されたものが具体的に何かを表している表現形式である。

他方、抽象は事物や表象を、ある性質・共通性・本質に着目し、それを抽(ひ)き出して把握すること。その際、他の不要な性質を排除する作用(捨象)をも伴うので、抽象と捨象とは同一作用の二側面を形づくる。一方、抽象というのは、色や形で表されたものが具体的な「もの」を表していない表現形式である。そのため抽象は自然事物のエッセンスを抽出し、それに付随した余分で関係の希薄な部分を捨象し、一つの認識を再構築することに集約される。しかし具象と抽象の間をクロスオーバーする絵画も多い。いわば音楽でいう変調のようなもので、そこで具象か抽象かを論じても意味のないことだろう。一般的には半具象と呼ばれているものである。
そもそも具象という概念は、20世紀に自然の現実の形態を再現しない抽象芸術が現れた際に、対抗して従来の再現的な表現を総括するために使用されだした概念である。
造形作業の過程でしばしば体験するデフォルマシオン(変形、歪形)は、造形芸術において、一般的には自然界に与えられている標準的な規範を変更することを意味している。それは意図するしないにかかわらず、再現されたものとその原型との相違を表す言葉として使用される。あらゆる創造的な要求は、常に自然界の単なる写し取りではなく、何らかの解釈である以上、表現に付きまとうものである。デフォルマシオンはいわば具象から抽象への橋渡しのようなものである。

2009年8月17日月曜日

終戦記念日


8月15日は「終戦記念日」である。 1945(昭和20)年のこの日、日本のポツダム宣言受諾により、太平洋戦争(第二次世界大戦)が終了した。   内務省の発表によれば、 戦死者約230万人、 空襲による死者約80万人であった。  


明治維新という近代化革命に奇跡的な成功を収めた日本は、日清、日露の両大戦の成果に奢り高ぶり、中国大陸への侵略の後、満州国設立を認めない国際連盟からの脱退、その後日独伊の三国同盟を経て第2次世界大戦に突き進み、1945年8月惨澹たる状況の中でこの日を迎えた。敗戦後、日本は、もう二度と戦争は嫌だという、生き残った人々の強烈な平和への共通意識が、あの焼け野原から多くの困難を乗りこえて、やがて高度経済成長を経て今日の繁栄を築いてきた。

戦争を知らない我々戦後世代は、残された映像でしかその悲惨さを垣間見ることしかできない。終戦記念日のたびに涙を流す親父世代の戦争体験者たちの心の叫びを感じることは、このような特別な日をもって知らされるのである。私の親父の所属していた南方方面部隊はトラック島、ポンペイ島を経てクサイ島で終戦を迎えたが、前線で戦う部隊ではなく情報通信部隊の将校として戦線に出たが、切迫した砲弾の脅威にはさらされることがあまりなかったらしい。米軍に補給路を断たれ、当時飢えには苦しんだもののたいていの生き物は食したと言っている。それでも周りでは餓死するものや自殺する者が大勢いたという。


国内では広島や長崎の原爆はもとより、各地におきた空襲による被害は甚大で、神戸にいた私の母親などは焼夷弾の雨を潜り抜け、戦後舞鶴に復員してきた親父と近所のよしみで一緒になったわけだが、母親の父親が米穀商で親父の父親が宮大工で父親同士が釣り仲間だった縁で結婚したとのちに母親に聞かされた。
戦後60年を過ぎ、平和を謳歌してきた日本であるが、今一度平和の意味をかみしめ、国が誤った方向に進まぬように国民一人一人が国の方向を注意深く見る必要がある。

2009年8月11日火曜日

マニフェストのメニュー


民主党のマニフェストを吟味し様子をうかがって最後に出した自民党のマニフェストも出揃い、いよいよ選挙戦が始まった。投票する国民サイドから見れば、判断基準が明確に示されるわけであるから、寄る辺ない選挙公約(マニフェスト)が明文化されることは政党の主張を明確に理解できて望ましいことであるが、選挙を意識して両者とも美味しいことを書いている。




まず自民党のマニフェストは安心,活力、責任の3つがキーワードとなっており、これらキーワードの元に、多くの政策メニューが並べられている。個々の項目の良し悪しを論じられているが、政党として日本が直面する構造問題解決のための改革の指針は伺えるが、改革のスピードが鈍いため、それら公約が迅速に実現するようなメカニズムが自民党の中で働いているのか疑問視される。現在の政治と経済の閉塞感から国民に政権交代の機運が高まったことは否めない。まさに改革は待ったなしである。860兆円の負債残高を野放しにしてきた、自民党のあと始末を次世代、孫世代に託すことは許されないことである。その自民党は経済政策については先ず経済成長のための戦略を示し、経済全体のパイを増やしてからそれを分配することを想定しているが、示している経済政策の多くは、今までの政策の延長線上にあるものが多く、従来とあまり変わらない。





