2012年6月20日水曜日

日本はどこに向かうのか?

先にご紹介した 岡田英弘著「この厄介な国中国」に関連して中国を視座においた若干30代の歴史学者与那覇潤氏の著書「中国化する日本」は日本の歴史観、特に政治の統治機構を中国史の視点に立った日本論とも言うべき本で、興味深く読ませていただいた。著者は名前からして沖縄出身と見たが、古くから琉球として中国と関わりのある地の出身である。

「この厄介な国中国」を思い起こすために私の過去ログを引用してみると、
「古代中国において歴代王朝は存在していたが、民族の集団ではない。皇帝ただ一人の専有物で中国人民の支配者でも中国大陸の所有者でもなかった。皇帝は中国全土に張り巡らされた流通システムを所有していた。つまり総合商社の社長のような存在であった」と筆者は述べている。
つまり中国においては、最初から王は流通業、商売の頂点に立つ人間のことであった。王はマーケットの支配者であり、この商業ネットワークシステムを帝国の形にしたのが秦の始皇帝、あるいは漢の武帝である。中国の統治システムにおいて最も重要なものは交易である。そのため交易が発展 すればわざわざ領民や領地を持つ必要がない。そのためその存在はボーダレスになり現代の巨大商社の様に国籍がさほど問題にならなくなった状態と似ている。
まさに多民族国家たる所以である。

さてここで注意する必要があることは、中国化はけして我が国が中国に飲み込まれ中国に隷属されるという意味ではないことだ。
理解しやすくするために私なりに、かいつまんで中国と日本の歴史の流れを年表にしてみたので参照していただきたい。
さて本書の大筋は、中国は宋朝から現代まで、日本は平安時代末期から現代までを俯瞰することにより、大きな時代の流れを解説している。
つまり「唐までは中国を意識的に模倣していた日本は、なぜか宋朝以降の中国の『近世』については受け入れず」、宋朝がモデルの中国社会のあり方を受け入れるのか、日本独自の道をゆくのかの争いが、平安後期からの日本史を決定づけ現代に及ぶと述べている。

著者によれば、宋朝というのは、それまでの中国社会をガラッと変えるシステムを導入した、実に画期的な王朝とのことで、貴族制度を全廃して皇帝独裁政治をはじめたこと」、言いかえれば「経済や社会の仕組みを徹底的に自由化する代わりに、政治の秩序は一極支配によって維持するしくみ(中国社会の原型)を作ったこと」だという。しかも、その宋朝で導入した社会のしくみが、中国はもちろん、全世界で現在まで続いているというのだ。
皇帝と郡県制に基づく中央集権体制を構築、貴族を排し科挙(官僚)により能力のある人材を血縁とは無関係に登用、自由主義経済による機会均等を実現、身分制をなくした結果、移動の自由、営業の自由、職業選択の自由が行きわたり、同時に貨幣経済が社会の隅々まで浸透したこと
言ってみれば現在世界中を覆いつつある「新自由主義」、豊かになるのも飢えるのも自己責任という社会のあり方が宋朝に重ねられている。

しかし、日本における近世はこの真逆を行った。天皇家と徳川将軍家が権威と権力を分担し、幕藩体制による政治と庶民は完全に乖離し、身分制度が固定化し、人の移動は禁じられ、イエやムラがセーフティネットとして機能する、ことを「再江戸時代化」と定義している。

さて日本の歴史の転換点となる平安時代後期、NHKの大河ドラマでもお馴染みの平清盛と後白河法皇は日宋貿易を積極的に推進し、両者は中国銭を輸入して市場を活性化し、封建領主の既得権を切り崩して自身への権力集中を目指した。科挙以外の貨幣経済の部分で、宋朝中国のしくみを日本に導入しようとした革新勢力だった。それに対し貴族や寺社の既得権益を守り、「平家に押収されていた荘園公領を元の持ち主に返す代わりに、自分たちも『地頭』を送り込んで農作物のピンハネに一枚噛ませてもらうボディガードが源氏だった。

そこから著者は源平の合戦を「近世への二つの道──①宋朝中国で実現した中華文明に近い社会を日本でも実現しようとする『中国化』勢力(院政・平家)と、②むしろそれに対抗して独自路線を貫こうとする『反中国化』勢力(源氏)の路線対立から生じた」と解釈する。
ご存知のように源平合戦の結果は、「反中国化」勢力の源氏が勝利した。以後、中世日本は「時々だけ中国に似た政権(注・農民でなく漂白民や商工業者を基盤に天皇独裁を目指した後醍醐政権や、対明貿易と中央集権を推進した足利義満政権)が樹立されるのだが、おおむね短命に終わり」、戦国時代以降の近世日本は「中国的な社会とは180度正反対の、日本独自の近世社会のしくみが定着した」。その日本型社会が完成したのが江戸時代だった、と著者は言う。

「士農工商」の身分制度をつくり、稲作の普及を背景にイエとムラを基盤とした「封建制」の支配体系ができあがった。江戸時代前期は稲作の普及によって経済も人口も拡張し、「欲を張らずそれさえ愚直に維持していさえすれば子孫代々そこそこは食べていける家職や家産が、ようやっと貴族と武士だけでなく百姓にも与えられた」。
戦のなくなった時代に、武士の世界では、武士(社員)の忠誠意識が殿様(社長)個人ではなく、大名家というイエ(会社)全体に向かうことになり、会社を傾かせる(御家取りつぶしになりかねない)ようなワンマン社長は、従業員一同で解任(主君押込め」)して構わないという企業文化が生まれる。「いってみるならば、各大名家の統治が中国的なトップダウン型の専制政治に流れることを防止する、いわば中国化を防ぐための(自動安定化装置)のような仕組みとして、『封建制』やイエ制度は機能していたということになる。」と説明する。

