2013年2月23日土曜日

金が仇のこの世



厚労省は日本人に多い胃癌がピロリ菌の感染によって引き起こされる割合が高いので、今まで保険対象外だった除菌治療を健康保険の適用範囲に入れることになったそうだ。ただし慢性胃炎の症状がなければ検査は実費のようだ。
最近かかりつけの医者にピロリ菌の検査を聞いてみたたら保険がきかず、数万円かかると言われ、症状もないのに検査の必要はないと言われたことを思い出した。というのも年1回の胃カメラ検査がどうにも嫌で、ピロリ菌の検査をして、いないことが分かれば胃がんのリスクはかなり低いので、胃カメラも飲まなくて済むだろうと安易に思っただけである。
最近はがん治療に関して、日本の多くの医者はすぐに患部を切除したがるが、欧米では放射線治療が主流で、最先端の陽子線治療では、放射線よりも安全に患部のがん細胞だけを照射でき、周りの正常な細胞組織を傷つけたりしないようだ。ただしこの陽子線治療は保険適用外で、完治するのに約280万円以上かかるらしい。

交通事故にせよ、重篤な病にせよ、巷では体中に輸血ルート、気道チューブ、動脈ライン、などのチューブやセンサーを取り付けられた重症患者のことをスパゲティー症候群と呼ぶそうだが、本人は意識がなく死を待っている末期治療にも、一日あたり数十万円もの医療費がかかるそうな。
また自力で食事もできず寝たきりの床ずれ患者も、硬直した体に、直接胃にパイプラインを引いて液状の流動食を流してもらっている、いわゆる胃籠(いろう)患者も介護の世界では増えているようだ。このようなお世話にはなりたくないが、私も介護保険料はきっちり取られている。

国も加速化する高齢者の医療費増大にあの手この手を考えているようだ。まして例外無き関税撤廃と医療分野への進出を図るアメリカ主導のTPPに加盟すれば、国民皆保険制度の崩壊につながる可能性を医療関係者は危惧している。
TPPで公的または民間の保険による混合診療が解禁になると、高度な医療は自由診療となり民間の保険でカバーされるようになる。公的保険制度はなくならないまでも、民間保険が進出して自由診療が広がると、財政破たんしている公的保険はその適用範囲をどんどん狭めていく懸念がでてくる。
混合診療となると公的保険でカバーしなくてもよい言い訳ができ、国民は民間の保険料も支払うこととなるので負担が高くなる。民間の保険料が払えない人は高度医療を受けることができないという事態になる可能性が出てくる。(交通事故を例に取れば任意保険に入っていて自賠責保険はほとんど使われないケースなど)
 現在の公的保険での診療報酬は保険の財政が破たんしているから、世界の中でも極端に低く抑えられている。特に命にかかわる高度医療は極端に低額であるため、多くの基幹病院は赤字のようだ。そのために民間の保険会社が参入した場合は医療費は世界基準に跳ね上がり、治療を受ける側は金持ちは命が助かり、貧乏人は命が持たないことになる。


TPPに反対しているのは医師会(開業医の団体)で、医療費が高くなると、薬局で買うよりも安いからといって、風邪薬や湿布をもらいに来るような軽症者は医療機関に来なくなるから軽症者をみる開業医は死活問題であるが、しかし勤務医は診療報酬が世界基準になるので、正当な報酬を得ることから医師はこぞって自由診療に走ることで賛成しているようだ。
公的保険しかない人たちはアメリカの医療のように後回しにされたり診療を受けられなくなる。救急の受け入れも保険次第となるから、民間保険がないと現在よりもたらいまわしが増えるので、したがって無理してでも民間の保険に入らざるを得なくなるという具合になる。日本にはびこっている米国の保険会社にとっては、目の前にぶら下がっている人参のようなものだ。営利事業が相容れない医療の世界が外圧で様変わりする日は近い。

現在 厚労省は皆保険を守りたい意向はあっても、財務省は財政赤字を減らすために混合診療にして公的保険の範囲を狭くしたいと考えている。
世界に誇る国民皆保険制度は内部からも外部(外圧)からも崩壊の兆しが見えてくる。それは、全ての国民に健康な生活を保障した輝かしい憲法25条も風前の灯になることを意味している。一番割を食うのは医療難民となっていく国民で、米国にTPPの交渉に行っている安倍首相の舵取りやいかに。
 

