2013年1月27日日曜日

天国と地獄の国 中国

習近平

習近平は中国最後の皇帝になるのか?

20年ほど前、中国では「万元戸」年収20~25万円は金持ちの代名詞だった。しかし今や,1000万元(1億3000万円以上の富を持つミリオネアは全国に96万人もいるという。中国の富の70%を共産党官僚とその一族26万人(0.02%)が独占するという世界有数の格差社会がいまの中国である。そして自国の富の多くを海外に持ち逃げする多くの支配層の動向は、温家宝をはじめとする独占的支配層や官僚の多くの姿が報道で全世界にあぶりだされている。

【大紀元日本12月11日】によると、昨年中国のジニ係数が0.61と、世界最悪水準に達していたことが明らかになった。0から1までの数値で表されるジニ係数は所得格差を表す指標であり、 一般に社会騒乱多発の警戒ラインは、0.4と言われている。0.4は警戒線とされ、それを超えると紛争が多発し、特に0.5以上になった場合は、暴動など、極端な社会的対立も起きかねないとされている。

所得格差は中国の社会的対立の誘因になっていて、2010年に中国で発生した集団抗議事件は18万件に達し、地方政府や官僚などのへの不満や怒りの抗議行動の数の多さがそのことを裏付けている。中国当局の発表した2011年『中国給与発展報告』のデータによると、中国共産党高官の年収は農民工の平均所得の4千倍以上に相当し、貧富の差が激しいのは明らかであるが、ジニ係数については中国政府が2012年に発表した0.47とは大きくかけ離れており、膨大な数の汚職官僚の裏の収入が加算されれば0.61以上に増えると見込まれている。
ジニ係数の世界の平均は0.44であり一般的に危険水準とされているのが0.4で1に近づくほど格差が広がる。
ジニ係数は0から1の範囲の値を取り、0に近いほど平等で1に近いほど不平等、所得格差が顕著であることを示す。ちなみにOECD諸国では、日本が0.329、ドイツが0.295、アメリカが0.378などとなっている。
このようにどの資本主義国よりも格差拡大しているとんだ「共産主義国」が中国の実態で、同じ0.6台には南アのボツアナ、西アのシェラレオネなどが並んでいる。

日本も社会保障と税による再分配で改善されていなければ、社会騒乱レベルに近い格差社会になりつつある。所得格差の固定化が問題となりつつあるアメリカでは、改善後のジニ係数が0.378なので、0.4越えも時間の問題のレッドゾーンにあるわけだ。このジニ係数の裏で起きている社会現象の一つである自殺は、昨年度わが国では毎年の自殺者が3万人を切ったが、世界保健機関WHOの最新報告によると、世界では毎年およそ100万人が自殺。中国衛生省疾病予防制御センターの2007年の発表によると、中国の年間自殺者は29万人で今も増え続けている。つまり、世界の自殺者の3人に1人は中国人で、世界の平均レベルをはるかに上回っている。
共産党は中国で独裁政治をもって各階層の民衆を厳しく制御し、人身の自由も厳しく制限している。一方、官僚階級は社会の富を憚ることなく貪り取り、社会の極端な分配の不均衡を招き、その上、堕落した教育制度と喧伝により、民衆の価値観は捻じ曲げられ、物質のみを追い求めるようになっている。
中国当局は最近、2010年11月末までで中国のネット人口が4億5,000万人に達したと発表。インターネットの普及率も33.9%に上っているものの、この大仰な数字の背後には、厳しく制限されている中国の過酷なネット事情が見え隠れする。それ以上に反共産党的スタンスを保っている独立系衛星テレビ(新唐人テレビ)は、ニューヨークに本部が有り、世界にネットワークを広げている。日本版ネット放送では中国の隠された数多くの恐ろしい地獄が垣間見れるので必見だ。

中国共産党はあらゆる局面で情報統制しているが、ネットユーザーからも、新唐人テレビからも中国情勢は世界に漏れ広がっていく。
中国共産党の独裁体制は足元に火がつき自己矛盾に苛まれ、崩壊に向かわないためにも尖閣など対日的な問題にすり替え、国民の気をそらすことに専念している。いっぽうで民衆への弾圧と、中国広東省で起きた週刊紙『南方週末』などに見られる言論統制、ネット規制など中国共産党の屋台骨のほころびを必死になって繕っているが、やがて民衆の怒りが頂点に達し、共産党への批判がコントロール不能状態に陥った時に、共産党の崩壊が経済体制の崩壊とともにやってくるだろう。
すでに多くの民衆がネット上で習近平を「劉阿斗」(三国時代、蜀の初代皇帝・劉備玄徳の息子。愚昧の君とされ、蜀を滅亡させた)と揶揄している。次期国家主席に対して「お前の代で政権が滅亡するぞ」と言っているのだ。民衆の暴発を何より恐れる中南海は怒りの矛先を他に向けるためにも尖閣列島は不穏な空気に包まれている。中国はけして安泰な大国ではない。習近平が中国最後の皇帝にならないと誰も否定はできないし、民主化への大きな動きは誰も止められない。

2013年1月14日月曜日

アートな話「埋め草」

茘枝雀文丸盆 江戸時代模刻

【埋め草】という概念

一般的にうめくさ(埋め草)という言葉は、空いたところや、欠けた部分を埋め補うものとして、雑誌・新聞などの余白を埋めるために使う短い記事としての「―原稿」などと辞書には載っているが、本来は 城攻めのとき、堀や溝を埋めるために用いる草やその他の雑物のことを言っていた。
アートの世界では余白や間を埋めるものとして、空間処理の便法として表現されるものである。(筆者の過去ログ「間について」参照)

