2014年2月3日月曜日

アートな話「芸術とエロス2」


黒田清輝 湖畔

前回は欧米絵画を中心に芸術とエロスについて歴史的に考察してみたが、今回は日本における絵画のエロスについて浮世絵が展開する江戸時代から現代に至る諸相を俯瞰してみようと思う。
明治以前の日本画は儒教に基づいた中国の水墨画や唐絵の影響を受けていたため、裸体を意識した作品が描かれることはなかった。明治に入ると、洋画の方では西洋で学んだ画家たちが、西洋的なヌードを発表し始めていたが、黒田清輝の「裸体画論争」に象徴されるように、裸体は生活様式の欧米化を背景に否定され、裸体画を大体的に発表することは禁じられた。流派を重んじる日本画においても裸体画は厳しく取り締まられ、洋画での裸婦モデルという存在が一般的になっても直接的な裸体表現は退けられ、西洋の美意識を取り入れたうえで、モデルや被写体の直接的な描写ではなく、独自のイメージや美意識で「再構成」することに画家たちは心血を注いだ。

俵屋宗達 風神雷神屏風図

さて絵画史上で、時の権力者から一般庶民に芸術が開放され、豪華絢爛に花開いたのが江戸時代である。18世紀初頭には人口が100万人を超え、世界有数の大都市へと発展を遂げた“大江戸八百八町”265年に及ぶ天下泰平の世のもと、町人文化が栄え浮世絵版画の誕生とともに、それまで上方(現在の大阪・京都を中心とする地域)に先行されていた江戸の出版界も独自の展開をみせることとなる。
 経済と流通システムが発展した江戸時代は、当然上方の町人社会も潤し、江戸時代初期には、京都において琳派の創始者である本阿弥光悦が隆盛を極める。光悦は京都の有力な町衆(富裕な町人)であり、彼に追随する俵屋宗達も扇や団扇に絵付けする工房を営んでいた。
 室町時代から時の権力者の庇護の元で続いてきた画派である狩野派が、武家の好みに応じて作品をつくったのに対して、光悦は自分の好みで作品をつくっていた。狩野派は武家文化であるが琳派はいわば裕福な町人文化である。本阿弥光悦・俵屋宗達に影響を受けた尾形光琳、さらに尾形光琳に影響をうけた酒井抱一などを「琳派」と呼んでいるが、宗達と光琳、光琳と抱一はそれぞれおよそ100年ずつ活動時期がずれていて、当然たがいに面識もなく、師弟関係もない。つまり、「琳派」は狩野派のような派閥や組織ではなく、純粋に様式を指している。その様式は、漢画の技法を基礎におきつつも、大和絵の要素もふんだんにとりこんで、独自の華やかでデザイン感覚に富んだ世界を生み出したということになる。

喜多川歌麿

浮世絵
浮世絵は、封建制度の中で文化の主導権を握った町人の絶大な欲望と、強力な支持によつて発生し、時の幕府の圧迫にも耐えながら発展した絵画である。その源は遠く平安期に発した大和絵が、町人階級の芸術として新しい生命によってよみがえったと考えられる。しかし、それはいたずらに高雅を標榜する狩野派や宮廷貴族、公家たちの長い伝統に寄りかかる土佐派の絵画とも違う。新たな政治の中心となった江戸という地方色豊かな土地に育まれ開拓された新様式の絵画である。
浮世絵の主題は、過去や未来よりも、今(現世)を描くことにある。そのため、浮世絵師たちは題材に時代の最先端をいく風俗や話題を追い求め、常に趣向を凝らした描写で人々を喜ばせた。江戸時代の庶民の楽しみといえば「遊び」と「芝居」。これが、浮世絵の中で「美人画」と「役者絵」として描かれ、いわば流行ファッション誌、歌舞伎役者のポスターやブロマイドの代わりとして、浮世絵は瞬く間に庶民に浸透していった。
江戸中期になると「版」による彩色がはじまる。色版を摺る際に色がずれないよう、版木に目印となる「見当」をつける工夫がなされ、これによりカラフルな多色摺の版画が量産できるようになった。10色以上もの色版木を重ねた豪華な多色摺版画も登場し、絹織物の「錦」に匹敵するほどの美しさを誇ったことから東錦絵(あずまにしきえ)と呼ばれ、江戸の新名物になった。また裏本として春画なども数多く出回った。ギリシャ芸術では裸体の身体美が崇められたが、春画では衣服の美しさが強調されている。生の肌は、むしろ道ばたや風呂場などで見られるもので、日本の美が「衣服の下に隠された非日常の<みだら>に通じる情念の世界を描き出す。
これらを作ったのは、新秩序としての徳川の身分制度の枠にもはまり込めず、巧みに処世上の保護者をつかむこともできなかった画人たちであった。彼らは版元に仕切られ、その多くは安い画料で描き続けたが、いわゆる町絵師と呼ばれたこうした画人たちこそ、この新しい絵画芸術の生みの親だったのである。版元は彫師、刷師なども抱え込むプロデューサーのようなものだった。
浮世絵には、肉筆と版画があり、江戸時代中期以降の封建制が最も完成し、またすでに崩壊を来し始めていた時代は刹那と歓楽に耽溺し、遊里と歌舞伎がテ-マになり、また閨中秘画にも傑作が描かれた。この時代、初期の遊里の風俗画としての浮世絵に始まり、絢爛たる錦絵の誕生、寛政期の美人画あふれる黄金時代、役者絵、末期の浮世絵期に現れた風景作家、写楽、北斎や広重などそうそうたる面々が現れた。  

日本が版画大国として外国から高く評されるのも浮世絵を通じての評価であったし、ヨーロッパの近代絵画に与えた影響も大きい。浮世絵は、明治末期にその生涯を閉じたと言われている。開国したことによって海外から新たな版画、新たな印刷技術、新たな印刷機器が輸入され、日露戦争の報道画を最後に、新版の浮世絵は姿を消してゆく。
池田満寿夫 愛の瞬間

現代絵画のエロス   
現代絵画においてエロスを感じさせる作家で思い出すのは池田満寿夫だろう。「エロスの画家」と呼ばれた彼は、あるインタビューで「エロスとはイマジネーションだ」という発言をしていた。「写真やコラージュではあまりにもモロになってしまうが、版画というフィルターがかかっているために、エロチックではあっても成功した」というようなことをコメントしていたのが印象に残る。浮世絵にも造詣の深い池田は、女、愛、エロスというテーマで作品を作り続け、女性の根源的な美しさ、彼女たちが発するものすべてに魅力を感じ、創作意欲を湧き立たせた。ピカソが晩年に発表したエロスをテーマとした版画集に強く影響され、喜多川歌麿の浮世絵春画にも興味を持っていた池田は、急逝する少し前にも、アトリエの机上にそれらの画集が広げてあったと言われている。確かに版画に描かれた線描は、浮世絵に通じる痕跡を見て取れる。浮世絵の深淵を覗いた満寿夫のリトグラフやエッチングの作品には、浮世絵のエッセンスがにじみだすように、その繊細な線描のヌ-ドのタッチは、エロティシズムにあふれ、まるで陰毛そのものを見るようだと批評されたと本人も述べていた。彼もまた、浮世絵に見入られ、そこから何かをつかみ、それを現代の作品に生かした日本の画家として、その精神を伝承する稀有な画家の一人であろう。晩年のピカソのように数々の女性遍歴の末にたどり着いた帰結「人生はxxxxだ。」 は画面から饒舌に我々に語っている。    

0 件のコメント: