2009年8月20日木曜日

アートな話 「イメージの発露」


いい絵というものは、小説において豊かに情景を思い浮かべることができるものが評価されるように、目で見ながら目で見えないイメージをふんだんに含んでいるものだと思う。たとえば音、風、動き、温度、湿度、などの自然環境や時間、思い出、そこで暮らす人々の営み、精神、内面の葛藤などである。左の絵はアメリカの作家アンドリューワイエスの「クリスティーナの世界」で具象絵画の典型であり、右の絵はロシアの作家で抽象絵画の元祖カンジンスキーの「ゆるやかな変奏曲」である。

端的に言うと 具象表現は、おもに光と影でこれらのイメージを「もの-対象」を通して間接的に表現していく手法であり、抽象表現は、色や形でイメージや精神性を直接的に表現する手法である。
造形における創作の契機となるイメージにおいて、言葉に先立つものが純粋イメージで、それは能動的で突然やってくるひらめきにも似たオリジナルなものであり、アプリオリ(先験的)な要素をはらんでいる。それに対して経験イメージは、能動的に自らが発想する創造的なイメージである。イメージとは本来人間の思考経路に存在するものであるから、実態を有するものではない。湧き出たイメージを視覚化することによって、イメージの不確実性を補うものが我々がよく行うところのイメージのスケッチや覚書である。

造形表現の様相を大別すると、客観的な自然物認識を契機とする具象表現がある、一方,主観的イメージを契機とする抽象表現の二つの形式を上げることが出来る。

花一つとってみても花を支える茎や葉は生命力という動かしがたい自然の条理によって、構造的法則性を有していることを我々は知る。このような自然物から視覚的に吸収した経験的知識は、「具象的認識」としてイメージに蓄積されていく。つまり具象というのは、表現されたものが具体的に何かを表している表現形式である。

他方、抽象は事物や表象を、ある性質・共通性・本質に着目し、それを抽(ひ)き出して把握すること。その際、他の不要な性質を排除する作用(捨象)をも伴うので、抽象と捨象とは同一作用の二側面を形づくる。一方、抽象というのは、色や形で表されたものが具体的な「もの」を表していない表現形式である。そのため抽象は自然事物のエッセンスを抽出し、それに付随した余分で関係の希薄な部分を捨象し、一つの認識を再構築することに集約される。しかし具象と抽象の間をクロスオーバーする絵画も多い。いわば音楽でいう変調のようなもので、そこで具象か抽象かを論じても意味のないことだろう。一般的には半具象と呼ばれているものである。
そもそも具象という概念は、20世紀に自然の現実の形態を再現しない抽象芸術が現れた際に、対抗して従来の再現的な表現を総括するために使用されだした概念である。
造形作業の過程でしばしば体験するデフォルマシオン(変形、歪形)は、造形芸術において、一般的には自然界に与えられている標準的な規範を変更することを意味している。それは意図するしないにかかわらず、再現されたものとその原型との相違を表す言葉として使用される。あらゆる創造的な要求は、常に自然界の単なる写し取りではなく、何らかの解釈である以上、表現に付きまとうものである。デフォルマシオンはいわば具象から抽象への橋渡しのようなものである。

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