2016年1月28日木曜日

生と死のパラドックス

「死と生」 クリムト 1916

昨年暮れに親父が体調を崩し入院した後、年が明けて今月半ばに退院自宅療養に至ったのであるが、年齢も年齢だけに体調は芳しくない。足腰が弱いところに身体の衰えが目立ち介護支援をお願いした。
地域の介護センター経由で定期的にヘルパーや看護師のお世話になっていたのであるが、自宅療養は思った以上に負荷がかかり、時間に縛られがちである。女房と2人で昼夜を問わず身の回りの世話で明け暮れ、歩行困難もあり、食事もとれなくなったので、いよいよ緩和病棟に入院の運びとなった。


人間の死に様は人それぞれで、若くして急逝する人もあれば、じわじわ逝く人もある。死を悟って逝く人あれば悟らずに逝く人もある。その生き様が死に様となって現れるのであろう。私は親父のように96まで生きれるとは思わないがピンシャンころりと逝きたいものである。人生は長短で図れるものではなく密度が重要であろう。
思えば人間は誰しも無に向かって生きているものである。死(無)を意識した時から充実した人生を送ろうともがき苦しむ。目標を達成して逝った人、絶望の中で自ら逝った人、他者の過失あるいは意図によって逝った人、自然災害で逝った人、いずれも死は生のパラドックスとして蓋然的にやってくる。


病院は自宅から近いところにあるので、毎日親父の顔を見に行くのだが日に日にやせ衰えていく姿を見るのは辛いものがある。話す言葉も弱々しい。
いずれ訪れる時に向かって、日々を懸命に生きることの大事さを「死」という表層が語り掛けている。病室に行くたびに眠りこけている親父を見ると、眠りは痛みの緩和剤なのだろうと思う。介護なしで生きられる健康寿命を96年間全うしたのだから、あとは安らかに旅立ってもらいたい。


人間をかたち作る細胞はある一定の時間を経るとアポトーシス(死の指令)によって死を迎え、やがて新しい細胞に生まれ変わり、新陳代謝を繰り返し、生命を維持していくのであるが、まさに生と死が拮抗している中で、ガン細胞はアポトーシスを拒否して生き続けようとしている細胞である。この存在は生き続けるためにかえって生体そのものの死につながるというパラドックスの極みを我々に提示する。
8月には娘に子供が生まれる予定であるが、ひ孫の顔も見ることもなく生を終えるのであろう。大正、昭和、平成と生きてきた親父が死を迎え、やがて新しい命が生まれようとしてしている。そして
変わらぬようにリフレインが流れていく。

2016年1月16日土曜日

悪夢

サーキットブレーカーでオバさん真っ青(上海)

年明け早々、中国株の暴落による株の乱高下が止まらない。東京市場では4日連続の株価下落である。日本株の65%を持つ外人投資家が動くのであるから我々個人投資家はその現況を知る由もない。かたや米国に次いで世界第2位の規模を誇る株式市場中国市場(上海)の国家介入の株価操作や取引停止(サーキットブレーカー)などで右往左往する市場で、売買の90%近くを占める個人投資家の映像など、世界経済の動きはめまぐるしい。
就任当時,習近平が連呼していた「中国の夢」は,いまや「中国の悪夢」に変わった。中国国内の不動産と株のバブル崩壊が進行しているのである。


一方我が国では、公的年金運用(厚生年金・共済年金)での株式投資割合の拡大し、140兆円を超える公的年金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の 2015年7-9月期の年金運用損失が、約7兆9000億円に膨れ上がったことが報道されている。ただでさえ切迫した年金基金を、ギャンブル漬けにしたアベノミクスの成れの果てである。今後、株価の暴落次第では何10兆円規模に膨らむ可能性もあるから空恐ろしい。