2013年2月5日火曜日

天に唾を吐くもの

スモッグにまみれた北京市内


報道によると、 中国の有害物質を含んだ濃霧が深刻化しており、中国北部の長春、瀋陽から、南部の珠江デルタまで、東部の済南から、西部の西安まで日本の国土の3倍以上に当たる約130万平方キロを包み込んでいる。被害面積は中国全土のおよそ7分の1であるが人口密集地域であるため、被害人口はおよそ8億人に及 ぶというから大変である。所によっては、肺がんやぜんそくを引き起こす微小粒子物質PM2.5が、世界保健機関(WHO)の基準値の20倍も含まれていた。

汚染地図

同期間中、大気汚染の主要原因となっている車の排ガスなどに含まれる微小粒子状物質「PM2.5」の平均濃度は、354マイクログラム/立方メートル。前日の同期間に比べて、明らかに悪化したという。 北京市気象台の統計によると、29日の時点で、1月のうち濃霧が発生した日は24日間に上り、同期では1954年以来最多を記録した。粗悪石炭使用の工場や家庭からの煤煙、粉塵も加わりその環境は最悪だ。その影響がとなりの韓国にも出ており、日本も偏西風の方向しだいでは影響は免れない、すでに中国に近い九州では計測されており、福岡市では定期的に計測発表することを決めている。国際エネルギー機関 (IEA)の最新の世界自動車需要予測によると、中国国内の自動車保有台数について、現在の6000万台から、2035年には4億台に拡大すると見ているから空恐ろしい。

中国共産党政権はこれまで、GDPの急成長をもって「共産党しか中国を治められない」と言ってきて、保八すなわちGDPの成長率を8%以上維持するという国家目標に向かって邁進してきたが、その性急な発展は深刻な環境汚染という形ではね返ってきた。そしてその深刻な環境汚染を放置してきたツケがいまになって回ってきた。水の汚染に始まって、粉ミルクや地溝油(再生食用油)に代表される粗悪な食品群や空気の最悪の汚染で中国は人間の住むところではなくなった。当局に外出を控えるように規制された市民たちは、「俺たちゃーどうすりゃいいんだい!」と断末魔の叫び声をあげている。
中国人も中国に住みたがらない。空気汚染、水質汚染、食物汚染などで害毒を垂れ流しにしているからである。中国人は諸国に移住してゲットーを作り、諸国の環境や社会道徳を汚染する。

中国の著名な環境保護活動家で、1993年に米ゴールドマン環境賞を受賞した戴晴氏は「中国社会に暴動が起きるとすれば、それは貧富の格差や腐敗によるものではなく、環境によるものだ」と述べている。
中国が安い賃金で世界の製造工場となり、多大の利益を受けて金持ちになったが、毒ミルクや毛髪で醸造した醤油など、有害物質の入った食物や物品を輸出して、今では各国が中国製品を買わないようになった。世界の有名ブランド商品の模造品は殆ど中国製である。インターネットのウイルス攻撃も中国発で、はた迷惑な国でもある。Facebookのサーバーが中国上海にあることも考えると、安易にFacebookに手を出さないほうがいいだろう。

一方で中国人が権力利用や汚職賄賂などで金持ちになるとすぐに家族を国外に移住させ、汚職、横領した金も国外に預金する。中国からの違法入国者が増える、国外逃亡した者、中国関係を利用した密輸入などで各国は迷惑している。我国にもヤクザ絡みで中国人と偽装結婚させる組織が摘発された。日本の水資源を狙って荒廃した森林の買い占めに走ったり、私の関連の中国からの漆の輸入についても関税を危険物(デインジャラスカーゴ)にして大幅に輸出価格をつり上げる目論見もしている。在日の中には善良な中国人も多いが、70万人近い在日中国人の中にはタチの悪いものも結構いるようだ。

2013年2月2日土曜日

アートな話「無用の用」

コラボシリーズ 「漁火」 吉川 創雲

上の写真は最近制作したコラボシリーズの私の作品「漁火」で、アクリルとコラボした鎌倉彫の照明と、下の作品はカミさんの作品ワインセラー「揺りかご」でどちらも木工所で捨ててあった端材(円形をくり抜いた残り物の木地)で、なんとなく創作意欲をそそられた形だったので譲り受け、2つとも半年ほど工房に寝かしておいたもので、考えあぐねていた末に、どの木地もドリルとノミで穴を開け、私は漆黒の夜に浮かぶイカ釣り船の漁火をイメージし、波を抽象化したものを彫り、カミさんはブルーベリーを彫り、ワインを載せることにした。照明の要になる素材はアクリル棒をカットして研磨し、狭い円形の土台に固定するのは難事であったが、以前訪れたことのあるベネチアの海上都市を思い浮かべ、海中の土台は木の杭を数多く使用し建物を支えていることをヒントにして、一本一本をブロックに分け、直経1cmのアクリル棒を穴に埋め込んだ。これら不用品を再利用し、息を吹き返した2点の作品は、いわばジャンクアートでもある。

ワインセラー 「ゆりかご」吉川 洛芳


我々の日常の中で一見無用なものが意味を持つことがある。1987年に免疫グロブリンの特異な遺伝子構造を解明した功績により、ノーベル生理学、医学賞を受賞した利根川進教授が、以前評論家立花隆との対談で、遺伝子について興味深いことを指摘しておられたが、これも人生やもろもろの事象における無駄とか不必要、あるいは合理性の範疇を超えた必要性を示唆するものとして心に残っている。曰く、

「遺伝子というのは、4つの要素が個体各々の順列組み合わせで並んだ長い二重構造になっている。その中に絶対必要であると思われる遺伝子とともに、こんなものがなぜ存在しているのかもよくわからない雑然とした不規則な遺伝子や重複した内容の遺伝子もたくさん見られる。」という。
遺伝子の構造が解明された初期の頃には、そういう意味不明な遺伝子のことを「ジャンク」くずと呼んでいたそうだ。よく調べてみると、そういうジャンクが数多くあることにより、遺伝子のコピーのミスが生じ、その結果突然変異が起こり、それによって変わった種が誕生し、その種が従来の種より適応性が高い場合には、適者生存で生き延びていくわけである。
実はこの突然変異の積み重ねが進化ということらしい。すなわち進化の歴史は突然変異の歴史そのもので、逆に考えると、もしも整然として必要以上のものが何もない合理的な組み合わせの遺伝子だけだったら、人類は進化しなかったということだ。

宇宙の意志というものに思いを馳せれば、仮説から進化してきた人類の歴史は単純に西洋の合理主義では推し量れないものである。

2013年1月27日日曜日

天国と地獄の国 中国

習近平

習近平は中国最後の皇帝になるのか?

20年ほど前、中国では「万元戸」年収20~25万円は金持ちの代名詞だった。しかし今や,1000万元(1億3000万円以上の富を持つミリオネアは全国に96万人もいるという。中国の富の70%を共産党官僚とその一族26万人(0.02%)が独占するという世界有数の格差社会がいまの中国である。そして自国の富の多くを海外に持ち逃げする多くの支配層の動向は、温家宝をはじめとする独占的支配層や官僚の多くの姿が報道で全世界にあぶりだされている。

【大紀元日本12月11日】によると、昨年中国のジニ係数が0.61と、世界最悪水準に達していたことが明らかになった。0から1までの数値で表されるジニ係数は所得格差を表す指標であり、 一般に社会騒乱多発の警戒ラインは、0.4と言われている。0.4は警戒線とされ、それを超えると紛争が多発し、特に0.5以上になった場合は、暴動など、極端な社会的対立も起きかねないとされている。

所得格差は中国の社会的対立の誘因になっていて、2010年に中国で発生した集団抗議事件は18万件に達し、地方政府や官僚などのへの不満や怒りの抗議行動の数の多さがそのことを裏付けている。中国当局の発表した2011年『中国給与発展報告』のデータによると、中国共産党高官の年収は農民工の平均所得の4千倍以上に相当し、貧富の差が激しいのは明らかであるが、ジニ係数については中国政府が2012年に発表した0.47とは大きくかけ離れており、膨大な数の汚職官僚の裏の収入が加算されれば0.61以上に増えると見込まれている。
ジニ係数の世界の平均は0.44であり一般的に危険水準とされているのが0.4で1に近づくほど格差が広がる。
ジニ係数は0から1の範囲の値を取り、0に近いほど平等で1に近いほど不平等、所得格差が顕著であることを示す。ちなみにOECD諸国では、日本が0.329、ドイツが0.295、アメリカが0.378などとなっている。
このようにどの資本主義国よりも格差拡大しているとんだ「共産主義国」が中国の実態で、同じ0.6台には南アのボツアナ、西アのシェラレオネなどが並んでいる。

日本も社会保障と税による再分配で改善されていなければ、社会騒乱レベルに近い格差社会になりつつある。所得格差の固定化が問題となりつつあるアメリカでは、改善後のジニ係数が0.378なので、0.4越えも時間の問題のレッドゾーンにあるわけだ。このジニ係数の裏で起きている社会現象の一つである自殺は、昨年度わが国では毎年の自殺者が3万人を切ったが、世界保健機関WHOの最新報告によると、世界では毎年およそ100万人が自殺。中国衛生省疾病予防制御センターの2007年の発表によると、中国の年間自殺者は29万人で今も増え続けている。つまり、世界の自殺者の3人に1人は中国人で、世界の平均レベルをはるかに上回っている。
共産党は中国で独裁政治をもって各階層の民衆を厳しく制御し、人身の自由も厳しく制限している。一方、官僚階級は社会の富を憚ることなく貪り取り、社会の極端な分配の不均衡を招き、その上、堕落した教育制度と喧伝により、民衆の価値観は捻じ曲げられ、物質のみを追い求めるようになっている。
中国当局は最近、2010年11月末までで中国のネット人口が4億5,000万人に達したと発表。インターネットの普及率も33.9%に上っているものの、この大仰な数字の背後には、厳しく制限されている中国の過酷なネット事情が見え隠れする。それ以上に反共産党的スタンスを保っている独立系衛星テレビ(新唐人テレビ)は、ニューヨークに本部が有り、世界にネットワークを広げている。日本版ネット放送では中国の隠された数多くの恐ろしい地獄が垣間見れるので必見だ。

中国共産党はあらゆる局面で情報統制しているが、ネットユーザーからも、新唐人テレビからも中国情勢は世界に漏れ広がっていく。
中国共産党の独裁体制は足元に火がつき自己矛盾に苛まれ、崩壊に向かわないためにも尖閣など対日的な問題にすり替え、国民の気をそらすことに専念している。いっぽうで民衆への弾圧と、中国広東省で起きた週刊紙『南方週末』などに見られる言論統制、ネット規制など中国共産党の屋台骨のほころびを必死になって繕っているが、やがて民衆の怒りが頂点に達し、共産党への批判がコントロール不能状態に陥った時に、共産党の崩壊が経済体制の崩壊とともにやってくるだろう。
すでに多くの民衆がネット上で習近平を「劉阿斗」(三国時代、蜀の初代皇帝・劉備玄徳の息子。愚昧の君とされ、蜀を滅亡させた)と揶揄している。次期国家主席に対して「お前の代で政権が滅亡するぞ」と言っているのだ。民衆の暴発を何より恐れる中南海は怒りの矛先を他に向けるためにも尖閣列島は不穏な空気に包まれている。中国はけして安泰な大国ではない。習近平が中国最後の皇帝にならないと誰も否定はできないし、民主化への大きな動きは誰も止められない。

2013年1月14日月曜日

アートな話「埋め草」

茘枝雀文丸盆 江戸時代模刻

【埋め草】という概念

一般的にうめくさ(埋め草)という言葉は、空いたところや、欠けた部分を埋め補うものとして、雑誌・新聞などの余白を埋めるために使う短い記事としての「―原稿」などと辞書には載っているが、本来は 城攻めのとき、堀や溝を埋めるために用いる草やその他の雑物のことを言っていた。
アートの世界では余白や間を埋めるものとして、空間処理の便法として表現されるものである。(筆者の過去ログ「間について」参照)

図案における余白と埋草は、鎌倉彫の場合特に薬研彫りにおいて、絵を取り囲む空間において、他の余白よりも不自然に大きくバランスを崩す場合は、捨石のようなものを作ることで全体のバランスをとっている。写真の赤い部分がそれにあたる。絵としてはなんの意味もないものであるが、空間処理の便法として度々使われる。
花鳥風月を図案化した場合、花を例に取ると余白の多い図案は風景的(絵画的)になり、充填構図で余白を嫌う便法として埋草を空いた余白に埋めていけば、その図案はデザイン的になる。
日本人の感性に照らすと、水を抜いて水を感じさせる枯山水という日本庭園や、墨の色を感じさせるための水墨画の余白など、埋め草の反対概念として浮かび上がるこれらの創造意図は、余すところなく充填してしまったり、あるいはすべてを描き尽くす絵やデザインとは対極のところにある。


