2015年3月28日土曜日

根深い沖縄問題

 


米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の辺野古沖(同名護市)への移設問題で、政府と沖縄県の溝がさらに深まっている。沖縄防衛局が進めるボーリング調査について、沖縄県の翁長雄志知事が7日以内の停止を指示。これに対して政府は「違法性が重大かつ明白」だとして取り消しを求める申し立てを農水相に行った。

県知事選挙後の12月に行われた総選挙では、現行案推進を掲げた自民党候補は、全ての選挙区で落選した。現行案を拒否する沖縄の民意は、この20年余りの政府側のアプローチにもかかわらず、NOと出た。「基地転がし」状態の「県内移設」に対して、もはや負担は限界だと訴えているのである。日米安保体制のもと本土とアメリカの地政学的な盾としての役割を担ってきた沖縄であるが、現行案を無理に通すことになれば、本土と沖縄の関係悪化は避けられないところだ。それは沖縄列島が大陸に向かって立ちはだかる堤防としての機能を弱体化させるとともに、沖縄に多くを依存する日米安保体制の安定を揺るがす事態を招く恐れがある。今の政治状況は沖縄との対話が少なすぎることも問題となっている。沖縄の二大メディアなどは、この堤防の外側(中国)に県民の目を向けるような記事も散見されるので注意が必要だ。日本に脅威を及ぼし続ける中国を身内とする倒錯感情を育むようなことがあってはならないし、それを助長するような環境を作ってはならないためにも、沖縄(琉球)の歴史を確認してみたい。

●沖縄の歴史     
沖縄列島と交易略図(琉球の歴史より)

沖縄では中国明代初期の1372年に琉球王国が建国されたが、王国は最初から中国の冊封国(属国)で、明の海外貿易の一部を代行して経済利得を得るために沖縄は統一王国になった。
 この間、江戸幕府が日本を統一した直後の1609年には、鹿児島の大名である島津家(薩摩藩)に沖縄を武力侵攻させ、江戸幕府の体制下に組み入れた。琉球王国は奄美大島など沖縄本島より北の島々を薩摩藩に奪われ、沖縄本島とその南の宮古島、八重山諸島は薩摩藩の監督支配下に置かれ、中国と薩摩藩(日本)の両方の属国になる「両属」の状態となった。

もともと島津氏は1441年(嘉吉元)室町幕府の将軍義教から恩賞として琉球国を与えられていたが、実効支配したのは1609年(慶長元)将軍家康の許しを得て、力で琉球を降伏させ、この結果、島津氏は幕府から改めて琉球を領土として受けた。しかし島津氏は奄美諸島だけを直轄領とし、沖縄本島以南は琉球王に下付して、琉球王国は存続することになった。そして中国との貿易で薩摩藩はのちに幕府を脅かすほどの財力を蓄えることになる。
だが、琉球と中国(清朝)との外交関係はそのまま続いたため、中国からみて琉球が属国である状態は変わらなかった。幕府と島津家は、琉球に中国との外交関係を維持させることで、貿易収入の上前をはねる政策をとったのだった。 そして琉球王国は、鎖国政策の例外的な存在として、江戸時代の幕藩体制に組み込まれなかった。
しかし明治維新で日本が開国し、台湾や南洋、中国に向かって支配を広げる意志を持つようになると、明治政府はその第一歩として1879年、沖縄を日本帝国の版図に組み入れるため、琉球王朝を廃止し、代わりに沖縄県を設置する命令を下した。
これは「琉球処分」と呼ばれた。

1609年の薩摩軍による侵略や、「本土防衛」のために沖縄が「捨て石」にされた太平洋戦争末期の沖縄戦など、沖縄だけを本土から切り離し「基地問題」を固定化した戦後のサンフランシスコ条約とともに、「日本(ヤマト)が沖縄に行った数々の仕打ち」の一つに数えられ、沖縄の被害者意識を補強する材料となっている。
歴史上では、「琉球処分」に対して、中国(清国政府)は強く抗議した。琉球王国の遺臣たちの中にも、清国から援軍を得て日本を追い払おうと考える人々がいた。だが、すでに弱体化が始まっていた清国は、その後の日清戦争で日本に負け、沖縄どころかその先の台湾まで日本に奪われ、琉球を助けることはなかった。

