2012年6月20日水曜日

日本はどこに向かうのか?

先にご紹介した 岡田英弘著「この厄介な国中国」に関連して中国を視座においた若干30代の歴史学者与那覇潤氏の著書「中国化する日本」は日本の歴史観、特に政治の統治機構を中国史の視点に立った日本論とも言うべき本で、興味深く読ませていただいた。著者は名前からして沖縄出身と見たが、古くから琉球として中国と関わりのある地の出身である。

「この厄介な国中国」を思い起こすために私の過去ログを引用してみると、
「古代中国において歴代王朝は存在していたが、民族の集団ではない。皇帝ただ一人の専有物で中国人民の支配者でも中国大陸の所有者でもなかった。皇帝は中国全土に張り巡らされた流通システムを所有していた。つまり総合商社の社長のような存在であった」と筆者は述べている。
つまり中国においては、最初から王は流通業、商売の頂点に立つ人間のことであった。王はマーケットの支配者であり、この商業ネットワークシステムを帝国の形にしたのが秦の始皇帝、あるいは漢の武帝である。中国の統治システムにおいて最も重要なものは交易である。そのため交易が発展 すればわざわざ領民や領地を持つ必要がない。そのためその存在はボーダレスになり現代の巨大商社の様に国籍がさほど問題にならなくなった状態と似ている。
まさに多民族国家たる所以である。

さてここで注意する必要があることは、中国化はけして我が国が中国に飲み込まれ中国に隷属されるという意味ではないことだ。
理解しやすくするために私なりに、かいつまんで中国と日本の歴史の流れを年表にしてみたので参照していただきたい。
さて本書の大筋は、中国は宋朝から現代まで、日本は平安時代末期から現代までを俯瞰することにより、大きな時代の流れを解説している。
つまり「唐までは中国を意識的に模倣していた日本は、なぜか宋朝以降の中国の『近世』については受け入れず」、宋朝がモデルの中国社会のあり方を受け入れるのか、日本独自の道をゆくのかの争いが、平安後期からの日本史を決定づけ現代に及ぶと述べている。

著者によれば、宋朝というのは、それまでの中国社会をガラッと変えるシステムを導入した、実に画期的な王朝とのことで、貴族制度を全廃して皇帝独裁政治をはじめたこと」、言いかえれば「経済や社会の仕組みを徹底的に自由化する代わりに、政治の秩序は一極支配によって維持するしくみ(中国社会の原型)を作ったこと」だという。しかも、その宋朝で導入した社会のしくみが、中国はもちろん、全世界で現在まで続いているというのだ。
皇帝と郡県制に基づく中央集権体制を構築、貴族を排し科挙(官僚)により能力のある人材を血縁とは無関係に登用、自由主義経済による機会均等を実現、身分制をなくした結果、移動の自由、営業の自由、職業選択の自由が行きわたり、同時に貨幣経済が社会の隅々まで浸透したこと
言ってみれば現在世界中を覆いつつある「新自由主義」、豊かになるのも飢えるのも自己責任という社会のあり方が宋朝に重ねられている。

しかし、日本における近世はこの真逆を行った。天皇家と徳川将軍家が権威と権力を分担し、幕藩体制による政治と庶民は完全に乖離し、身分制度が固定化し、人の移動は禁じられ、イエやムラがセーフティネットとして機能する、ことを「再江戸時代化」と定義している。

さて日本の歴史の転換点となる平安時代後期、NHKの大河ドラマでもお馴染みの平清盛と後白河法皇は日宋貿易を積極的に推進し、両者は中国銭を輸入して市場を活性化し、封建領主の既得権を切り崩して自身への権力集中を目指した。科挙以外の貨幣経済の部分で、宋朝中国のしくみを日本に導入しようとした革新勢力だった。それに対し貴族や寺社の既得権益を守り、「平家に押収されていた荘園公領を元の持ち主に返す代わりに、自分たちも『地頭』を送り込んで農作物のピンハネに一枚噛ませてもらうボディガードが源氏だった。