国宝<待庵>京都と黄金茶室<復元>金沢市
余分なものを削ぎ落としたところにあるのが、わび、さび、もののあわれ、うつろいの日本独特の文化である。豪奢な茶室を作った秀吉に切腹を命ぜられた千利休の質素な茶室は、何を物語っているのだろうか?すべてを手に入れた権力者が常に不足感に苛まれて金の茶室を作らせた者と、心の充足を保った一介の茶人が、余計なものを削ぎ落として行く引き算の文化を具現化した者とのあいだには、常に満たされた者と満たされぬ者との相克が浮かび上がってくる。
時の権力者は心の隙間を埋めるためあらゆる手段を使って埋め草を手に入れようとする。歴史の異物として残る秀吉の茶室は彼自身の埋め草だったのかもしれない。

利休が設計した二畳敷の小さな茶室『待庵(たいあん)』(国宝)は、限界まで無駄を削ぎ落とした究極の茶室。利休が考案した入口(にじり口)は、間口が狭いうえに低位置にあり、いったん頭を下げて這うような形にならないと中に入れない。それは天下人となった秀吉も同じだ。しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。つまり、一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、茶室という小宇宙の中で「平等の存在」になるということだ。このように、茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった。
・「世の中に茶飲む人は多けれど 茶の道を知らぬは 茶にぞ飲まるる(茶の道を知らねば茶に飲まれる)」(利休)
今の世界を見ていると、引き算の日本文化が必要な時代である気がしてならない。すなわち必要以上の埋め草はいらないということである。国も人間個人も強欲の果にあるのは退廃である。

2013年1月6日日曜日

日々雑感

エアロバイク
年明け早々、正月太りが気になるところであるが、4~5年ほど前までやっていたテニスを昨年の春頃から再び始めた。きっかけは近所のご夫妻が近くの運動公園で日曜日に2時間ほどやっているのを聞いて参加させてもらった。メンバーは6~7人いるが家から歩いて3分程のところで、コートが2面あって近いのと気軽に楽しめるところが気に入ったので続けていて、今日が今年の初打ちだった。
30代から始めたテニスであるが、昔のように1対1のスパーリングのような打ち方はすっかりなりを潜め、もっぱら力を抜いた打ち方を心がけている。

座り仕事と車生活のため運動不足になりがちなので、テニスを始めたのと同じ時期に近くにある横浜市のスポーツセンターで運動器具を使ったトレーニングを週一回のペースで2時間ほどやっている。しかし人間同じことを反復して続けるということはなかなかできるものではなく、忍耐と強い意志がなければ続けられない。スポーツセンターにも時折年寄りが腹筋を20回くらいやっているのを見ると気分が萎えてくる。
散歩も同じところを歩くのが億劫になり、あっち行ったりこっち行ったりと40分ぐらい徘徊しているが、寒さもあってここのところやっていない。根が横着なのだろうか、進んで体を動かしてやる気力が弱いこととエンジンがかかるのが遅いことが、怠惰な生活に拍車をかけている。

我が家でも93を過ぎたオヤジが、杖をつかないとほとんど歩けない状態にもかかわらず、電動自転車で毎日近くの整形外科までこいで通っている。それでも本人は運動不足を気にしているため、食事の量も減らし、足を鍛えるためにトレーニングマシーンを購入し、サンルームに置いて短時間やっているようだ。自転車は危ないからやめるよう忠告しているが、本人は意に介さない。暴走老人にならなければいいが?

人間年をとると体のパーツも衰え、耳は遠くなり、足はしびれ言う事を聞かない。毎日大きな音でテレビを朝から晩まで見ている生活である。挙げ句の果てにはコマーシャルが多くて退屈だとくる。長時間テレビを見る習慣は認知症リスク度を高めることが、最近の研究で明らかとなっているらしい。一日、6時間以上テレビを見ると、ボケの危険度はなんと1.5倍になるというデータもあるほどで、幸い今のところ頭の方はまだだいじょうぶだが、私もオヤジがボケないように、毎月自分が読んだ本を何冊かオヤジに読めと渡している。オヤジを見ていると、ここまで生きると人生は暇つぶしなんだなーとつくづく思うようになった。

運動に明け暮れてるスポーツ選手は一般人に比べると、肉体の故障が多く平均寿命も短いという。体を鍛えることも大事だが、脳も鍛えなければいけない。脳内ネットワーク(思考、認識、記憶、会話)が、能動的に働かないテレビや健康のための運動も程々がよろしいようで。