図案における余白と埋草は、鎌倉彫の場合特に薬研彫りにおいて、絵を取り囲む空間において、他の余白よりも不自然に大きくバランスを崩す場合は、捨石のようなものを作ることで全体のバランスをとっている。写真の赤い部分がそれにあたる。絵としてはなんの意味もないものであるが、空間処理の便法として度々使われる。
花鳥風月を図案化した場合、花を例に取ると余白の多い図案は風景的(絵画的)になり、充填構図で余白を嫌う便法として埋草を空いた余白に埋めていけば、その図案はデザイン的になる。
日本人の感性に照らすと、水を抜いて水を感じさせる枯山水という日本庭園や、墨の色を感じさせるための水墨画の余白など、埋め草の反対概念として浮かび上がるこれらの創造意図は、余すところなく充填してしまったり、あるいはすべてを描き尽くす絵やデザインとは対極のところにある。


国宝<待庵>京都と黄金茶室<復元>金沢市
余分なものを削ぎ落としたところにあるのが、わび、さび、もののあわれ、うつろいの日本独特の文化である。豪奢な茶室を作った秀吉に切腹を命ぜられた千利休の質素な茶室は、何を物語っているのだろうか?すべてを手に入れた権力者が常に不足感に苛まれて金の茶室を作らせた者と、心の充足を保った一介の茶人が、余計なものを削ぎ落として行く引き算の文化を具現化した者とのあいだには、常に満たされた者と満たされぬ者との相克が浮かび上がってくる。
時の権力者は心の隙間を埋めるためあらゆる手段を使って埋め草を手に入れようとする。歴史の異物として残る秀吉の茶室は彼自身の埋め草だったのかもしれない。

利休が設計した二畳敷の小さな茶室『待庵(たいあん)』(国宝)は、限界まで無駄を削ぎ落とした究極の茶室。利休が考案した入口(にじり口)は、間口が狭いうえに低位置にあり、いったん頭を下げて這うような形にならないと中に入れない。それは天下人となった秀吉も同じだ。しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。つまり、一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、茶室という小宇宙の中で「平等の存在」になるということだ。このように、茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった。
・「世の中に茶飲む人は多けれど 茶の道を知らぬは 茶にぞ飲まるる(茶の道を知らねば茶に飲まれる)」(利休)
今の世界を見ていると、引き算の日本文化が必要な時代である気がしてならない。すなわち必要以上の埋め草はいらないということである。国も人間個人も強欲の果にあるのは退廃である。

2013年1月6日日曜日

日々雑感

エアロバイク
年明け早々、正月太りが気になるところであるが、4~5年ほど前までやっていたテニスを昨年の春頃から再び始めた。きっかけは近所のご夫妻が近くの運動公園で日曜日に2時間ほどやっているのを聞いて参加させてもらった。メンバーは6~7人いるが家から歩いて3分程のところで、コートが2面あって近いのと気軽に楽しめるところが気に入ったので続けていて、今日が今年の初打ちだった。
30代から始めたテニスであるが、昔のように1対1のスパーリングのような打ち方はすっかりなりを潜め、もっぱら力を抜いた打ち方を心がけている。

座り仕事と車生活のため運動不足になりがちなので、テニスを始めたのと同じ時期に近くにある横浜市のスポーツセンターで運動器具を使ったトレーニングを週一回のペースで2時間ほどやっている。しかし人間同じことを反復して続けるということはなかなかできるものではなく、忍耐と強い意志がなければ続けられない。スポーツセンターにも時折年寄りが腹筋を20回くらいやっているのを見ると気分が萎えてくる。
散歩も同じところを歩くのが億劫になり、あっち行ったりこっち行ったりと40分ぐらい徘徊しているが、寒さもあってここのところやっていない。根が横着なのだろうか、進んで体を動かしてやる気力が弱いこととエンジンがかかるのが遅いことが、怠惰な生活に拍車をかけている。

我が家でも93を過ぎたオヤジが、杖をつかないとほとんど歩けない状態にもかかわらず、電動自転車で毎日近くの整形外科までこいで通っている。それでも本人は運動不足を気にしているため、食事の量も減らし、足を鍛えるためにトレーニングマシーンを購入し、サンルームに置いて短時間やっているようだ。自転車は危ないからやめるよう忠告しているが、本人は意に介さない。暴走老人にならなければいいが?

人間年をとると体のパーツも衰え、耳は遠くなり、足はしびれ言う事を聞かない。毎日大きな音でテレビを朝から晩まで見ている生活である。挙げ句の果てにはコマーシャルが多くて退屈だとくる。長時間テレビを見る習慣は認知症リスク度を高めることが、最近の研究で明らかとなっているらしい。一日、6時間以上テレビを見ると、ボケの危険度はなんと1.5倍になるというデータもあるほどで、幸い今のところ頭の方はまだだいじょうぶだが、私もオヤジがボケないように、毎月自分が読んだ本を何冊かオヤジに読めと渡している。オヤジを見ていると、ここまで生きると人生は暇つぶしなんだなーとつくづく思うようになった。

運動に明け暮れてるスポーツ選手は一般人に比べると、肉体の故障が多く平均寿命も短いという。体を鍛えることも大事だが、脳も鍛えなければいけない。脳内ネットワーク(思考、認識、記憶、会話)が、能動的に働かないテレビや健康のための運動も程々がよろしいようで。