そこから著者は源平の合戦を「近世への二つの道──①宋朝中国で実現した中華文明に近い社会を日本でも実現しようとする『中国化』勢力(院政・平家)と、②むしろそれに対抗して独自路線を貫こうとする『反中国化』勢力(源氏)の路線対立から生じた」と解釈する。
ご存知のように源平合戦の結果は、「反中国化」勢力の源氏が勝利した。以後、中世日本は「時々だけ中国に似た政権(注・農民でなく漂白民や商工業者を基盤に天皇独裁を目指した後醍醐政権や、対明貿易と中央集権を推進した足利義満政権)が樹立されるのだが、おおむね短命に終わり」、戦国時代以降の近世日本は「中国的な社会とは180度正反対の、日本独自の近世社会のしくみが定着した」。その日本型社会が完成したのが江戸時代だった、と著者は言う。

「士農工商」の身分制度をつくり、稲作の普及を背景にイエとムラを基盤とした「封建制」の支配体系ができあがった。江戸時代前期は稲作の普及によって経済も人口も拡張し、「欲を張らずそれさえ愚直に維持していさえすれば子孫代々そこそこは食べていける家職や家産が、ようやっと貴族と武士だけでなく百姓にも与えられた」。
戦のなくなった時代に、武士の世界では、武士(社員)の忠誠意識が殿様(社長)個人ではなく、大名家というイエ(会社)全体に向かうことになり、会社を傾かせる(御家取りつぶしになりかねない)ようなワンマン社長は、従業員一同で解任(主君押込め」)して構わないという企業文化が生まれる。「いってみるならば、各大名家の統治が中国的なトップダウン型の専制政治に流れることを防止する、いわば中国化を防ぐための(自動安定化装置)のような仕組みとして、『封建制』やイエ制度は機能していたということになる。」と説明する。

一言で言えば、江戸時代は「究極の『反・中国化』体制を作り上げた」。明治維新は「反・中国化体制」が自壊した結果」だと著者は断ずる。
いつの時代も変革の動きはその時代の不平分子が行動を起こしたときに起こるものである。
維新後に出現した明治時代について、我々が「西洋化」「近代化」として習ったことは、①儒教道徳(教育勅語)に依拠した専制王権の出現、②科挙制度(高等文官任用試験)と競争社会の導入、③世襲貴族(大名)の大リストラと官僚制の郡県化、④規制緩和を通じた市場の自由化の推進など、むしろ「中国化」と呼ぶべきだ、という。
一般的には、江戸時代は鎖国によって外国との交流を絶ち、黒船以後は西洋との関係のなかで国をつくってきたと考えがちだ。それに対して著者が「近代化」はむしろ「中国化」だと考える底には、上述してきた認識の裏付けがある。

明治以後についても、「中国化」対「再江戸時代化(反中国化)」という図式で近代史が叙述される。総理大臣の権限が小さい明治憲法体制や、日清戦争後の「大きな政府論」である民力育成論、企業のみならず労組まで擬似的イエとして組織された大日本産業報国会などの総力戦体制によって、いったんは「中国化」したはずの社会が再び「再江戸時代化」されていった。その「江戸時代化」は戦後も続き、1980年代以後、世界が「中国化」しているのに、日本はいまだに「江戸時代」を引きずっていて、そのどんづまりまで来たのが現在である、というのが著者の見立てだ。

農村をベースとする地域共同体の結束が強く、身分に基づく就業規制で市場競争から守られる。何らかの集団に属し、強い束縛を受ける代わり、食べていくことは保証されるというシステムだ。新卒一斉採用や終身雇用など「一回勝負して、どこかに潜り込んでしまえば安全」な戦後の企業社会は、その現代版だった。さらに「近代はヨーロッパではじまった」というのは間違いで、正しくは宋朝ではじまった「近世」がヨーロッパに伝わっていき、ヨーロッパが模倣したのが後期「近世」=いままで近代と呼んでいた時代、ということになる。

日本は明治維新で一度は「中国化」するものの、選挙制度を通じて地域利権代表による「江戸時代化」へと逆戻りしてしまう。そのあらわれが、政治家の世襲、地縁、地元の利権などであった。
ところが今度は世界が「中国化」しはじめた。レーガンやサッチャーの新自由主義の波である。規制緩和は既得権益の撤廃を意味した。世襲議員が頼りなく見え、利権を持っていた業者、公務員、労働組合までも含めた既得権益がおかされる。これまで自分を守ってくれていた地縁にも終身雇用の会社にも頼れなくなってしまった。

