2012年5月23日水曜日

銭洲釣行


銭洲群礁(赤丸)
今年の春先に娘の番組取材でお世話になった西伊豆土肥のとびしま丸の鈴木忠文船長からご招待を受け、21日にはじめての銭洲釣行に出かけた。
日本の三大漁場として名の知れた銭洲. 豊かな魚影が間違いなく銭を生むと言われた  銭洲は 伊豆半島の先端.石廊崎から真っ直ぐ75kmほど南下した位置にあり。海図のその位置には豆粒ほどの黒い点が見える。これが釣り人憧れの銭洲群礁である。
前日の夜0時30分に土肥港に集合のため、午後9時前に家を出て東名を走り、土肥港に1時間前に着いた。

日程をやりくりし、ようやく釣行にこぎつけたのだが、西から低気圧が進んできており空模様が怪しくなって来て出船が危ぶまれた。7時の天気予報が終わっても船長からのゴーサインが出ないまま8時を過ぎた頃に連絡が入り行くことが決まった。
聞くところによるとピンポイントの天気予報の情報を集め、低気圧の進行速度を計算した上で昼ごろまではやれると踏んでゴーサインが出たのだ.あらためて最近の天気予報システムが優秀であることを再確認した。時化る手前まで釣りをやる算段である。
さて釣り客5人を乗せて冷暖房完備のベットルームでは一般客用ベットが12あり
VIPルームも装備しており、私は一般ルームで仲乗りさんと,他の常連客は3000円高いVIPルームに、支度を済ませて入り、1時に出港となった。
先日広島で潜水艦のベットルームを見たせいか、天井もベットスペースもゆったりして、酒を一杯飲んだら朝までぐっすり寝てしまった。

朝6時に現場に到着すると、鳥羽一郎の「兄弟船」の演歌が流れて船長のアナウンスが聞こえお目覚めとなる。船長は口は悪いが役者顔の男気のある良い男で、銭洲初挑戦の私に2~3のアドバイスしていただいた。
銭洲群礁

最初に泳がせ釣りの餌の鯖を釣ったが、餌にしてはサイズが大きいので30分ほどで切り上げた。現場ではうねりがあり時間とともに波が立ってきた。やがて憧れの銭洲の群礁が目の前に現れ、いよいよ釣り開始となった。水深はさほど深くなく、30~50m位の場所を流して行き,船中あちこちで青物のバラシと魚の取り込みで歓声が上がった。私が最初に上げたのは45cmほどの真鯛であった。

上から三の字、真鯛、カンパチ
二ノ字、メジナ
私はシマアジを釣るまでは泳がせをやらないつもりだったが、一度バラした後は、マダイ、カンパチ、メジナ、二の字、三の字、イスズミと五目のオンパレードでコマセ釣りで終始した。船中シマアジが!1.5~5キロ級5枚。バラシ多くカンパチ2~6キロ級15本以上ゲットしていた。
午後1時に納竿をして、服を着替え眠りに入って約5時間港につく間際には、加山雄三の「海、その愛」が流れ起床となった。
今回はシマアジはお目にかかれなかったが、また機会があれば銭洲に再チャレンジすることで、お世話になった船長に店の看板を彫る約束をして帰路についた。

2012年5月19日土曜日

広島紀行

安芸の宮島
広島県立美術館で開催されている、鎌倉彫教授会創立50周年記念展の地方巡回展の当番を兼ねて、新幹線とクルマで広島、尾道を廻る二人旅となった。
初日は昼ごろに広島に着き、フェリーでで平家の守り神でもある厳島神社を見学し、荘厳な佇まいの中で900年の月日を重ねた建造物に思いを馳せ、時の流れの無常感を味わった。島では土産物屋が多くあったが、中でも仏像彫刻が所狭しと大きな店内にぎっしりと陳列していた島一番の規模の店舗では、仏師が制作した彫刻を直近で見ることができ仏師の刀の冴えに感銘を受けた。
その日の夜はお決まりの居酒屋廻りで、広島焼きなるモノを食べたが、具が多い割に粉が少ないので、一般的なお好み焼きより量の割にはもたれもなくすんなり入った。どの居酒屋も混んでいて瀬戸内の魚介類の豊曉な味を楽しんだ。