一言で言えば、江戸時代は「究極の『反・中国化』体制を作り上げた」。明治維新は「反・中国化体制」が自壊した結果」だと著者は断ずる。
いつの時代も変革の動きはその時代の不平分子が行動を起こしたときに起こるものである。
維新後に出現した明治時代について、我々が「西洋化」「近代化」として習ったことは、①儒教道徳(教育勅語)に依拠した専制王権の出現、②科挙制度(高等文官任用試験)と競争社会の導入、③世襲貴族(大名)の大リストラと官僚制の郡県化、④規制緩和を通じた市場の自由化の推進など、むしろ「中国化」と呼ぶべきだ、という。
一般的には、江戸時代は鎖国によって外国との交流を絶ち、黒船以後は西洋との関係のなかで国をつくってきたと考えがちだ。それに対して著者が「近代化」はむしろ「中国化」だと考える底には、上述してきた認識の裏付けがある。

明治以後についても、「中国化」対「再江戸時代化(反中国化)」という図式で近代史が叙述される。総理大臣の権限が小さい明治憲法体制や、日清戦争後の「大きな政府論」である民力育成論、企業のみならず労組まで擬似的イエとして組織された大日本産業報国会などの総力戦体制によって、いったんは「中国化」したはずの社会が再び「再江戸時代化」されていった。その「江戸時代化」は戦後も続き、1980年代以後、世界が「中国化」しているのに、日本はいまだに「江戸時代」を引きずっていて、そのどんづまりまで来たのが現在である、というのが著者の見立てだ。

農村をベースとする地域共同体の結束が強く、身分に基づく就業規制で市場競争から守られる。何らかの集団に属し、強い束縛を受ける代わり、食べていくことは保証されるというシステムだ。新卒一斉採用や終身雇用など「一回勝負して、どこかに潜り込んでしまえば安全」な戦後の企業社会は、その現代版だった。さらに「近代はヨーロッパではじまった」というのは間違いで、正しくは宋朝ではじまった「近世」がヨーロッパに伝わっていき、ヨーロッパが模倣したのが後期「近世」=いままで近代と呼んでいた時代、ということになる。

日本は明治維新で一度は「中国化」するものの、選挙制度を通じて地域利権代表による「江戸時代化」へと逆戻りしてしまう。そのあらわれが、政治家の世襲、地縁、地元の利権などであった。
ところが今度は世界が「中国化」しはじめた。レーガンやサッチャーの新自由主義の波である。規制緩和は既得権益の撤廃を意味した。世襲議員が頼りなく見え、利権を持っていた業者、公務員、労働組合までも含めた既得権益がおかされる。これまで自分を守ってくれていた地縁にも終身雇用の会社にも頼れなくなってしまった。

今、大阪で起きている動きをみると、「江戸時代化」に固執する政府に代わって、橋下市長率いる勢力が「中国化」を推進しているようにも映る。(現在使われているネガティブな意味での)「日本化」を克服するには「中国化」の道しかないのであろうか。

与那覇潤氏
最後に週刊東洋経済2012年2月18日号での著者と記者との一問一答をご紹介して、本稿を終わりたいと思う。

──日本に「中国化」の波が中世・近代・現在の3度押し寄せたとの主張ですが、「中国化」の定義とは。
端的には、日本社会のあり方が中国社会のあり方に似てくること。日本人が「グローバル化に対応できない」のは、中世以来の癖なのだというのが、本書の歴史観。今日のグローバル社会の原型が宋朝の中国大陸で生まれて以降、それに時折引き付けられつつも、最後は反発してきた日本という国の成り立ちを描いた。

──中国化=グローバル化というのは、斬新な問題提起です。
冷戦の終結時に米国の政治学者フクヤマは「歴史の終わり」を唱えた。社会主義という対抗イデオロギーを失って米国の一極支配が正当化され、国家内での再分配よりも世界規模の市場競争が優先される。
しかし、実はそういう秩序を最初に実現したのが宋の時代(960~1279年)の中国。「歴史の終わり」とは、1000年かかって全世界が中国に追いついたということ。

──宋代の統治システムとは。
中国史の泰斗・内藤湖南は、現代に至る中国社会の原型は宋代にできたとする。具体的には、貴族政治を撤廃して皇帝独裁政治を始めた。そして、政治の秩序を皇帝一極集中にしたのとは対照的に、経済や社会は徹底的に自由化した。
皇帝を支える官僚は科挙により能力本位で選ばれ、男性なら誰でも受験できる開かれた競争システムだった。農村にも貨幣経済が浸透し、人口は大都市へと流動化。貴族による荘園経営は崩壊し、身分制は消えた。地域や職能による結び付きは弱まり、政治も経済も個人のネットワークで動く。今のグローバル化が求める社会像と、かなり共通性が高い。

──逆に対極にあるのが、江戸時代に完成した日本型社会だと。
農村をベースとする地域共同体の結束が強く、身分に基づく就業規制で市場競争から守られる。何らかの集団に属し、強い束縛を受ける代わり、食べていくことは保証されるというシステムだ。新卒一斉採用や終身雇用など「一回勝負して、どこかに潜り込んでしまえば安全」な戦後の企業社会は、その現代版だった。