今、大阪で起きている動きをみると、「江戸時代化」に固執する政府に代わって、橋下市長率いる勢力が「中国化」を推進しているようにも映る。(現在使われているネガティブな意味での)「日本化」を克服するには「中国化」の道しかないのであろうか。

与那覇潤氏
最後に週刊東洋経済2012年2月18日号での著者と記者との一問一答をご紹介して、本稿を終わりたいと思う。

──日本に「中国化」の波が中世・近代・現在の3度押し寄せたとの主張ですが、「中国化」の定義とは。
端的には、日本社会のあり方が中国社会のあり方に似てくること。日本人が「グローバル化に対応できない」のは、中世以来の癖なのだというのが、本書の歴史観。今日のグローバル社会の原型が宋朝の中国大陸で生まれて以降、それに時折引き付けられつつも、最後は反発してきた日本という国の成り立ちを描いた。

──中国化=グローバル化というのは、斬新な問題提起です。
冷戦の終結時に米国の政治学者フクヤマは「歴史の終わり」を唱えた。社会主義という対抗イデオロギーを失って米国の一極支配が正当化され、国家内での再分配よりも世界規模の市場競争が優先される。
しかし、実はそういう秩序を最初に実現したのが宋の時代(960~1279年)の中国。「歴史の終わり」とは、1000年かかって全世界が中国に追いついたということ。

──宋代の統治システムとは。
中国史の泰斗・内藤湖南は、現代に至る中国社会の原型は宋代にできたとする。具体的には、貴族政治を撤廃して皇帝独裁政治を始めた。そして、政治の秩序を皇帝一極集中にしたのとは対照的に、経済や社会は徹底的に自由化した。
皇帝を支える官僚は科挙により能力本位で選ばれ、男性なら誰でも受験できる開かれた競争システムだった。農村にも貨幣経済が浸透し、人口は大都市へと流動化。貴族による荘園経営は崩壊し、身分制は消えた。地域や職能による結び付きは弱まり、政治も経済も個人のネットワークで動く。今のグローバル化が求める社会像と、かなり共通性が高い。

──逆に対極にあるのが、江戸時代に完成した日本型社会だと。
農村をベースとする地域共同体の結束が強く、身分に基づく就業規制で市場競争から守られる。何らかの集団に属し、強い束縛を受ける代わり、食べていくことは保証されるというシステムだ。新卒一斉採用や終身雇用など「一回勝負して、どこかに潜り込んでしまえば安全」な戦後の企業社会は、その現代版だった。

──日本は「中国化」の影響を受けつつも、つねに反発してきた
中世初期が「中国化」の第一のピーク。中国銭を輸入して市場を活性化し、封建領主の既得権を切り崩して自身への権力集中を目指した、平清盛・後醍醐天皇・足利義満などが代表的な「中国化」勢力。しかし、農村支配に依拠する守旧派に阻まれて、いずれも短期政権で終わった。
16世紀末の中国に新大陸の銀が流入し、日本への銭輸出が激減すると、日本人は中国銭経済から切り離された。この時期に成立したのが徳川幕府で、新田開発で稲作を全国に普及させ、「家職さえ守れば最低限食べられる」身分制社会を作った。これが現在の日本社会のベースだ。
「中国化」の2度目のピークが、実は明治維新。西洋化だという色眼鏡を外して、維持不可能になった幕藩体制を中央集権に再編する「中国化」と見るほうが、たとえば天皇の皇帝化にしてもすっきりわかる。そして第三のピークが冷戦後、まさに私たちが直面するグローバル化だ。

──日本人は、これから進む「中国化」にどう対処すべきでしょうか。
歴史はずばりの処方箋は示せない。だが、「日本の弱点は何か」ということは教えてくれる。日本型の社会システムにも中国型にも、それぞれ長所と短所があり、そのパフォーマンスが局面によって変わるだけ。日本人の「弱点」は、「江戸時代」の閉鎖性に息が詰まると破れかぶれで「中国化」に幻想を託し、しかし「中国化」した競争社会にストレスがたまると、今度はやみくもに「江戸回帰」へ突き進むところ。歴史認識の欠如が、戦略なき感情論に走らせる。
文明開化ともてはやされた明治維新の実態は「中国化」で、共同体に属していれば何とか食べられた江戸時代の秩序を崩壊させ、日本人を自己責任と自由競争の世界に投げ込んだ。その下で貧窮化した人々の怨念が、農本主義という「江戸回帰」の願望を媒介に、「みんなが『平等』に戦争に行って死ね」とする軍国主義を生み出したのが昭和維新。最後は敗戦ですべてご破算になった