 琉球のルーツは中国か日本かと言うことになると、日本説が有力である。沖縄の言葉は古代日本語(やまと語)と近いといわれ、琉球王朝の公文書は、ひらがなと漢字の混合文であった。沖縄の言葉を日本語とは別の「琉球語」と考えれば、世界で唯一の「日本語系」言語ということになる。日本語の方言と考えれば、日本語には「琉球方言」と「本土方言」の2大系統があることになるようだ。「標準語」は実は「本土方言」だということである。

●琉球の歴史
 「琉球王国」のアイデンティティは、中国・明朝によって権威づけられた国際貿易にあった。明朝が「属国にならないか」と持ちかけてくるまで、沖縄は豪族の群雄割拠の時代が続いており、「琉球」という国名を与えられて明の属国となった後に、統一国家となった。 明から属国化を持ちかけられた当初は、沖縄本島の北部、中部、南部の3人の豪族が、強大な明を味方につけてライバルを倒そうと考え、相次いで「属国になります」と申し出て認められた。
その後も割拠時代が約60年間続いた後、尚巴志が1429年に3つに分裂していた琉球を統一し、首里城を首都とする統一王朝ができた。「首里」とは「首都」という意味で、今の県庁所在地である那覇は、首里から山を降りたところにある外港だった。

●沖縄分島事件
    
廃藩置県後、明治政府は、台湾で発生した漂流宮古島民54名殺害事件を契機に台湾出兵を行ない、沖縄が日本領であることを清国に認めさせると同時に、琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなった。
 しかし沖縄県の帰属問題は日本政府の一方的な強硬措置によって一応の解決をみたがこれに対し清国政府はしばしば抗議を行ない、日清間は沖縄問題に限り外交上の決着はつかず、沖縄自体も清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。そのような状況の中で、たまたま東洋漫遊中の前アメリカ大統領グランドが両国の調停にたち、明治13年、ここに沖縄分島事件といわれる問題が起きた。グランドの調停案に対し清国側は沖縄を三分して、奄美諸島を日本に、宮古・八島山諸島を中国に譲り、沖縄島を中心に琉球王国をたて、冊封関係は従来通り続けるという三分案であった。
 
日本政府は、当時日本に不利であった日清修好条約の改約を条件に、八重山・宮古は譲ってもよい腹であった。しかし、交渉が長引いている間に、清国は北にロシア、南にフランスと問題が起こり、また日本の関心は日清戦争の火種となった朝鮮問題をめぐる問題に移り、分島問題は立ち消えになり、琉球列島はすべて日本に所属することになった。はしなくも、戦後の沖縄をめぐる本土政府の無関心ないしは国の利益の前に沖縄県を犠牲にしてかえりみないという兆候をこの分島事件で現出する。

● 戦後

1952年(昭和27)4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し、沖縄の地位が法的に確立した。同月の立法院議会では日本復帰に関する請願を決議したが、復帰の方法論で社大党は「米国施政権放棄」による復帰、人民党は「条約第3条撤廃」による復帰で対立したものの、復帰運動は日増しに高まっていった。ところが沖縄返還は、終戦からほぼ10年の間は、日本外交の場ではほとんど取り上げられず、わずかに1958年(昭和33)6月に訪米してアイゼンハワー大統領と会談した岸首相が返還を強調したが、アメリカ側はこれを拒絶し日本の潜在主権を再確認した上、「脅威と緊張の状態が極東に存在する限り、現在の状態を維持する必要のある」ことを強調した。アイゼンハワー大統領はそれより前の1954年(昭和29)・55年・56年の年頭一般教書や予算教書で「沖縄の無期限占領あるいは確保」を繰り返している。そして昭和47年に安保条約延長を条件に沖縄は日本に返還された。
このように沖縄の歴史は一筋縄ではいかない様相を呈していて、列強に翻弄されてきた島国ではあるが、ルーツをたどれば日本に帰属するのであるから、同じ日本人同士現状では対話が足りないと思う。一方的な政治決着は日本の安全保障上、将来に禍根を残すことになりかねないと危惧するところである。

 

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