2008年10月2日木曜日

アートな話 模倣について 


       ピカソ (人形を抱くマヤ)

芸術の世界では模倣,2番煎じ,なるものは忌み嫌われることであるが、ピカソについてある話がある。彼が足を運ぶギャラリーでは展示されている作品の おいしいところを持っていかれると,画家仲間はささやき恐れていた。 ピカソはただ作品を模倣したわけではなく,彼の感性で絵画から啓示されたものを 自分の絵に取り入れ破壊と創造を繰り返していただけである。このことから芸術において模倣は否定されるものではないことが分かる。すなわち 作品に自分なりの味付けを加えることである。





かつてパロディー裁判(写真家白川義員とデザイナーマッドアマノ)があったが、 「パロディ」の語源は真似歌を意味するギリシャ語「paroidia」にあり、他者の作品を風刺的に真似る慣習自体は古くから存在していたことがわかる。美術においても、ルネサンス期に習作や模写がディシプリン(規律)に組み込まれた経緯がある。ただマッドアマノ氏のように白川氏の原画に承諾を得ずに加工したのでは道義的責任が生じる。本来パロディーとは元の作品を批判、風刺するものなのだから。

模倣といえば猿真似という言葉がある。サル(動物)には人間と違って想像力が無い,唯一生命の危険に対しての想像力はある。これはどの動物でも同じで、私が釣りでよく経験することだが魚も危険を察知すると咥えた餌を吐き出しバラしにつながる。フグの場合は釣った場所ですぐさばいて頭を捨てると、ほかのフグはその場所では釣れなくなる。



日光サル軍団という演劇集団をご存知だろうか,人間一人を演技指導するのさえ大変な 所にサルの一団を統率する校長の努力は大変なものだ。汗をかき熱を出し病名も分からず寝込む日もあった。後日談だがこれはサルのたたりらしい。彼は演技指導の時、言うことを聞かないサルを,連中の目の前で徹底的に痛めつけ殺す。 いわゆる見せしめだ。演技をしている恐怖に引きつったサルたちの顔を見れば、いかにサルたちが校長を恐れているかが分かるだろう。芸術全般において、よい作品を見てそこから啓示を受けることはよくあることである。しかしそれを咀嚼して自分なりに消化しきれずに、作品に原形が垣間見られる状況は良いことではない。

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