──日本は「中国化」の影響を受けつつも、つねに反発してきた。
中世初期が「中国化」の第一のピーク。中国銭を輸入して市場を活性化し、封建領主の既得権を切り崩して自身への権力集中を目指した、平清盛・後醍醐天皇・足利義満などが代表的な「中国化」勢力。しかし、農村支配に依拠する守旧派に阻まれて、いずれも短期政権で終わった。
16世紀末の中国に新大陸の銀が流入し、日本への銭輸出が激減すると、日本人は中国銭経済から切り離された。この時期に成立したのが徳川幕府で、新田開発で稲作を全国に普及させ、「家職さえ守れば最低限食べられる」身分制社会を作った。これが現在の日本社会のベースだ。
「中国化」の2度目のピークが、実は明治維新。西洋化だという色眼鏡を外して、維持不可能になった幕藩体制を中央集権に再編する「中国化」と見るほうが、たとえば天皇の皇帝化にしてもすっきりわかる。そして第三のピークが冷戦後、まさに私たちが直面するグローバル化だ。

──日本人は、これから進む「中国化」にどう対処すべきでしょうか。
歴史はずばりの処方箋は示せない。だが、「日本の弱点は何か」ということは教えてくれる。日本型の社会システムにも中国型にも、それぞれ長所と短所があり、そのパフォーマンスが局面によって変わるだけ。日本人の「弱点」は、「江戸時代」の閉鎖性に息が詰まると破れかぶれで「中国化」に幻想を託し、しかし「中国化」した競争社会にストレスがたまると、今度はやみくもに「江戸回帰」へ突き進むところ。歴史認識の欠如が、戦略なき感情論に走らせる。
文明開化ともてはやされた明治維新の実態は「中国化」で、共同体に属していれば何とか食べられた江戸時代の秩序を崩壊させ、日本人を自己責任と自由競争の世界に投げ込んだ。その下で貧窮化した人々の怨念が、農本主義という「江戸回帰」の願望を媒介に、「みんなが『平等』に戦争に行って死ね」とする軍国主義を生み出したのが昭和維新。最後は敗戦ですべてご破算になった

──大胆な説に聞こえますが、最新の歴史学に基づいた議論だとか。
いま書店に並ぶ「歴史読み物」は英雄伝的な人物論ばかりで、学問的な歴史研究とのリンクが切れてしまった。その背景は、日本社会を論じる枠組みの崩壊だ。冷戦下では、日本社会論を支える二つの潮流があった。一つはマルクス主義が、人物ではなく「社会構造」から日本史の全体像を描こうとした。もう一つはそれへのアンチテーゼとして、梅棹忠夫氏らによる自国のユニークさに着目する日本文化論が存在した。
ところが、冷戦の終焉とともにマルクス主義は失墜。一方の日本文化論も、「ナショナリズムの道具」と徹底的に批判された。その結果、メディアには人物論しか残らず、「国の形」を扱う大きな議論が失われた。プロの歴史学者がせっかく実証研究を進展させても、その知見を社会に還元する回路がない。そういう現状に一石を投じたかった。

──世界の「中国化」が進むと、何が起きるのでしょう。
先進国でも途上国でも、国家を頼れなくなる。企業や地域共同体も拠り所にはならず、個人のネットワークを使って生き延びるしかない。ウェブ上のソーシャルネットワークの急激な普及はその先触れだが、中国人の伝統的な生き方に重なる。

──現在の中国をどう見ますか。
「理念」を統治の核に据えて、権力の一極集中を正当化するのが伝統中国で、今日も儒教道徳が共産主義に変わっただけ。だがその理念の空虚さが明らかで、外向けのソフトパワーに欠けるのが、覇権国になるには決定的な弱点。日本としては、中国より高い理念を掲げることこそが外交上の力になる。TPP(環太平洋経済連携協定)ではないが、「環日本海不戦パートナーシップ」を持ちかけて、中国も憲法9条にサインを、くらいの姿勢で臨んでは。

──「平和憲法で中国を抑制」という本書の結論は、珍しい提案です。
日本史上では「中国化か江戸時代か」がつねに対立軸なのに、冷戦下でしか通用しない「右か左か」で考え続けていることが、思考力を奪っている。戦後の一国平和主義は「鎖国」で対外紛争を防ぐ江戸時代的な発想だったが、「中国化」の時代には、憲法の別の活用法もあっていい。

                                                                                                                         以   上

2012年6月10日日曜日

いつか来た道


ユーロ危機が現実味を帯びてきた。対岸の火事と見ていた我々日本人にとっても金融グローバル化の現代、一連托生の危機感は徐々に芽生えてくる。
問題のユーロ圏のデフォルト(債務不履行)が懸念されている国の国債を総称PIIGS債と称しているが、PIGとは英語で豚の意味でいいえて妙である。その国はポルトガル、アイルランド、イタリア、ギリシャ、スペインの五ヶ国の頭文字を取った略である。
この内アイルランドは既に破綻し、EU圏で救済の手が差し伸べられた。
EUの新条約「財政協定」は「財政赤字をGDPの0.5%以内にする」という相当に厳しい資金援助の条件を提示して、これを国民の約6割が受け入れ、アイルランドは「財政赤字をGDPの0.5%以内にする」という条件を「憲法」に定めることになり危機を脱したので、PIIGSからIが取れPIGSが現在の財政破綻の順番を待っている。

