2011年5月20日金曜日

国が乱れる兆候




「立てば国難、座れば人災、歩く姿は風評被害」 詠み人知らず。




評論家伊藤肇のベストセラー「現代の帝王学」の中に、中国漢代の学者荀悦の著述《申鑑》を引用している箇所がある。古代中国を知ることは日本を知ることと、私は思っているので、この部分を現在の政治状況と照らし合わせてご紹介してみよう。

説明を追加

後漢末の「申鑑」の中に「国に重い病気が4つある。」として、「四患」を論じている。

第一に「偽」。

 国家、国政に嘘が多くなる。

選挙などはその例であろう。小沢幹事長が政府に文句をいったように、公約が簡単に反故にされる事態。尖閣諸島問題、大震災後の原発事故後の正確な情報を国民に流さないことなど。嘘とわかるようなウソをつくところに管首相の器量が分かるというものだ。

今、福島原発の1号機が初期の段階でメルトダウン(炉心溶解)を起こしていることが判明したが、2号3号機もすでに同じ状態が続いていることが懸念されている。メルトダウンの事実を東電も首相も当初から知っていたのではないかと疑いをもたれている。みんなの党の渡辺代表は「今度の大震災の菅首相の危機管理の対応について危機を過小評価しすぎたため、それを正当化するため不都合な事実が起こるたびに情報を隠蔽し、国際的な風評被害を生んだのは万死に値する。」と述べている。
第二に「私」。

 国家、社会という公を忘れ、皆が私利私欲に走り出す。政治の悪性は政治家とその取り巻きが私利私欲に走ることである。

5月2日に成立した1次補正は4兆円規模にすぎず、本格的な復旧・復興費用は復興の根幹である2次補正に計上することになっていた。
だが、菅直人首相は16日の衆院予算委員会で「拙速にすぎるのは復興事業にとって気をつけないといけない」と答弁し、2次補正の提出は8月のお盆休み以降に臨時国会を開いて先送りする考えを示した。相変わらずの内閣延命作戦だ。この期に及んで被災者・被災地対応を放置することは断じて許されないだろう。それよりも内閣改造での政権浮揚を考えることで頭の中がいっぱいらしい。
西岡参議院議長

すべて大事な事案を先送りする管内閣に業を煮やした西岡参議院議長も立場も考えずに止むに止まれず首相の退陣を求めて19日付の読売新聞に寄稿している。
特に西岡氏は、震災発生以来の首相の対応について、首相としての責務を放棄し続けて来たと批判し、必死さも、決意も、術もなく、今おやめにならなければ原発事故がもたらす重大な課題も解決できないと強調している。


自民党の谷垣総裁は、東日本大震災復興に向けた 2011年度第2次補正予算案を提出せず、今国会を6月22日の会期末に閉じる場合には 内閣不信任案を提出する意向を表明した。与党内にも小沢をはじめとする反管グループもその動きを見せている。
自公民との復興の連携を図ったがそれも自らの人徳のなさで頓挫してしまった。すべて自己保身の目論見が透けて見え、大連立を延命の道具に使う意図を見抜かれてしまったからだ。


第三に「放」。


法律を無視した「放埓」が幅を利かす。

鳩山に続き普天間の解決策を潰し、問題を先送りにしていることはこのことに当るだろう。理解もしないで解決策を否定することは、それまでの努力を無に帰することになる。重大緊急事態に対処する重要事項を審議する安全保障会議も開かずに、10万人の自衛隊員の出動を命じたり、浜岡原発の緊急記者会見や、その他重要案件を法制化せずに思いつきで発令したり、これといった災害対策法案も出せないまま独断先行の采配をふるっている。誰が言ったか知らないが、鳩山は最低の首相、管は最悪の首相とは言い得て妙である.これほどやめろコールが鳴りやまない人望の無い首相も珍しい。先に外国人の献金で辞任した前原外相に続いて同じ案件が発覚し、辞任に追い込まれるところを運よく大震災の発生で難を逃れた管はこれで2年は続けられるとつぶやいたとも言われている。



第四に「奢」。


実力もないのに贅沢だけを覚える。

日本人はいったん走り出すと不幸なことが起こるまで彼らは止まらない。国策とはいえ原発推進の御旗のもと政官民一体となり、脆弱な地震列島の上に54基の原発を作り、全電力の35%の供給を原子力に委ね、利便性を享受している我々国民。電力コストを考えれば原子力だが、コストは安全性に変えられない。浜岡の2次堤防が出来るまでの2年間の停止要請など気休めに過ぎない。直下型の活断層の激震が来れば施設はズタズタになることは専門家の間で多く言われていることだ。