──大胆な説に聞こえますが、最新の歴史学に基づいた議論だとか。
いま書店に並ぶ「歴史読み物」は英雄伝的な人物論ばかりで、学問的な歴史研究とのリンクが切れてしまった。その背景は、日本社会を論じる枠組みの崩壊だ。冷戦下では、日本社会論を支える二つの潮流があった。一つはマルクス主義が、人物ではなく「社会構造」から日本史の全体像を描こうとした。もう一つはそれへのアンチテーゼとして、梅棹忠夫氏らによる自国のユニークさに着目する日本文化論が存在した。
ところが、冷戦の終焉とともにマルクス主義は失墜。一方の日本文化論も、「ナショナリズムの道具」と徹底的に批判された。その結果、メディアには人物論しか残らず、「国の形」を扱う大きな議論が失われた。プロの歴史学者がせっかく実証研究を進展させても、その知見を社会に還元する回路がない。そういう現状に一石を投じたかった。

──世界の「中国化」が進むと、何が起きるのでしょう。
先進国でも途上国でも、国家を頼れなくなる。企業や地域共同体も拠り所にはならず、個人のネットワークを使って生き延びるしかない。ウェブ上のソーシャルネットワークの急激な普及はその先触れだが、中国人の伝統的な生き方に重なる。

──現在の中国をどう見ますか。
「理念」を統治の核に据えて、権力の一極集中を正当化するのが伝統中国で、今日も儒教道徳が共産主義に変わっただけ。だがその理念の空虚さが明らかで、外向けのソフトパワーに欠けるのが、覇権国になるには決定的な弱点。日本としては、中国より高い理念を掲げることこそが外交上の力になる。TPP(環太平洋経済連携協定)ではないが、「環日本海不戦パートナーシップ」を持ちかけて、中国も憲法9条にサインを、くらいの姿勢で臨んでは。

──「平和憲法で中国を抑制」という本書の結論は、珍しい提案です。
日本史上では「中国化か江戸時代か」がつねに対立軸なのに、冷戦下でしか通用しない「右か左か」で考え続けていることが、思考力を奪っている。戦後の一国平和主義は「鎖国」で対外紛争を防ぐ江戸時代的な発想だったが、「中国化」の時代には、憲法の別の活用法もあっていい。

                                                                                                                         以   上

2012年6月10日日曜日

いつか来た道


ユーロ危機が現実味を帯びてきた。対岸の火事と見ていた我々日本人にとっても金融グローバル化の現代、一連托生の危機感は徐々に芽生えてくる。
問題のユーロ圏のデフォルト(債務不履行)が懸念されている国の国債を総称PIIGS債と称しているが、PIGとは英語で豚の意味でいいえて妙である。その国はポルトガル、アイルランド、イタリア、ギリシャ、スペインの五ヶ国の頭文字を取った略である。
この内アイルランドは既に破綻し、EU圏で救済の手が差し伸べられた。
EUの新条約「財政協定」は「財政赤字をGDPの0.5%以内にする」という相当に厳しい資金援助の条件を提示して、これを国民の約6割が受け入れ、アイルランドは「財政赤字をGDPの0.5%以内にする」という条件を「憲法」に定めることになり危機を脱したので、PIIGSからIが取れPIGSが現在の財政破綻の順番を待っている。

物わかりのいいアイルランドに比べるとギリシャは国論を二分しゴタゴタが続いているさなかに今度はスペインの財政危機が表面化してきた。
ユーロ加盟国は、マーストリヒト条約(EU欧州連合条約)で定められた条件(財政赤字はGDPの3%以内、累積赤字はGDPの30%以内など)を守らなくてはならないのだが、通貨統合だけで政治統合まで至らないため、ほとんどの国が遵守していないようだ。そのため各国が自国の都合に合わせて国債(PIIG債)を発行し、それが財政を圧迫している。ギリシャに端を発したユーロ危機ではあるが、ギリシャの場合GDP27兆円の150%(40兆円)を抱えていたが、そのうちの77%が国外の金融機関だったことで危機が増幅され国債の買い手がつかなくなり金利上昇に転じ,償還もままならない事態に陥った。