物わかりのいいアイルランドに比べるとギリシャは国論を二分しゴタゴタが続いているさなかに今度はスペインの財政危機が表面化してきた。
ユーロ加盟国は、マーストリヒト条約(EU欧州連合条約)で定められた条件(財政赤字はGDPの3%以内、累積赤字はGDPの30%以内など)を守らなくてはならないのだが、通貨統合だけで政治統合まで至らないため、ほとんどの国が遵守していないようだ。そのため各国が自国の都合に合わせて国債(PIIG債)を発行し、それが財政を圧迫している。ギリシャに端を発したユーロ危機ではあるが、ギリシャの場合GDP27兆円の150%(40兆円)を抱えていたが、そのうちの77%が国外の金融機関だったことで危機が増幅され国債の買い手がつかなくなり金利上昇に転じ,償還もままならない事態に陥った。


ところがここにきて問題になっているスペインでは規模が大きく、国債残(公的債務)は、GDP 112兆円に対し68.5%の77兆円だが、民間法人と世帯の債務が、GDP(112兆円)の2.2倍(250兆円)もあることで、大半は、ギリシャと同じく国外の金融機関からの借金で賄っている。国債と合わせれば、GDP比で2.9倍(327兆円)の負債になるそうだ。
スペインの危機は財政規模がギリシャとは桁(けた)が違うだけに、EUにとって容易ならざる事態である。 そのためギリシャ問題が影が薄くなってきている。 
報道ではバンキア銀行が、最近政府に行った支援要請の額が190億ユーロ(1兆9000億円)と想像以上に巨額であったことから、同様な不良債権を抱えた銀行群を財政赤字に悩む政府が支援しきれずに 、連鎖的な銀行破綻が発生して金融恐慌が起きる懸念が取りざたされ始めたのである。

ECB(欧州中央銀行)がPIGS債をどこまで買い支え、ユーロ暴落の大火事にならないようにくすぶり続けるPIIGS債の飛び火を押さえ込めるのかが焦点になっている。このPIIGS債に対しては、米国の銀行も、約100兆円のCDS(保証保険)を引き受けており、分かりやすく言えば連帯保証のようなものだ。他国の銀行も持ち合いで大なり小なり同じことをやっている。
つまり、これは民間企業に投資している人が掛ける一種の保険のようなもので、いわば2008年に世界的な金融危機を起こしたサブプライム・ローンの兄貴分のようなものである。サブプライムは個人の破綻を前提にしているが、CDSはその対象が企業 で規模も桁違いである。そのため実体経済の何倍ものマネーが世界を駆け巡っている。

CDS (クレジット・デフォルト・スワップ)とは何かというと、企業の債務不履行にともなうリスクを対象にした金融派生商品で、対象となる企業が破綻し 、金融債権や社債などの支払いができなくなった場合、CDSの買い手は金利や元本に相当する支払いをCDSの発行会社から受け取るという仕組みの商品である。

ユーロ暴落は、ユーロ債(ドイツ債以下、ユーロ17ヵ国の国債・証券・株)をもつ、世界の金融の破産も意味し、その損の規模は、08年9月の、米国発金融危機の2倍にもなるととりざたされている。
今世界が固唾を呑んでユーロ危機を見守っているが、それも世界金融市場の崩壊が来ないことを祈りつつ。
夢か現か金の亡者達が構築してきたバーチャルな金融市場の崩壊が進み、誰もくいとめることが出来なくなり、やがてゾンビのようにまた甦るのか?ヨーロッパ経済は既に恐慌に入っている。

2012年6月1日金曜日

アートな話「ミッドナイト イン パり」

ミッドナイト イン パリ
とある映画館でひさしぶりに面白い映画を見た。アメリカの売れっ子の監督:ウッディ・アレンの2011年度制作のアカデミー賞脚本賞作品である。
主人公の映画脚本家ギルは、婚約者イネズの金満家の父親の出張に便乗して憧れのパリにやってきた。アメリカで脚本家として成功していたギルだが,現在は本格的な作家を目指して小説を執筆中だ。

パリへ来ても、街を楽しむというよりショッピングで頭いっぱいのイネズの自己中心的な振る舞いに翻弄されながらも、彼女の性的な魅力に負けお付き合いをしているギルではあるが、イネズの昔の知り合いとパリで出会ってからは、自分たちの時間を蔑ろにし、連中と付き合わされたギルは夜も深けた頃、彼女と別行動を取ることになった。

0時になるとやってくる古いプジョー
酒に酔って道に迷い途方に暮れたギルの耳に0時を知らせる鐘が町に響いた時、階段の下でたたずんでいると、どこからともなく現れた旧式のプジョーが目の前で停車する。
車中の1920年代風の格好をした男女がギルを誘う。車中での酒盛りに心を許し、そして向かったパーティには、コール・ポーターがピアノを弾き、F・スコット・フィッツジェラルド(米国の作家)と妻ゼルダがいた。そのパーティは詩人のジャン・コクトーのパーティだった。
そこでギルは、彼が愛して止まない1920年代のエコール・ド・パリの真っ只中に来ていたことに気づく。ここで観客も心躍る音楽に乗ってタイムスリップさせられる。
ギル A.ヘミングウェイ G.スタイン
 その後、フィッツジェラルド夫妻、ポーター夫妻と行ったクラブでは、黒いヴィーナスの異名を持つジャズシンガーのジョセフィン・ベイカーもいた。その後に、フィッツジェラルド夫妻と飲みに入ったバーでは、アーネスト・ヘミングウェイと出会う。ヘミングウェイに自分の小説を読んでくれないかともちかけたギルだったが、ヘミングウェイに「自分は読みたくないが、代わりに美術収集家で批評家のガートルード・スタインを紹介しよう」と言われ、舞い上がる。1920年代のパリは世界中の芸術家のたまり場でもあり、画家達はエコール・ド・パリとして、モンマルトル近辺にたむろしていた。ここにタイムスリップしたこのストーリーは、軽快なギターとバイオリンのBGMでパリの古き良き時代を彷彿とさせる演出だ。この音楽は主人公が憧れの芸術家達に会えて心躍る様を見事に捉えている。