以上この4つの病気で国は衰退していく。


被災地の産業の復旧では、農業なら耕作時期、漁業なら漁期などに間に合うよう地域ごとに迅速に対応する必要があり、中央での多くの会議の結論待ちでは復興の機会を失ってしまうだろう。ひたすら、復旧・復興のスピードアップを図るべき時にお盆休みを過ぎて2次補正を出すとは被災者をないがしろにするものだ。

ポスト管が見当たらない今、裸の王様は益々権勢を振る。まことに民主党政権の責任は重い。いつの間にか我々は問題を先送りする内閣は、政権能力がないことに気づかされた。

2011年5月12日木曜日

アートな話「平塚美術館」



■画家たちの20歳の原点


池田満寿夫「橋のある風景」

先日平塚市にある平塚美術館に行った。明治・大正・昭和から現代まで様々な新旧の54人の画家たちの約120点の20歳
前後の絵を集めている「画家たちの二十歳の原点」という企画展で、併設で北大路魯山人展もやっていた。

全国の美術館から集めた作品の中には、今回の震災で持ち込めなかった東北の美術館所蔵の作品が写真で展示していた。「二十歳の原点」の企画展は、青木繁、坂本繁二郎、など明治の大御所から始まり、大正から昭和へと、それぞれの時代の空気を投影しながら、どれも「若々しい」真摯な姿勢が感じられる作品が出品されていた。それぞれの思いを込め20歳前後の多感な時期に漠然とした未来に対する不安と希望の入り混じった青春時代がそこに繰り広がっていた。後に明るい色調になる何人かの作家たちは、一様にその色調は暗く重かった。中には池田満寿夫の作品とともに両親にあてた、切々とした手紙が印象に残った。

草間弥生「flower」 靉嘔「クレーンと人」

草間弥生の「Flower」(1953)は、初期のころからもうすでに水玉模様。粘着質の作風が際立つ。対称的なのはレインボウカラーの夭折作家靉嘔 の無機的な作品「クレーンと人」が彼の作品とはだれも想像できない過去のモニュメントだ。




石田徹也「燃料補給のような食事」
そして、石田徹也の「燃料補給のような食事」。31歳の若さで交通事故で亡くなった石井徹也の絵はシュールリアリズムに通じるインパクトをはらんでいる。現代社会が生み出す精神的な抑圧感や日常の中に潜んでいる怖さ危うさなどの負のイメージを鏡のように鮮やかに浮き上がらせる。この作家の作品には石田自身の自画像と思わせる人物が必ず登場するのが特徴だ。石田徹也のような典型的な夭折の画家はもとより、長い活動に生きた芸術家たちもまた、この時期の作品に創作の核となる初々しくも痛切な感性のほとばしりに満ちていた展覧会であった

●会期は6月12日まで


北大路魯山人展

食に対するたぐいまれな美意識と料理を盛りつける器までを自ら手がけた北大路魯山人。展示された作品はほとんど食器であり、それ以外の器は好んで作ろうとしない。食通でもある彼は最後に肝臓ジストマという寄生虫による肝硬変でこの世を去った。食通らしい最期である。
芸術家は短命か長生きかの2様が多いが、彼の場合77歳で死去したのであるから長命の方で味道を追求した揚句の最期で、魯山人らしい生き様死に様であろうか。

魯山人は京都府生まれ。16歳から書や篆刻(てんこく)で名を知られた。美術骨董(こっとう)店「大雅堂美術店」を経営し、38歳で同店2階に高級料理店「美食倶楽部」を開設した。自作の器で料理を振る舞いたいと考えた魯山人は、40歳を過ぎて本格的な作陶活動を始め、古陶磁の研究を基にした織部焼や志野焼の新たな創造など独自のセンスで世に作品を発表してきた。いずれもそのルーツは桃山時代に端を発した瀬戸と美濃窯である。個人的には織部のグリーンの色調はあまり好きではないが、しっとりとした志野焼きの絵付けの作品がしっくりくるし、料理の邪魔をしないと感じた。
  ●会期は6月19日まで

2011年5月9日月曜日

見えない敵




人類の歴史は未知の脅威に怯え続けてきた歴史でもある。そしてそれら脅威に対する戦いは今もやむことはない。善と悪があるように、見えない敵は無くなることは無い。細菌、ウィルス、テロリスト、そして放射能.... ゆえに共存していくしかないのが定めである。

病原体

細菌もウイルスも病原体で人間に悪さをするものだが、細菌は分類上は植物に属する単細胞生物で、人間や他に生物に入り込み細胞分裂で増殖する。つい最近起きた焼き肉チェーン店の大腸菌O111で4人の死者が出たのもこれで、おまけに交配を重ねた雑配種の福島産の和牛である。
病原菌の場合は抗生物質などを使う必要があり、大きさは1~5ミクロン程度と極小、それ以下もあり、今までに確認されている細菌はコレラ菌などを含めてナント1000種類を超え、実は、「バクテリア」と呼ばれているものもはギリシア語からきた日本で言う「細菌」のことである。 これとは別に我々がお世話になっている細菌もある。日本酒、そしてパンを造るのに働いてくれる酵母は真菌(しんきん、カビとも言っている)



