2010年4月20日火曜日

日本人の根底にあるもの 2

禅の心


釈尊(しゃくそん)(釈迦のこと)は、輪廻転生(りんねてんしょう)から解脱(げだつ)して、永遠の安らぎ(涅槃(ねはん))を得るために苦行をした。

しかし苦行では目的を達成できないことを知って、菩提樹(ぼだいじゅ)下に坐禅を組んでヨーガの行に入ったのである。 こうして自らの自己に目覚め悟りを得られた。これが仏教の始まりである。
こうした坐禅によって悟りを得る、インドの禅を中国に伝えたのがボーディーダルマ(Bodhidharma:菩提達磨(ぼだいだるま))である。



                十牛図(じゅうぎゅうず)


人生について、ある心理学者は、「自己実現の旅」という言い方をする。つまりこの十牛図の絵において、表現されていることは、いかにして自己実現の道に到るかをやさしく説いた絵本なのである。まずは「牛を尋ねる」と思うこと。ここから自己実現の道は開始される。



本来の自分を見失った者が、”自分”を捜す様を牛の図によって示す。"本来の自分"が牛によって表されている。十枚の絵の中では、牛は途中で一度消えるが、また出てくる。十牛図は無我とは何か? を、10の段階を追って示したものである。
これらの図は、禅において悟りを牛に例え修行の道程を表現するために用いた説明図である。この道程には、禅に限らず、書道・華道・歌道・武道等、道を求める者にとって共通のものである。

尋ねる牛と書いて、「尋牛」(じんぎょう)という言葉がある。これは禅の精神を分かりやすく伝えるマニュアル本「十牛図」の第一の絵である。

牛(幸せ)を求めて牧童が旅に出たが、牛は簡単に手に入らない。牛を得るためにはすべてを投げ捨て命がけの修行が必要であるが、「果報は寝て待て」というのは幸運はあせってもどうにもならないものであるから、あせらずに時期が到来するのを待てという意味で仏教においても一面の真理でもある。

けれど禅においては求めるものを得るためには苦労に苦労を重ねることが重要であると説かれている。

だんだん道を歩いていくと、男が何者かの足跡を見つけた。近寄ってよく見ると、どうやら牛の足跡ではないか。とうとう牛を捕まえるチャンスがあるかもしれない。このことを見跡(けんせき)と言う。
牧童は苦労してやっと牛の足跡を見つけた。これこそ牛(幸せ)の足跡だ。修行僧でいうとお経や先人の言行である。幸せとはどんなものであるかということは知ったような気がするが、幸せになったわけではない。足跡はあくまで足跡であって、牛そのものではない。

男はその足跡を辿って、道を外れ、山の方に分け入っていく、もはや怖いものはない。どんどんと山奥に分け入っていく。するといた。真っ黒い牛の尻が見えた。まさか熊ではないはずだ。尻尾もある。あれは間違いなく牛だ。これを見る牛と書いて「見牛」(けんぎゅう)という。幸せとは何かという話を聞き、自分もそうなれば幸せであると思っている段階で、自分が幸せになったわけではない。ただ何となく幸せとはこんなものだという形を知ることができた。


さてこの牛をやっとの思いで。牛の鼻に手綱をかけた瞬間、牛(幸せ)を自分の手でつかんだが、しかし、牛は嫌がって逃げようとする。逃がしてはなるものかと懸命に努力して、せっかく掴んだ牛(幸せ)を放すまいとしている姿である。幸せを自分のものにすることは容易ではない。いつ自分の手からこぼれ落ちるとも限らない幸せをつかんだ図、この絵のことを得る牛と書いて「得牛」という。


捕まえたと言っても、まだまだ牛は野生の心を持っていて、男はこの牛を調教することに心血を注ぐ、頭を撫でながら、鼻管を通して、手綱を引く。次第に牛もおとなしく従うようになった。逃げようとして暴れていた牛がやっとの思いで慣れてくれた。牛を飼い育てることに成功し、幸せを手に入れた。
この絵を「牧牛」という。





男はこの牛を田舎に連れて帰ろうと思う。そこで旅の支度をして、牛に乗り、意気揚々と道を歩いていく。今や自由に繰れるようになった牛の背に乗り笛を吹きながら家に帰っていく心境で、自分と牛が一体になった姿を現わしたこの絵を「騎牛帰家」(きぎゅうきけ)という。






家に帰った男は、田舎の家で野山に囲まれて、悠々自適の生活をしている。もはや牛は家畜となって、彼の前にはいない。物思いに耽っているのか。座っている男がそこにいるだけだ。家に帰って牛(幸せ)のことは忘れてしまった。
牛と自分が一体になったのであるが、実は牛は外のものではなく自分の内にあるものであるということを知った姿である。
外の牛と一体となり幸せを得たのではなく、むしろ求めるものは内にあった。すなわち求めるものは他になく、自分なのだ。
この絵のことを牛を忘れ、人だけが存すると書いて、 「忘牛存人」(ぼうぎゅうそんしん)という。



この絵を、十牛図では、禅的な最高の境地としている。この奇妙な画面を、人も牛もともに忘れると書いて「人牛倶忘」(じんぎゅうくぼう)という。禅では仏になってもそこに止まることなくそれを超越し更に止揚せよと教えられる。
迷いも悟りも無く、仏も凡夫もない。空(くう)そのものである。
ここは、空円相という。円は真実を示す。今までの絵は、すべて円の中にあった。これは、仏教の「空(くう)」である。
死してまた蘇る我、絶後再蘇(ぜつごさいそ)、本当に蘇った我を表す。

つぎに枝が生き生きとせり出した絵が見えてくる。その背後には生命力に溢れた春の野山がある。この絵のことを「返本還源」(へんぽんげんげん)という。本来の根源に戻ること。ひょっとしてここは天国なのかもしれない。人の影はどこにも見えない。 幸せを求め旅に出、求めつくして自分のものにし、それすら忘れた世界に帰ることである。本当に人間、真の人間に立ち帰るのである。

幸せになってみても、なる前も「柳は緑 花は紅」であり、自然界はなんら変りはないのだ。

栄枯盛衰も飛花落葉もごく当たり前の姿なのであって、偽りの世界に生きている私たちが真実の世界に立ち帰ることである。この絵は、無我性の具現化したものである。梅花は、我ならざる”蘇った無我の我”である。


最後の絵では、太った男が街にきて、何かを誰かに渡そうとしているシーンが見えてくる。この絵を街に入り、手を伸ばすという意味をもって「入廛垂手」(にってんすいしゅ)という。何ものにも捕らわれず、ただ思うがまま、生きて間違いのない境地に達した男の老いた姿であろうか。
「てん」は汚染した俗界のことである。
垂手とは手を垂れることであり、人々に教え導くことである。



さてこうして牛を尋ねることから始まった男の人生絵巻が閉じられる。いったいこの絵で登場する牛とは何であろうか。あなたは牛をどのようにイメージするだろう。牛を自分自身の本来の心と考えることも出来よう。元々自分というものは、自分の内面にありながら、あたかも野生の牛のように御しがたく、簡単に調教できるようなヤワなものではない。牛を探そうとすることは、つまり本来の自分を見つけようと心を決めた状態をいうようだ。

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