アドリアナと歩くギル

次の夜、イネズを一緒に誘うが、真夜中になる前にイネズは「疲れた」と帰ってしまう。彼女が帰るやいなや、夜中の12時の鐘が鳴りギルは階段の下で連中を待っていた。、例のBGMが流れるとまた古いプジョーが現れた。車にはヘミングウェイが乗っていた。彼と一緒にスタインの家へ行くと、今度はそこにパブロ・ピカソとその愛人、アドリアナがいた。スタインはピカソとピカソの描いたアドリアナの肖像画について論議をかわしていた。そこで初めてアドリアナに会ったギルは、一目惚れしてしまう。彼女はかつてモジリアニの恋人だった。


サルヴァトール ダリ
こうしてギルの奇妙な日常が続く、 夜な夜な現代と1920年代のサロンを行き来しながら、婚約者イネスとの関係とアドリアナに魅かれる自分に悩むギル。しかし、シュルレアリストである、サルバドール・ダリ(これは戦場のピアニストを演じた俳優)、と写真家のマン・レイからは、「それはごく自然なことだ」と言われてしまう。いずれもなんとなくそれらしい風貌の俳優が各々の芸術家の役をこなして面白い。特に若き日のピカソはそっくりさんの俳優で、髭面小男のロートレックまで出てきた日には笑える。そしてギルはスタインのアドバイスによって小説を手直しして、完成に近づけていく。

やがてアドリアナは、さらに一昔前の19世紀末から20世紀初頭のベル・エポックに憧れ、彼はおいてきぼりをくらう。価値観と波長の違う婚約者との決別を決意し、パリで暮らすことを決めたギルは今のパリの街で(コール・ポーターのレコードがかかっていたアンティークショップで知り合った)ガブリエルと偶然出会い、そして雨の中彼女と未来に向けて歩み出し映画は終わる。

ラパンアジル
 私にとってパリは26年前の旅先で寄った場所でもあり、映画にラパンアジルが出てこなかったのが残念だったが、パリの情景を思い出しながら、モンマルトル当たりの風景や、数多くの観光スポットが映画の画面から走馬灯のように現れた。あの時は画家達のたまり場だったラパンアジルにツアー仲間と繰り出し、店の前の小路で犬のふんを思い切っり踏んだことや、店でワインを飲んだりしたリしたことなど、また一人の時はあのヘンリーミラーが、娼婦と暮らした小説「クリーシーの静かな日々」に出てくるクリーシー広場の牡蠣料理店で生牡蠣を12ピース食べ、南仏の磯の香りを味わったことなどが頭をよぎり、しばしパリの街とそれを彩る音楽に浸った。

夜な夜なタイムスリップを繰り返しながら、イリュージョンの世界に入っていく主人公は、過去がどんなに素晴らしくても、自分は現在を生きるしかないということに気付き、新しい恋人と歩み出す。映画館でなければ酒を飲みながら観て、トリップしたくなるようなひさしぶりに楽しい映画だった。

2012年5月23日水曜日

銭洲釣行


銭洲群礁(赤丸)
今年の春先に娘の番組取材でお世話になった西伊豆土肥のとびしま丸の鈴木忠文船長からご招待を受け、21日にはじめての銭洲釣行に出かけた。
日本の三大漁場として名の知れた銭洲. 豊かな魚影が間違いなく銭を生むと言われた  銭洲は 伊豆半島の先端.石廊崎から真っ直ぐ75kmほど南下した位置にあり。海図のその位置には豆粒ほどの黒い点が見える。これが釣り人憧れの銭洲群礁である。
前日の夜0時30分に土肥港に集合のため、午後9時前に家を出て東名を走り、土肥港に1時間前に着いた。

日程をやりくりし、ようやく釣行にこぎつけたのだが、西から低気圧が進んできており空模様が怪しくなって来て出船が危ぶまれた。7時の天気予報が終わっても船長からのゴーサインが出ないまま8時を過ぎた頃に連絡が入り行くことが決まった。
聞くところによるとピンポイントの天気予報の情報を集め、低気圧の進行速度を計算した上で昼ごろまではやれると踏んでゴーサインが出たのだ.あらためて最近の天気予報システムが優秀であることを再確認した。時化る手前まで釣りをやる算段である。
さて釣り客5人を乗せて冷暖房完備のベットルームでは一般客用ベットが12あり
VIPルームも装備しており、私は一般ルームで仲乗りさんと,他の常連客は3000円高いVIPルームに、支度を済ませて入り、1時に出港となった。
先日広島で潜水艦のベットルームを見たせいか、天井もベットスペースもゆったりして、酒を一杯飲んだら朝までぐっすり寝てしまった。

朝6時に現場に到着すると、鳥羽一郎の「兄弟船」の演歌が流れて船長のアナウンスが聞こえお目覚めとなる。船長は口は悪いが役者顔の男気のある良い男で、銭洲初挑戦の私に2~3のアドバイスしていただいた。
銭洲群礁