ところがここにきて問題になっているスペインでは規模が大きく、国債残(公的債務)は、GDP 112兆円に対し68.5%の77兆円だが、民間法人と世帯の債務が、GDP(112兆円)の2.2倍(250兆円)もあることで、大半は、ギリシャと同じく国外の金融機関からの借金で賄っている。国債と合わせれば、GDP比で2.9倍(327兆円)の負債になるそうだ。
スペインの危機は財政規模がギリシャとは桁(けた)が違うだけに、EUにとって容易ならざる事態である。 そのためギリシャ問題が影が薄くなってきている。 
報道ではバンキア銀行が、最近政府に行った支援要請の額が190億ユーロ(1兆9000億円)と想像以上に巨額であったことから、同様な不良債権を抱えた銀行群を財政赤字に悩む政府が支援しきれずに 、連鎖的な銀行破綻が発生して金融恐慌が起きる懸念が取りざたされ始めたのである。

ECB(欧州中央銀行)がPIGS債をどこまで買い支え、ユーロ暴落の大火事にならないようにくすぶり続けるPIIGS債の飛び火を押さえ込めるのかが焦点になっている。このPIIGS債に対しては、米国の銀行も、約100兆円のCDS(保証保険)を引き受けており、分かりやすく言えば連帯保証のようなものだ。他国の銀行も持ち合いで大なり小なり同じことをやっている。
つまり、これは民間企業に投資している人が掛ける一種の保険のようなもので、いわば2008年に世界的な金融危機を起こしたサブプライム・ローンの兄貴分のようなものである。サブプライムは個人の破綻を前提にしているが、CDSはその対象が企業 で規模も桁違いである。そのため実体経済の何倍ものマネーが世界を駆け巡っている。

CDS (クレジット・デフォルト・スワップ)とは何かというと、企業の債務不履行にともなうリスクを対象にした金融派生商品で、対象となる企業が破綻し 、金融債権や社債などの支払いができなくなった場合、CDSの買い手は金利や元本に相当する支払いをCDSの発行会社から受け取るという仕組みの商品である。

ユーロ暴落は、ユーロ債(ドイツ債以下、ユーロ17ヵ国の国債・証券・株)をもつ、世界の金融の破産も意味し、その損の規模は、08年9月の、米国発金融危機の2倍にもなるととりざたされている。
今世界が固唾を呑んでユーロ危機を見守っているが、それも世界金融市場の崩壊が来ないことを祈りつつ。
夢か現か金の亡者達が構築してきたバーチャルな金融市場の崩壊が進み、誰もくいとめることが出来なくなり、やがてゾンビのようにまた甦るのか?ヨーロッパ経済は既に恐慌に入っている。

2012年6月1日金曜日

アートな話「ミッドナイト イン パり」

ミッドナイト イン パリ
とある映画館でひさしぶりに面白い映画を見た。アメリカの売れっ子の監督:ウッディ・アレンの2011年度制作のアカデミー賞脚本賞作品である。
主人公の映画脚本家ギルは、婚約者イネズの金満家の父親の出張に便乗して憧れのパリにやってきた。アメリカで脚本家として成功していたギルだが,現在は本格的な作家を目指して小説を執筆中だ。

パリへ来ても、街を楽しむというよりショッピングで頭いっぱいのイネズの自己中心的な振る舞いに翻弄されながらも、彼女の性的な魅力に負けお付き合いをしているギルではあるが、イネズの昔の知り合いとパリで出会ってからは、自分たちの時間を蔑ろにし、連中と付き合わされたギルは夜も深けた頃、彼女と別行動を取ることになった。