想像以上に悪い中国経済による世界同時株安が進行する中で、原油安が止まらない。日本にとっては有り難いことであるが、産油国、特にロシアなど過去に原油安が引き金になって崩壊した国は心穏やかではない。原油頼みのサウジの国家破産につながる弱体化によるイランとの不穏ないざこざ、はたまた採算割れの米国シェールガス会社の倒産増加などなど、今や中東、アメリカ、ロシアなどが増産で潰しあった結果、原油価格は3分の1以下になってしまいバタバタ倒産し始めた。ちなみに昨日国道沿いのガソリンスタンドではレギュラーガソリンが102円の看板が出ていた。

特にシェール企業の債権はリスクは高いが高利回りの『ジャンク債』と呼ばれ、昨年来暴落が始まりウォール街では第二のリーマンショックが懸念される状態になっている。
大元の供給先の粉飾経済国家である中国経済の悪化によって、世界全体がデフレギャップに陥っている状態が今の世界である。あの悪夢(デフレギャップ解消の極めつけである戦争)が来なければいいのだが。

2016年1月7日木曜日

アートな話「アートの眼」

「眼」エッシャー  1946


 
脳科学者の話では、人間の大脳皮質の3分の1の領域が「見る」機能に充てられているのだそうだ。勉学や仕事や趣味や人との付き合いなどで日々、頭をひねり、心を砕き、一喜一憂することが山のようにある中で、物を見るだけのために脳の半分近くを使っていることになり、このことは、見るということは決して単純でも簡単でもなく、とてつもなく膨大な情報処理を必要としていることを裏付けしている。見ること,すなわち我々を取り巻く世界の認知の大半が視覚に依存している。自然環境としての外部世界はもとより、人間社会における情報のすべてが文字・図形・静止画 像・動画像という形式で視覚に訴え、働きかける。また人間特有のイメージ喚起能力も眼前にないものを頭の中にイメージ(視覚化)することであり、過去に蓄積された視覚像を喚起して頭の中の「視覚像」が世界の認知に果たす役割は非常に大きい。
また見たいもの見たくないものによって、視線の集中度合いが異なり、視線はモノの特徴点を随時移動しながら形をとらえていく。いみじくもかつてサルトルが「想像力の問題」のなかで、事物を見ることの眼差しに対する考察において、見る行為を対象物を所有する概念に置き換えたことに少なからず衝撃を覚えたことを思い出す。

頭部を固定し、1点を凝視した状態で見える範囲を視野といわれているが、視野計による調査では、「人」の視野は左右約200度・上下約140度といわれ、 この場合左右については大差ありまりないが、上下に関しては上60度・下80度と下の方が 広く、日常生活ではさらに下の方が優位になるようだ。このことは、我々の身の回りの物は大部分が眼の高さより下にあって、とりあえず注意を払うのは目の高さから足元ということになる。

一方で厳しい自然界で生き残っている動物たちは、人間とは違った視界を持つことで有利に生存競争を戦っている。大半の動物は眼が顔面の両側にあって、各々の視野が独立するかたちでほぼ360度の視野をもつのに対 し、人間の場合は両眼とも前方を向いていて、左右の眼の視野の共通領域が広くなっている。つまり両眼での全体の視野は狭いが、両眼視による奥行き知覚 が有利になるという特徴をもっている。
このことは、「人」以外の動物が障害物や外敵といった自然環境に関する情報を重視するのに対し、「人」はそうした情報よりも相手の表情やしぐさ、あるいは 文字や画像情報といった同種のもの同士でのコミュニケーションに関わる情報を重視することを物語っている。

さてこの奥行き知覚であるが、目の構造上本来2次元である網膜像をもとに、我々は奥行きを含む3次元の世界を認知している。
この奥行きを知る手がかりには絵画的要因がある。 絵画的要因とは、大きさ・上下・重なり・きめの勾配・色調・コントラスト・明暗・影のできかたなどで、配置や描きかたによって奥行きを知る手がかりが得ら れるというものだ。 そのほかに視点が移動中の車窓などで見られる風景で、近くの風景と遠くの風景とでは移動のスピードに差があり、この運動視差による奥行き知覚もある。いずれも視覚に潜むアートな話で今年も始まりそうだ。