最初に泳がせ釣りの餌の鯖を釣ったが、餌にしてはサイズが大きいので30分ほどで切り上げた。現場ではうねりがあり時間とともに波が立ってきた。やがて憧れの銭洲の群礁が目の前に現れ、いよいよ釣り開始となった。水深はさほど深くなく、30~50m位の場所を流して行き,船中あちこちで青物のバラシと魚の取り込みで歓声が上がった。私が最初に上げたのは45cmほどの真鯛であった。

上から三の字、真鯛、カンパチ
二ノ字、メジナ
私はシマアジを釣るまでは泳がせをやらないつもりだったが、一度バラした後は、マダイ、カンパチ、メジナ、二の字、三の字、イスズミと五目のオンパレードでコマセ釣りで終始した。船中シマアジが!1.5~5キロ級5枚。バラシ多くカンパチ2~6キロ級15本以上ゲットしていた。
午後1時に納竿をして、服を着替え眠りに入って約5時間港につく間際には、加山雄三の「海、その愛」が流れ起床となった。
今回はシマアジはお目にかかれなかったが、また機会があれば銭洲に再チャレンジすることで、お世話になった船長に店の看板を彫る約束をして帰路についた。

2012年5月19日土曜日

広島紀行

安芸の宮島
広島県立美術館で開催されている、鎌倉彫教授会創立50周年記念展の地方巡回展の当番を兼ねて、新幹線とクルマで広島、尾道を廻る二人旅となった。
初日は昼ごろに広島に着き、フェリーでで平家の守り神でもある厳島神社を見学し、荘厳な佇まいの中で900年の月日を重ねた建造物に思いを馳せ、時の流れの無常感を味わった。島では土産物屋が多くあったが、中でも仏像彫刻が所狭しと大きな店内にぎっしりと陳列していた島一番の規模の店舗では、仏師が制作した彫刻を直近で見ることができ仏師の刀の冴えに感銘を受けた。
その日の夜はお決まりの居酒屋廻りで、広島焼きなるモノを食べたが、具が多い割に粉が少ないので、一般的なお好み焼きより量の割にはもたれもなくすんなり入った。どの居酒屋も混んでいて瀬戸内の魚介類の豊曉な味を楽しんだ。

千光寺公園展望台眺望
2日目はレンタカーで呉の鉄のくじら館に立ち寄り、潜水艦と掃海を展示する海上自衛隊のこの資料館では、実際の潜水艦あきしおの内部に入り、機関室、潜望鏡などの体験や、特に終戦後瀬戸内に沈められた米軍の海中機雷の掃海に大きな役割を担った海上自衛隊の掃海技術力の解説は、日本はもとよりクエートの海にばらまかれたイラク軍の海中機雷の撤去に多大な貢献をし、世界中で評価されていることも語られていた。

その後、山陽自動車道を東に進み尾道に向かった。湊町尾道のシンボルになっている「千光寺公園」からしまなみ海道を望む瀬戸内海は大小の島々が眼下に広がり、展望台からの絶景を堪能した。尾道は寺の多い町で時間的に見る時間がなかったので、尾道ラーメンを食べ、隣の福山のバラ園を見て広島に戻ったのが6時走行距離240km、旅の疲れも手伝ってその日の居酒屋めぐりは2軒で終了。


3日目、広島は川の多い街である。昼からの美術館当番まで時間があったので早朝散歩をし、原爆ドーム、平和記念公園を廻った。爆心地に当たるここに残ったドームは周りの建物が全て吹き飛ばされた中で唯一残った建物で3階建ての産業奨励館だった。この辺は川に囲まれた地で、原爆投下後には川のいたるところで2~3倍に紫色に膨れた死体が無数に漂っていたことが記されていた。展示資料を見ると、今更ながら原爆の恐ろしさと、現在我が国が抱えている時限爆弾(使用済み核燃料廃棄物)が広島の原爆の数万倍もの威力を保持したまま眠っていることのへの恐怖を改めて感じた。因みに広島型原爆のウラン235の量は約60kgであり、福島第一原子力発電所の二酸化ウラン量 は2466tがある。
まさにこの原爆ドームは世界に発信する反核のシンボルであり、原爆でなくなられた20数万の霊にたいしても、また世界の平和をねがう人々にたいしても、存在し続けるべき歴史的建造物でもある。

会場 風景
広島県立美術館

お昼まで隣接する縮景園を散策し、美術館に入った。おりからNHK大河ドラマ50年 特別展「平清盛」が開催されており、900年前の貴族政治が衰退して混迷を深めた平安末期に登場した平清盛が瀬戸内の海賊を束ねて武家(平氏)の棟梁となり、平氏隆盛の足跡を辿るとともに、関連の資料の展示などの特別展が行われていた。
さて今回の鎌倉彫地方巡回展は、過去に国内展、や海外展など多くの巡回展を催してきた教授会の西日本でははじめての広島展であり、会場は広く現代鎌倉彫の多くの作品が展示されていた。NHKの取材も入り会場は大勢の人々が終日訪れ、広島市内のみならず近隣の県からも来場者があり、工芸作品に対する関心の深さが伺えた。また会場では体験教室やDVDの放映もあり盛況であった。


2012年5月7日月曜日

狂気の沙汰



福島第一原発がいまだ放射能を撒き散らし、メルトスルーした核燃料が核分裂を続けているものと考えられ、その収束の目途は立っていない。にもかかわらず国は昨年末に福島第1原子力発電所の1~3号機の原子炉が「冷温停止状態」を達成し、事故収束に向けた工程表の「 ステップ2」を達成したと発表し、早々と収束宣言を出している。その後福島第1原子力発電所の危機的状況の告発を続けている広瀬隆氏の最近の動画は地震列島に林立する原子力発電所の危うさと、今だ国が沈黙を続けている4号機の不気味な潜在的な危機を説いている。