0時になるとやってくる古いプジョー
酒に酔って道に迷い途方に暮れたギルの耳に0時を知らせる鐘が町に響いた時、階段の下でたたずんでいると、どこからともなく現れた旧式のプジョーが目の前で停車する。
車中の1920年代風の格好をした男女がギルを誘う。車中での酒盛りに心を許し、そして向かったパーティには、コール・ポーターがピアノを弾き、F・スコット・フィッツジェラルド(米国の作家)と妻ゼルダがいた。そのパーティは詩人のジャン・コクトーのパーティだった。
そこでギルは、彼が愛して止まない1920年代のエコール・ド・パリの真っ只中に来ていたことに気づく。ここで観客も心躍る音楽に乗ってタイムスリップさせられる。
ギル A.ヘミングウェイ G.スタイン
 その後、フィッツジェラルド夫妻、ポーター夫妻と行ったクラブでは、黒いヴィーナスの異名を持つジャズシンガーのジョセフィン・ベイカーもいた。その後に、フィッツジェラルド夫妻と飲みに入ったバーでは、アーネスト・ヘミングウェイと出会う。ヘミングウェイに自分の小説を読んでくれないかともちかけたギルだったが、ヘミングウェイに「自分は読みたくないが、代わりに美術収集家で批評家のガートルード・スタインを紹介しよう」と言われ、舞い上がる。1920年代のパリは世界中の芸術家のたまり場でもあり、画家達はエコール・ド・パリとして、モンマルトル近辺にたむろしていた。ここにタイムスリップしたこのストーリーは、軽快なギターとバイオリンのBGMでパリの古き良き時代を彷彿とさせる演出だ。この音楽は主人公が憧れの芸術家達に会えて心躍る様を見事に捉えている。

アドリアナと歩くギル

次の夜、イネズを一緒に誘うが、真夜中になる前にイネズは「疲れた」と帰ってしまう。彼女が帰るやいなや、夜中の12時の鐘が鳴りギルは階段の下で連中を待っていた。、例のBGMが流れるとまた古いプジョーが現れた。車にはヘミングウェイが乗っていた。彼と一緒にスタインの家へ行くと、今度はそこにパブロ・ピカソとその愛人、アドリアナがいた。スタインはピカソとピカソの描いたアドリアナの肖像画について論議をかわしていた。そこで初めてアドリアナに会ったギルは、一目惚れしてしまう。彼女はかつてモジリアニの恋人だった。


サルヴァトール ダリ
こうしてギルの奇妙な日常が続く、 夜な夜な現代と1920年代のサロンを行き来しながら、婚約者イネスとの関係とアドリアナに魅かれる自分に悩むギル。しかし、シュルレアリストである、サルバドール・ダリ(これは戦場のピアニストを演じた俳優)、と写真家のマン・レイからは、「それはごく自然なことだ」と言われてしまう。いずれもなんとなくそれらしい風貌の俳優が各々の芸術家の役をこなして面白い。特に若き日のピカソはそっくりさんの俳優で、髭面小男のロートレックまで出てきた日には笑える。そしてギルはスタインのアドバイスによって小説を手直しして、完成に近づけていく。

やがてアドリアナは、さらに一昔前の19世紀末から20世紀初頭のベル・エポックに憧れ、彼はおいてきぼりをくらう。価値観と波長の違う婚約者との決別を決意し、パリで暮らすことを決めたギルは今のパリの街で(コール・ポーターのレコードがかかっていたアンティークショップで知り合った)ガブリエルと偶然出会い、そして雨の中彼女と未来に向けて歩み出し映画は終わる。

ラパンアジル
 私にとってパリは26年前の旅先で寄った場所でもあり、映画にラパンアジルが出てこなかったのが残念だったが、パリの情景を思い出しながら、モンマルトル当たりの風景や、数多くの観光スポットが映画の画面から走馬灯のように現れた。あの時は画家達のたまり場だったラパンアジルにツアー仲間と繰り出し、店の前の小路で犬のふんを思い切っり踏んだことや、店でワインを飲んだりしたリしたことなど、また一人の時はあのヘンリーミラーが、娼婦と暮らした小説「クリーシーの静かな日々」に出てくるクリーシー広場の牡蠣料理店で生牡蠣を12ピース食べ、南仏の磯の香りを味わったことなどが頭をよぎり、しばしパリの街とそれを彩る音楽に浸った。

夜な夜なタイムスリップを繰り返しながら、イリュージョンの世界に入っていく主人公は、過去がどんなに素晴らしくても、自分は現在を生きるしかないということに気付き、新しい恋人と歩み出す。映画館でなければ酒を飲みながら観て、トリップしたくなるようなひさしぶりに楽しい映画だった。