さらにそれより怖いのが超極小のウイルスで、大きく違う点は自らが細胞体


ではないこと、DNAと、それを包む殻だけからなる超極小の微粒子で電子顕微鏡でしか目視できない代物だ。こいつはおなじみのインフルエンザや、昨今増加が著しいエイズなど、生物の細胞に寄生し生きた細胞内でのみ増殖するというから恐ろしい。誰もがこいつにお世話になりたいとは思っていない。 (写真はインフルエンザウイルス)

テロリスト
つい最近9.11の同時多発テロの首謀者、オサマビンラディンが米軍の特殊部隊によって殺害され、アメリカ人の多くは浮かれているが、彼らテロリストは航空機の次は列車転覆を計画していたことが分かった。アルカイーダの分子は世界中に拡散しており、アメリカと関係の深い日本も例外ではないだろう。
いやアメリカの原子力発電所を標的にされたらえらいことになるという関係者もいる。アメリカのテロとの戦いは終わるどころか、果てしなく続くだろう。 別の情報では、9.11の首謀者がアメリカの陰謀で、彼を殺したのはアメリカにとって都合の悪いことを喋られなように、口封じをしたとも言っているが、事実は依然闇の中である。分からぬように水葬にしたのも解せないが、なぜかネットでは彼の死に顔が流出している。

放射能



巷では何ミリシーベルトうんぬんと騒いでいるが、これは外部被曝のことで、放射線を1時間あるいは1日当たりいくら浴びているかの話で、実際の脅威は放射性物質を体内にどのくらい取り込んだかという問題になる。

肥田俊太郎/鎌仲ひとみ、共著『内部被曝の脅威』(ちくま新書)で詳細が書かれているので、一部を抜粋するとすると以下の通りである。
細胞の約6兆分の1の気の遠くなるような微粒子(α(アルファ)線、β(ベータ)線、γ(ガンマ)線)を人体に浴びた場合、極度にミクロの世界のことでそれらが細胞を破壊するメカニズムは十分解明されていない。(写真は浜岡原発、放射性廃棄物)

人間の新陳代謝活動は、酸素や水素、窒素などの分子が行う化学反応によって維持される。その時のエネルギーの単位は「電子ボルト」である。これに対して放射線分子の持つエネルギーは、なんとその100万倍にあたる「メガ電子ボルト」という単位で表される。体内・細胞内に侵入した異端分子である放射線分子は、体に必要な分子の100万倍のエネルギーで暴れまわる。この暴れん坊将軍が新陳代謝の中に割り込んで掻きまわすことで、体に重大な障害をもたらすのだ。体内で放出される放射線量がどんなに微量であっても、この膨大なエネルギーの力で細胞は傷つき、破壊されることになる。大本営が「“ただちに”健康への影響はない」と発表しているが、「絶対に健康への影響はない」と断言しないのはこのためである。

しかし内部被曝のメカニズムでもっと恐ろしいことは、長時間に渡って低線量放射線を浴びる方が、高線量放射線を瞬間的に浴びるよりも、たやすく細胞膜が破壊される、ということである。つまり、少量の内部被曝は、外部被曝や中量の内部被曝よりも危険な場合があるということだ。
体内に取り込まれた放射性物質は放射線を放ち続け、細胞を破壊し傷つける。

話題に上るヨウ素131は甲状腺へ濃縮され、許容範囲の数百倍、数千倍に膨れ上がる。セシウム137は骨、肝臓、腎臓、肺、筋肉に濃縮される。ストロンチウム90は主に骨に濃縮される。こうして生みの親である人類に容赦なく襲い掛かる。

 核兵器の開発、原発の建設、劣化ウラン弾の拡散は、人類を確実にヒバクシャへと誘う。そのほとんどが内部被曝によるものである。すでに、全世界において、内部被曝による被曝者の数は1000万人に達するといわれている。それは、チェルノブイリの被曝者であり、湾岸戦争、イラク戦争において劣化ウラン弾で被曝したイラクやアフガニスタンの人々であり、そこへ参戦した帰還米兵であり、世界に広がる原発から漏洩する微小線量で被曝した地域住民であり、ウランを採掘し処理する人々であり、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ、における被曝者たちである。福島原発の事故によって首都圏で観察された“微量”の放射線量を考えるならば、被爆者の数は増えることはあっても減ることはない。