ジャーナリスト広瀬隆氏

地震の多発する我が国の狭い国土に54基の原発を林立させた愚と、膨大な数の使用済み燃料が各地で未処理のまま放置されている危険性を述べているが、講演を聞くほどに背筋が寒くなる想いがこみ上げてくる。
破壊された原発に冷温停止はない!と強調し、膨大な数の使用済み燃料を冷やしている4号機が崩壊したら、原発から半径250キロ(東北・関東全域)からの避難が必要となると警告している。そのような事態になったら、単純に首都東京(国の中枢)はどうなるのかという疑問、あるいは政治家はどういう行動をとるのかという疑問が湧いてくる。また他の原子力施設や使用済み燃料を保管している場所はM6の地震がきても制御不能に陥る危険性を持っていることも具体的に解説している必見の動画である。

先月、仙谷政調会長代行は、名古屋市内の講演で、「日本は電力なしに生活できない。安定した質の良い電力が供給されることが当たり前の社会でどう考えるのか。止めた場合、経済と生活がどうなるかを考えておかなければ。日本がある意味、集団自殺をするようなことになってしまう」と、再稼働慎重派を批判した。相変わらず極左の
この御仁は「集団自殺」という不穏当な言葉を恫喝のように事もなく言い放つ。電力会社から身に余る献金でも受けているかのようにしか聞こえない。

事故から現在まで炉心溶融(メルトダウン)した燃料塊は、圧力容器を突き抜け(メルトスルー)、五重の防壁と言われた五番目の防壁である格納容器の底部を突き抜け(メルトアウト)している。高温の燃料塊がどこまで地下に沈降しているか分からないという、人類未体験の現象に突き進んでいる可能性が高い。この人類的、全地球的な状況下で野田政権は、“冷温停止状態”という、“収束宣言”をしたが、現実は事故収束とは程遠い状況にあると動画は警告している。
原発プラント一カ所で、このように人類未踏の凄惨な現象を発現させているのに、その正確な事故原因も分からず。収束への目途も全く付いていない状況下で、他の53基を稼働し続けることは狂気の沙汰である。集団自爆への道を突き進むことを食い止めることに使命感を燃やしている氏は2時間以上の講演で休憩を挟み熱弁をふるっている。問題は日本一国だけではなく、北半球の壊滅に通じる重大事を引き起こす可能性がこの地震列島には点在している。地殻は活動期に入っていて、地震のみか津波の危険も併存する日本沿岸部は活断層だらけである。事故の正確な原因はまだ不明であるが、はっきりと分かっていることは、原発がいったん暴走し始めたら人間のコントロール領域を超えるという厳粛な事実である。

福島第一原子力発電所の二酸化ウラン量の計算 (福島第一原子力発電所資料)
使用
状況  済   新   原子炉内
1号機 292本、100本   400本
2号機 587本、 28本   548本
3号機 514本、 52本   548本(MOX燃料)
4号機 1331本、204本    0本
5号機 946本、 48本   548本
6号機 876本  64本   764本
合計  4546本 496本  2808本 総本数 7852本
共用プール 約6400本
福島第一内の総本数 約14252本

6基の原子炉建屋内の貯蔵プールとは別に、約6400本の使用済核燃料を
貯蔵した共用プールがある。
1号機 292本、
2号機 587本、
3号機 514本、
4号機 1331本、
5号機 946本、
6号機 876本
合計  4546本
共用プール 約6400本
総計1万950本程度
原子力発電所は稼働すると使用済み核燃料を膨大に増やし続けていく。この核のゴミは数百年以上の管理が必要である。しかし,日本では管理施設はない。今は核原子炉の何処かにしまっている。死の灰の処理もまともに処理、管理もできない国や電力会社がこれ以上原発を稼働するのは狂気の沙汰である。脱原発に可及的速やかに移行し
次世代エネルギー達成までの過渡期として当面は従来のエネルギーに頼らざるを得ないのではないか?

2012年5月5日土曜日

主権なき憲法

「すべての国家は衰退するが、その原因は必ずしも不可逆的なものではない。しかし一番致命的な要因は、国家が自己決定ができなくなることだ。」       トインビー『歴史の研究』


さらにトインビーは現代文明について言及している。「人間は、科学と技術を進歩させてきたが、人間が誕生してからこのかた、精神的には何ら成長していないという。現代技術の進歩の結果、人間は再生産不可能なかけがえのない無生物資源を、空前の規模と割合で消費する能力ばかりを身に付けた。」

物質的豊かさ、経済的繁栄への欲求が習い性となった国家・集団・個人の自己中心性が、それらを加速度的に発達させ、飛躍的に成果の争奪(競争、時には戦争)が拡大教化されてきたという。
この欲求を根源とした力は、先進国などの一部の国の人々は豊かにしたが、同時に人口爆発、貧困、自然破壊、公害など様々な問題が噴出させ、それを拡大している。

彼は物質的な豊かさというものは、精神的な貧困をもたらすものでしかないと説く。危機の世をいい方向へ立て直すには、まず第一に物質的な豊かさへの欲望は抑えよと説く。第二に、物質的な富の追求から精神的な富の追求へと、私たちの精力の向きを変えよと。




憲法記念日は日本国憲法の施行(1947年5月3日)を記念した日である。今、日本国憲法について思いを巡らせると、世界的に見ても、異常な生い立ちをもった憲法であることがわかる。
その異例な点は、アメリカ軍を中心とする連合国軍の占領下という特殊な状況においてGHQによって作られた草案に従い、短期間に日本国の主権が極度に制限されていた中で、米国から強制的に与えられたものであることは周知の事実である。