民主党のマニフェストの経済政策については、今後も世界経済の低迷が続く経済状況を想定し、直接給付によって家計部門の可処分所得を増やし、個人消費を盛り上げることで国内の経済活動を活性化する財源を一般会計や特別会計から捻出することが言われているが容易ではないだろう。助成の対象者に直接支給する形になっているのが自民党と違うところで、自民党政権だと、中間団体に助成金を流すことにより、官僚の天下り先と自民の集票組織がセットされた形での予算の組み方をしており、民主党はその流れを断ち切ろうとしているようだ。

民主党のマニフェストでは政府の無駄を省いて、その分を子育て、教育、年金、医療に振り向ける、また行政権限をできるものは中央から地方へ移し、地方主権を確立するなど、国民には耳障りのいい資源配分の組み換えを目指しており、自民党政権下ではなかなか実現しなかった政策を掲げて業界団体、族議員、霞ヶ関の三角形を壊すことで実現しようとするものである。民主党は政権を取ればマニフェスト実現のために、予算の大幅な組み換えに取り組むことになるが、財源をどう確保するのかという根源的な問いには、無駄を省くという回答しかないので、やってみないと分からないというクエッションマークがつくが、まずはお手並み拝見と言ったところだろう。




自民党と民主党のマニフェストで示された経済政策は、どちらも小泉構造改革の否定を出発点に成り立っており、小泉内閣の行った改革が、行き過ぎであって、地方、中小企業、個人の間に経済格差が拡大し、経済的、社会的に大きなひずみが生まれてしまったとの認識が両党ともあり、その上で、小泉改革から脱却し、その是正を図ることを目指す経済政策を打ち出してきたと言える。いみじくも小泉首相がマニフェストに関して、「この程度の約束を守らないことは大した事じゃない。」と答弁したような項目の羅列は払い下げ願いたいものである。
緊急避難的な両党のマニフェストから明確な日本の未来像が見えてこないと感じるのは、私だけではないだろう。近い将来の日本をどうするかは概ねわかるが、日本という国の未来をどうするのか、戦略的な視点に立って政権を取った政党は国民に示す責任があると思う。

2009年8月6日木曜日

横浜たそがれ


人口367万人 3位の大阪市に90万人の差をつけ日本第2位の都市横浜。横浜市の財政状況は一般会計:1兆4千億円前後と特別会計:1兆8千億円前後合計3兆3千億円程度であるが現在借入金が5兆円ほどある。前の保守系市長3期十二年のつけを引き継ぎ、中田氏が市長になって1兆円の負債が減った。この点については彼の業績を認める人も多い。


中田市長の辞表を受けて横浜市長選は、次期衆院選と同じ8月30日投開票になる見通しとなった。中田市長は、首長連携で政治パワーを市政の課題だった財政の健全化に目途がたったことや、今秋に東京都杉並区の山田宏区長らと設立を目指す新たな政治団体「『よい国つくろう!』日本国民会議の活動に専念していくことなどが辞任を決意した理由となっているが、大阪府の橋下徹知事らと連携して進める「首長連合」を中心に、新党結成も視野に入れている。
記者会見で中田氏は、「市営バスや水道事業の黒字化などを達成し、1兆円の負債を減らすことができた」と実績を強調し、「それらが一段落した」と述べた。また、「市長選挙を総選挙と同じ日に行なうことで10億円の経費節減ができる」とも言っている。今後については、市長の後継指名はしないことや、8月の衆院選には出馬しないなどと、公言している。


一方、市議会からは、裏切られたとの声も出ている。中田市長は、現在開催中の横浜開港150周年記念行事が一段落したことも理由に挙げているが、その柱となる「開国博Y150」の有料入場者数は、目標の500万人に対して現在63万人となっており達成は難しく、失敗とささやかれている。また、中田氏は女性問題で訴訟を2件かかえており、「市職員の心が市長から離れている」と語る幹部もいるほどだ。
しかし、衆議院選挙と同時の市長選挙をどうするのか。候補擁立にも時間がない。中田市長は「いつかは国政復帰」と考えたのかもしれないが、この時期に任期途中で放り出す理由としては説得力がない。上記の理由は自分の都合で辞めたとしか思えない。