写真は1972年に発掘された国宝の高松塚古墳壁画の一部<西壁の女子群像図>。この中でひときわ目を引く青色が最新の技術(蛍光撮影分析)によって最も高貴とされた鉱物性顔料の青「ラピスラズリ」がふんだんに使われていた事実が明らかになった。この「ラピスラズリ」、実はアフガニスタンの山中でしか産出しない鉱物である。
今は無き日本画家の平山郁夫氏の解説によると、西欧文化圏にはインド洋からイエメン、メッカなどを経てコンスタンチノープル以西にも輸出されたが、東方向には絹の道を通って洛陽、長安の中華文化圏にもたらされ、さらに極東の朝鮮半島、そして東の極まった「日出づる処」の国、日本にも到来していたことが、「蛍光撮影」のような手法によってあきらかにされたそうだ。 平山氏は日本画家としても多くの仕事を残されたが、同時に古美術品の修復や保存、古代の姿の正確な復元などに、科学的な手法をふんだんに投入され、完全に新しい分野を築いた人である。
■葛飾北斎とべろ藍
時代を遡ること江戸中期を迎え当時の浮世絵の版元 西村屋与八は「富士山」を画題として、新顔料「べろ藍」の魅力をフルに発揮する新しい浮世絵連作を葛飾北斎に依頼した。誰もが目にし、身近に感じる富士の山が江戸庶民の身近に存在していることに着目した与八は、地本問屋永寿堂を今の日本橋馬喰町に構えていた。北斎は永寿堂の期待に大いに応え、「べろ藍」の魅力をフルに生かす富士山の連作を発表する。それが今日「富嶽三十六景」として全世界にあまねく知られる作品成立の経緯である。この「富士山」が江戸で大ヒットした。北斎は後継の類似作品を量産することになり、北斎と言えば富士山が定番になった。
この北斎の、最もよく知られた代表的作品「富嶽三十六景」は「べろ藍」の発色効果をもとに考案された所産であるが、実はこの「べろあい」という風変わりな顔料は長崎を通じて輸入された南蛮渡来の鉱物性顔料だった。
すなわち「べろりん藍」のもとの名前は「ベルリンブルー」つまり「プルーシャンブルー」あるいは「デルフト青」などとも呼ばれた、ザクセン王国エルツ山脈の銀鉱で不純物として分離された青色顔料、つまり「ザクセンの酸化コバルト」の藍色である。
北斎は1849年に数え年90年の生涯を閉じてこの世を去るが、19世紀後半、ペリー来航後の開国によって日本から文物が流出してフランスに導入されると、いわゆる「印象派」画家たちは浮世絵の色彩と構図に仰天し、圧倒的な影響を受ける。俗にジャポニズムと呼ばれる現象だが、実はこのジャポニズムの頂点として賞賛を浴びた北斎の富士山が、当時フランスが大嫌いだったドイツのコバルトで印刷されていたとは、印象派画家の誰一人として知ることはなかったと言われている。
いっぽうで青に関連して江戸庶民の色、藍は藍染として広くもてはやされた。江戸時代後期になると、一般庶民に藍色に染め上がった布地が広く普及したのだが、初めは耐久性から仕事着として使用された経過は、アメリカのジーンズに類型をみることが出来る。片や染料の藍、片や顔料のインディゴと現代でも広く知れ渡っている。藍は海外からジャパンブルーの名で親しまれている。
上は藍の葉
他方海外に目をやれば、ドイツと言えば「マイセン陶器」なかでも有名なのがブルーオニオンだ。過去に数多くのブルーオニオンが出ているがオリジナルは1739年のマイセンのもの。東洋の縁起の良い模様を真似て、ザクロ、桃、竹、菊が描かれている。プレートのリム部分のザクロが玉ねぎからこの名が付いたと言われている。あまりに類似品がでまわってしまったため、竹の根元とプレートの裏に双剣のマークを入れ、マイセンのものとわかるようにして、今も作り続けられている。
• ブルーオニオン
マイセン窯草創期、日本や中国の東洋の東洋磁器に描かれたコバルトブルーのザクロが西洋に伝わったさい、西洋ではザクロが一般的では無かったためタマネギと誤認されたことから作られた図案。上絵付釉の調合技法を開発したヨハン・ヘロルトが絵付け部門の指揮者を務めていた1739年に完成した。1860年代に意匠登録されたが、19世紀末の財政危機の際に使用権が売却されたため、現在ではマイセンの他、フッチェンロイターやデュビでも生産される。白い陶磁器を作る技術は東アジアで開発され、ヨーロッパ人はそれを取り入れようとした。同時に東アジア特有の絵柄(柳、行灯を持った人、ザクロなどの縁起物)も浸透していった。現在はその模様を世界中の陶器やガラス会社が模倣するようになった。(ウイキペディア)
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