敗戦に続く占領政策は、日本の国家と社会、また日本人の精神に強い歪みをもたらした。さらに「日本弱体化政策」の設計図ともいえる米国製の日本国憲法が誕生した。それは、日本が再び米国の脅威とならないようにするために、米国が与えた法的な拘束であった。そして、現行憲法は制定後60年以上にも及ぶ長期間、日本の政治、行政、防衛、教育等の法的枠組みとして存続してきたことによって、日本人のアイデンティティーが弱められ、決められない政治に象徴されるように、今日の亡国の危機を生み出している土台が仕組まれていた。

 同じ敗戦国でも、条件付き降伏の日本と異なり、文字どおり無条件降伏をしたドイツに対してさえ、戦勝国は憲法を押し付けることは無かった。ここに白人の有色人種に対する人種差別意識が見え隠れする。戦時国際法では外国軍隊は、占領地において現地の法律に従うことが規定されており、占領軍にできることは、占領政策に必要なものに限られていて、それにもかかわらず、日本を占領した連合軍は、当時の日本の基本法である帝国憲法の改変を強行した。これは、明確にハーグ陸戦規則に違反することである。
 連合国の極東委員会は、昭和21年11月に憲法が公布された後、2年以内に再検討すべしと決めていた。マッカーサーも、日本国憲法の押付けは理不尽であることを十分理解しており、そこで、彼は委員会の決定を受けて、憲法施行後1~2年の間に改正が必要であるなら、国民の判断に委ねるべきことを、吉田茂首相に伝えたが、しかし、吉田は、これを無視したと伝えられている。ここから、半世紀を超える今日まで、改憲か護憲かという議論が続いている。

 日本国憲法は正に米国が日本を属国として支配するための半植民地憲法だった。これを改正しない限り、日本は永久に米国の従属国・被保護国いわば半植民地なのだ。
広島大学の中川剛教授は、比較憲法学の立場から重大な発見をした。アメリカは大戦後、スペインの植民地だったフィリピンに独立を与える際に、アメリカ製の憲法を与えたが、このアメリカがフィリピンに与えた憲法と、日本国憲法は武力放棄など基本的な点において、ほとんど同じだというのだ。その為、法の専門家でもないGHQが手際よく短期間で憲法草案を作れたことの説明がつくと締めくくっている。

日本国憲法の欠陥と矛盾

  戦後、連合国による占領下で行われた日本弱体化政策とは、軍事力の制限と考えがえがちだがしかし、最も重要な弱体化は、精神面に対するものであり、すなわち、精神を骨抜きにすることである。
現在の日本は、どこかの国が突然、宣戦布告をして侵攻してきた場合でも、単独では対抗できない状態にある。日米安全保障条約によって米国に守ってもらうしかない状況下で、米国はこうした防衛上の依存構造を作り、米国は、日本に防衛力を持たせ、それをあくまで米国が管理下におき、日本自身が自分の意志で防衛力を行使することはできないようにしている。それがアメリカによる"宗主国対従属国"の構造である。
つまり、日本は、安保条約による軍事同盟国ではあるが、根っこでは第9条が主権制限条項であることの意味がここにある。すなわちここで言う主権の制限の核心は、強い軍隊を持たせないようにすることである。 第9条は、『戦争の放棄』という題名の章に置かれた条項だが、憲法に定めるべきものは安全保障である。現在の憲法は、国家の主権を制限する内容となっているから、これを改正しなければならない」と改憲論者は言う。
 しかし、戦後の日本人は、連合軍に占領された6年8ヶ月の間、行政、立法、家族制度、報道、教育、学術等、すべての分野で徹底的な弾圧・改変を受けた結果、マッカーサーから押し付けられた憲法を変えることを恐れている。言論統制と検閲は終わったにもかかわらず、日本人は見えないもののマインドコントロールを受け自主規制をかけ、米国の庇護の下、国の防衛に腐心することなく稀に見る経済発展を遂げた居心地の良さのため、55年体制の下、この憲法の欠陥と矛盾を改める気力も薄れた状態で、他力本願のまま、改憲護憲の上っ面の論議は何度も与野党間で起きては消え今日に至っている。

安保は、敗戦国・日本には基地の提供などの義務はあるものの、戦勝国・アメリカが一方的に防衛義務を負うという片務条約である。それゆえ、日本は自国の防衛にすら責任を持たなくてよくなり、平和と繁栄を享受することができた。そして、アメリカの作った自由貿易体制を最大限活用して、高度経済成長を成し遂げ、経済的に大きな利益を得てきた。日本はこうして特権的な条件のもと従属国的・被保護国的な地位に甘んじて栄華に酔いしれてきた。そのため、日本人は、自主独立の精神と民族としての気概や誇りを失い、他国への依存心を強め、その下で、経済的な発展ばかりを追求するという偏った指向性が続く。そして、この他者依存的な防衛機構と経済的繁栄が、日本人の心の隙間を広げていくことになる。

日本人は戦後、自立心を失い、国防を他国に依存するという「甘え」の構造の中で、「利己主義」的に物質的な豊かさをむさぼってきたが、かつての高度成長経済がもはや戻れない過去のものとなった現在、国家目標も国民的理想もない「半植民地国家」の虚栄の半世紀をもう一度省みて日本再生を望む意志の持続と、自虐的な隷属感覚を払拭するためにも日本国民が作る自主憲法が望まれる。