落語界の異端児立川談志が逝った。他者の目もはばからず、言いたいことを言い、古典落語に新風を吹き込んだ毒舌の噺家が、最後は口は災いの元の咽頭がんで声が出ずに亡くなったことは談志らしい死に様である。師匠の話は何回か聞いたが、落語のマクラが破天荒でおもしろい。
古典落語の命題でもある人間の業の肯定についてこう述べている。
談志曰く、まず〈業〉とは、生きなければならないあいだの退屈を紛らわせるために余計な事をしようとすることであると。
人間が生きていくための「常識」という名の「無理」が人間社会には山ほどあり、あるときは世事一般のルールの中に、また体制、親子の関係、ありとあらゆる場所、場面、心の中にしのびこんでいる。
で、文化が生じ、文明が走りだすと、「常識」に押さえつけられて潜んでいたものが片っ端から表に出てくる。当然、それらは裏の存在であり、公言をはばかられるが、そのうち“ナーニ、それがどうした”と、大っぴらになってくる。それらを背景に、「常識」という重石を撥ね除けて落語というものが生まれてきたのだ。
古典落語の背景にある江戸っ子=下町=人情のわかりやすい図式に反論するのが談志落語。現代では古典となった「現代落語論」で、師匠はこういう。「落語は業の肯定である」。つまり、人間の本性を善にみるのではなく、悪に見るというと解り易い。さらに師匠は人間の悪を肯定するのである。
人間の業を肯定し続けていけばイリュージョンとなり、ついには「意味」そのものを破壊せざるをえない。談志はよくこのイリュージョンを自分の落語の拠り所としている。。
これは一種の幻覚、幻影を舞台の上で表現しているとも言え、自分の落語は出来不出来が激しい、このイリュージョン状態になるかならないか、やってみないとわからないそうだ。
イリュージョンには判りやすい演目とそうでないものがある。『猫と金魚』は、判りやすい。「番頭さん、金魚、どうしたい」「私、食べませんよ」
これなどは、イリュージョン以外の何物でもないえぐいギャグだ。
ある商家の旦那、金魚を飼っているが、隣家の猫がやってきてたびたび金魚を襲うので困っている。番頭を呼んで対策を講じようとするが、この番頭が頼りない。猫の手が届かないところへ金魚鉢を置けと命じれば、銭湯の煙突の上に乗せようとする。「そんなところに置いたら金魚が見えないじゃないか」「望遠鏡で見ればいい」。次に、湯殿の上に金魚鉢を移動させるが、番頭がやってきて「金魚鉢は移動しましたが、金魚はどうしましょうか?」。そうこうしているうちに、隣家の猫が金魚をねらいにやってくる。旦那は町内の頭(かしら)を呼びにやり、金魚を守ろうとするが・・・。
この噺の作者は「のらくろ」で知られる漫画家の田川水泡。そのせいか、随所に漫画的ユーモアがある。
他方「粗忽長屋」に見られるイリュージョンはシュールな笑いが込められており、安部公房の短編<赤い繭>を彷彿とさせる要素をはらんでいる。
朝、浅草観音詣でにきた八が、人だかりに出くわす。行き倒れ(身元不明の死人)があったのだ。遺骸を見れば(八の見たところではまぎれもなく)親友の熊公。
「おい熊、起きろぉ!」と遺骸を抱き起こす八に、居合わせた人たちが「知り合いかい?」と尋ねると、落胆しきった八いわく「ええ、今朝も長屋の井戸端で会いやした。あんなに元気だったのに……こりゃ本人に引き取りに来させないと」
話を聞いた群衆が「ちょっと待て、あんたそれは間違いじゃ……」と制止するのも聞かず、八は長屋の熊の所へすっ飛んでいく。
当の熊は相変わらず長屋で元気に生存している。八から「浅草寺の通りでおまえが死んでいた」と告げられた熊、最初は笑い飛ばしていたのだが、八の真剣な説明を聞いているうち、やがて自分が死亡していたのだと考えるに至る。落胆のあまりあまり乗り気ではない熊を連れて、八は死体を引き取りに浅草寺の通りに戻る。
「死人」の熊を連れて戻ってきた八に、周囲の人達はすっかり呆れてしまう。どの様に説明しても2人の誤解は解消できないので、世話役はじめ一同頭を抱える。
熊はその死人の顔を見て、悩んだ挙句、「間違い無く自分である」と確認するのだった。「自分の死体」を腕で抱いてほろほろと涙を流す熊と見守る八。2人とも本気の愁嘆場、周囲の人々は全く制止できない。
と、そこで熊、八に問う。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう?」
いずれにせよ落語界の異端児は落語を一つの革新に導いたことは、時代が要求した必然なのだろう。弟子から上納金を取っていた立川流家元亡き後、志の輔をはじめ薫陶を受けた弟子たちはどのように落語を発展させていくのだろうか? 合掌。
2011年12月1日木曜日
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