2010年5月2日日曜日

日本の病根


「明日のない希望よりもむしろ絶望の明日を。」とはパラドックスの妙手である作家安部公房の言葉であるが、日本は、今いつ果てるともない不景気の真っ只中
にいる。そこにはある種の豊かさはあるのだが、不安ばかりで、希望というものがまるでない。40年前の高度経済成長時代には金がなくても心の豊かさを感じたものだった。かつて Japan as No1(アメリカの社会学者・日本研究者であるエズラ・ヴォーゲルが1970年代に執筆刊行した著書。)という本が一世を風靡したものだったが、それも現在では
「(世界で)一番だったころの日本」と訳されても仕方がない状況である。



そのように考えてくると豊かさとは、今お金をいくらいくら持っているという金銭的なものではないことが分かる。つまり真の豊かさとは、明日に希望がどれほど持てるかという希望の度合いなのだ。そこで国民がどの程度の明日への希望を持っているかが問題となる。


経済産業省の資料より失業率の推移を表で見ると右の図になる。
日本では自殺率は失業率と強い相関があり、98年の激増は金融危機で説明がつくが、景気が回復した2000年代になっても、自殺率は高いままである。特に目立つのは、老人の自殺率が下がる一方、雇用が不安定化した30代以下の自殺率が上がっていることである。総合的には世界で第6位である。

失業で自殺が増えるのはこれは日本特有の現象であるようだ。河西千秋『自殺予防学』によれば、スウェーデンでは1992年の金融危機で失業率は2%から10%に
激増したが、自殺者は減り、その後も減り続けている。これは欧州では失業給付が手厚く、職を失ってから数年間、就業中とあまり変わらない所得が保障され、職業訓練によって転職を促進するなど、失業を前提にした制度設計ができているからだ。


現在日本では「余剰人員飛ばし」によって900万人以上が潜在的に失業している状況にあると言われている。これを支えている財政(6000億円の雇用調整助成金 )が破綻したら一挙に爆発するリスクがある。
昨今の異常な自殺率が示唆しているのは、まだ平穏で豊かに見える日本社会の根底に大きなストレスが蓄積しているということである。
会社に依存した「日本型福祉社会」が崩壊したのに、それに代わって社会が個人を守るシステム(セーフティネット)が出来ていないため、絶対的な孤独に追い詰められた人々が死を選ぶ。彼らは、もう維持できない旧体制にこだわって問題を先送りしている経営者や政府に対して、無縁社会の中で死をもって抗議しているのではなかろうか。


社会学者の宮台真司氏は著書「日本の難点」の中で次のように言及している。
80年代後半から米国は、日本の製造業一人勝ちを契機に、自国が 製造業から流通業へ、そして金融業へ産業構造をシフトさせていく過程で、我が国へ内政干渉とも言うべき年次改革要望書をつきつけ、農産物輸入自由化にはじまり、大規模店舗規制法の緩和やその他数多くの米国にとって都合のよい政策を推し進めることになり、その結果対米従属と国土保全が両立し難くなったことを指摘している。
米国からの要求に応じるがままにすれば、日本の<生活世界>の相互扶助で調達されていた便益が、流通業という<システム>に置き換えられ、その結果物理的空間に拘束された人間関係が希薄になり、多様に開かれた情報空間に依存するようになっていく。そのため経済が回らなくなると、相互扶助が個人を支えきれないほど薄っぺらい包摂性のない、行政に頼れない社会が個人を疎外していく。


米国の言うがままになることで、我が国は社会投資国家どころか、結果として社会収奪国家として機能してきた。その要因は輸出市場としての圧倒的な米国の重要性と、軍事的安全保障の米国依存の2点であるが、輸出においては現在わが国の輸出総額の米国向け輸出額は20%余りに過ぎない。また安全保障については重要な事は軍事だけでなく、資源、食糧、技術、文化の安全保障も視野に入れなければならない。宮台氏の持論では、現在の「軽武装、対米依存」から「重武装、対米中立」へとシフトすべきと唱えている点では賛成である。

この重武装とは対地攻撃能力を中核とした反撃能力による、攻撃抑止力を備え
ることになり、それには専守防衛の憲法9条を変える必要がある。
宮台流に言うと、現代は社会の底の抜けた時代であり、社会の制度変革の必要性が問われている時代でもあり、それを実現するのが政治家の仕事である。

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