テレビ業界においては視聴率がすべてである。民放テレビは広告収入で食っているので当然のことなのであるが、視聴率は「民意」をよく現す指標でもある。視聴率が高いということは多くの国民の関心を引いたということである。
昨今、民放各局を牛耳って独占状態にある吉本興業のタレントたちによってバラエティー番組ばかりか、ドラマ、スポーツ番組、ニュース番組までもそのタレントを食い込ませ、タレントが書いた自分の本の宣伝までその番組を私物化して利用しお金にしようとしているこれらのタレントたちが、TV局が発注する仕出し屋のようにあっちこっちに顔を出す。
人を謗る、けなす、揚げ足を取ったり叩く。こんなことが俗に言うバラエティー番組の中で、日常茶飯に繰り返されている。これらはドラマや映画とは異なり、そこに一貫した思想もなければ、教義的な意味合いもない。ただ人が人を責め苛むという本能的快楽のみを剥き出しにし、演技を通り越した極めて醜悪な姿が強調されているだけである。そこにあるのは薄っぺらい笑いの残骸だけである。
そもそも人一人一人の趣味嗜好などはさまざまである。テレビの目的というのは(特に広告収入に依存している民放の場合は)高視聴率を上げること、すなわちできるだけ多くの人に番組を見てもらうことであるから、どうしてもテレビ番組は最大公約数的な誰もが見そうなものが題材となるのはやむを得ない。そこには時間を切り売りしている限界産業としての放送業界がある。
私が大学生のころアルバイトで1年間在籍した某民間TV局では、美術制作部にADの仕事をしていた折、各番組の製作担当者が予算をいかに抑えて番組作りに腐心していたかを目の当たりにした。番組に出るその他大勢の人間[タレントではなく仕出しと呼んでいた]やギャラの安いタレントを多く使い、コストを抑えて利潤を出す、これは一般企業でも同じである。
テレビというものが出現した当時、かの大宅壮一氏はこれを”一億総白痴化”と称したが、 テレビ番組が広告収入をもとに作られているという構造がある限り大衆に迎合するような 番組が出来るのは必然だが日本国民全体の文化レベルの指標が低俗番組に浸食されないことを望む。
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