2012年12月28日金曜日

アートな話「モノづくりの鍵」


温故知新は、『論語(為政篇)』の出典によるもので古いものをたずね求めて新しい 事柄を知る意から、すなわち古を知る=意識化するというのは、実は今を知る=意識化することにほかならないことであり、我々創作現場でも古典から学ぶことは多い。工芸デザインにおいてもモノの形の進化は現状の欠陥に気づくことからはじまる。産業の技術革新も数多くの失敗(過去の経験)からイノベーションがはじまった。
「本当の意味でモノの形を決めるのは、ある働きを期待して使ったときに感知される現実の欠陥にほかならない。」とは、米国の工学者ヘンリー・ペトロスキーが『フォークの歯はなぜ四本になったか』でいった言葉である。


モノづくりにおいて、創造性に大いに関係するのが抽象化能力である。抽象とは事物や表象を、ある性質・共通性・本質に着目し、それを抽(ひ)き出して把握すること。その際、他の不要な性質を排除する作用(=捨象)をも伴うので、抽象と捨象とは同一作用の二側面を形づくる。 (三省堂大辞林)

観察した自然を切り取る。体験した場のエッセンスを抜き出す。味わったアートの良さを引き出す。こうしたことを行うには、自分が観たもの、体験したものから特定の要素を抽象化する力が必要になってくる。つまり、自然を観て絵を描く。体験したことを元に文章を書く。作品の制作に当たる。こうした創造的活動には、抽象化の力が不可欠になってくる。
抽象化には、まず自分が実際に観たり触れたりする現実の文脈から要素を抜き出せないといけない。要素を抜き出し、必要な要素だけに単純化し、単純な要素だけで事象を組み立てる力が抽象化でもある。一般的には、ある「モノ」が空間上の位置を欠いているとき、またそのときだけにそれが抽象的であるといわれる。

 
カンジンスキー 連続
絵画の世界では、カンジンスキ-がある日部屋の片隅で、不思議に魅力あるものを見かけたが、良く見るとそれは自分の絵が横向きに置かれていただけのことであった。彼は、その時発見した。絵画は現実にあるものだけをを模写する必要はない。全く自由に描けばよいといい、これが抽象画の始まりと伝えられ、彼は抽象画の先駆者になった。
いわゆるアブストラクト(抽象美術)は、1910年ごろから興った芸術思想で、「外界の形象を借りて表現するよりも、外界から抽出した線や面を造形要素とし、あるいは色彩自体の表現力を追求してこれを造形的な作品に構成するもの」だという。ロシヤ生まれのカンジンスキ-は、物ではなく、音楽のような目に見えないものも描いている。これは色や形ばかりでなく、対象からも自由になったといえるだろう。


人は概ねイメ-ジで思考することが多い。言葉だけが浮かんで、イメ-ジが浮かばないときは思考が停止するが、イメ-ジが先に浮かぶと仕事は速い。
作ることと見ることは、車の両輪 のようなものだ。良い作品を見ることにより眼の力は鍛えられていく。眼で見ることのできないものは、かたちにできない。作る技術はあっても、あるべきかたちをイメージする力がなければ、そのかたちを作ることはできない。
手の暴走、過剰な加飾の誘惑を抑制するのが目の力でもある。作品を通じて何が人を気持ちよくさせるのか、何が人を幸せな気持ちにさせるのか。
そういう意味での作品(もの)の良さを知らなければ、ちゃんとしたものづくりにはならないのではないか。それには多くのものを見て、さらにそのさまざまなものが人の感情をどう動かし、暮らしのなかの行動にどう影響するのかということを想像するための眼の力を鍛えておく必要があると思う。それが個々の感性につながることでもある。

デザインを考える場合、色や形をそのほか物に求められる機能や使い勝手や耐久性や安全性など、それぞれの属性を切り離すことなく包括的に捉えなければ良いデザインは生まれてこない。人の心に愛着やぬくもりやときめきや懐かしさや楽しさなどを感じさせる色々な要素が、デザインの裏には潜んでいて、それらの要素がデザインを豊かにする。
柳宗悦が『工藝の道』で、「用」をもたない物は生命を持たない物といっているが、その場合の「用」は単に物的用という意味では決してなく、心の「用」に適うものではなくてはいけないのである。つまり「用とは共に物心への用である。物心は二相ではなく不二である」と言及している。

今年も忙しさにかまけて、当ブログもあまり頻繁には書けませんが、ご高覧の皆様には良いお年を。 (わいは猫じゃー Y CAT)