千光寺公園展望台眺望
2日目はレンタカーで呉の鉄のくじら館に立ち寄り、潜水艦と掃海を展示する海上自衛隊のこの資料館では、実際の潜水艦あきしおの内部に入り、機関室、潜望鏡などの体験や、特に終戦後瀬戸内に沈められた米軍の海中機雷の掃海に大きな役割を担った海上自衛隊の掃海技術力の解説は、日本はもとよりクエートの海にばらまかれたイラク軍の海中機雷の撤去に多大な貢献をし、世界中で評価されていることも語られていた。

その後、山陽自動車道を東に進み尾道に向かった。湊町尾道のシンボルになっている「千光寺公園」からしまなみ海道を望む瀬戸内海は大小の島々が眼下に広がり、展望台からの絶景を堪能した。尾道は寺の多い町で時間的に見る時間がなかったので、尾道ラーメンを食べ、隣の福山のバラ園を見て広島に戻ったのが6時走行距離240km、旅の疲れも手伝ってその日の居酒屋めぐりは2軒で終了。


3日目、広島は川の多い街である。昼からの美術館当番まで時間があったので早朝散歩をし、原爆ドーム、平和記念公園を廻った。爆心地に当たるここに残ったドームは周りの建物が全て吹き飛ばされた中で唯一残った建物で3階建ての産業奨励館だった。この辺は川に囲まれた地で、原爆投下後には川のいたるところで2~3倍に紫色に膨れた死体が無数に漂っていたことが記されていた。展示資料を見ると、今更ながら原爆の恐ろしさと、現在我が国が抱えている時限爆弾(使用済み核燃料廃棄物)が広島の原爆の数万倍もの威力を保持したまま眠っていることのへの恐怖を改めて感じた。因みに広島型原爆のウラン235の量は約60kgであり、福島第一原子力発電所の二酸化ウラン量 は2466tがある。
まさにこの原爆ドームは世界に発信する反核のシンボルであり、原爆でなくなられた20数万の霊にたいしても、また世界の平和をねがう人々にたいしても、存在し続けるべき歴史的建造物でもある。

会場 風景
広島県立美術館

お昼まで隣接する縮景園を散策し、美術館に入った。おりからNHK大河ドラマ50年 特別展「平清盛」が開催されており、900年前の貴族政治が衰退して混迷を深めた平安末期に登場した平清盛が瀬戸内の海賊を束ねて武家(平氏)の棟梁となり、平氏隆盛の足跡を辿るとともに、関連の資料の展示などの特別展が行われていた。
さて今回の鎌倉彫地方巡回展は、過去に国内展、や海外展など多くの巡回展を催してきた教授会の西日本でははじめての広島展であり、会場は広く現代鎌倉彫の多くの作品が展示されていた。NHKの取材も入り会場は大勢の人々が終日訪れ、広島市内のみならず近隣の県からも来場者があり、工芸作品に対する関心の深さが伺えた。また会場では体験教室やDVDの放映もあり盛況であった。


2012年5月7日月曜日

狂気の沙汰



福島第一原発がいまだ放射能を撒き散らし、メルトスルーした核燃料が核分裂を続けているものと考えられ、その収束の目途は立っていない。にもかかわらず国は昨年末に福島第1原子力発電所の1~3号機の原子炉が「冷温停止状態」を達成し、事故収束に向けた工程表の「 ステップ2」を達成したと発表し、早々と収束宣言を出している。その後福島第1原子力発電所の危機的状況の告発を続けている広瀬隆氏の最近の動画は地震列島に林立する原子力発電所の危うさと、今だ国が沈黙を続けている4号機の不気味な潜在的な危機を説いている。

ジャーナリスト広瀬隆氏

地震の多発する我が国の狭い国土に54基の原発を林立させた愚と、膨大な数の使用済み燃料が各地で未処理のまま放置されている危険性を述べているが、講演を聞くほどに背筋が寒くなる想いがこみ上げてくる。
破壊された原発に冷温停止はない!と強調し、膨大な数の使用済み燃料を冷やしている4号機が崩壊したら、原発から半径250キロ(東北・関東全域)からの避難が必要となると警告している。そのような事態になったら、単純に首都東京(国の中枢)はどうなるのかという疑問、あるいは政治家はどういう行動をとるのかという疑問が湧いてくる。また他の原子力施設や使用済み燃料を保管している場所はM6の地震がきても制御不能に陥る危険性を持っていることも具体的に解説している必見の動画である。

先月、仙谷政調会長代行は、名古屋市内の講演で、「日本は電力なしに生活できない。安定した質の良い電力が供給されることが当たり前の社会でどう考えるのか。止めた場合、経済と生活がどうなるかを考えておかなければ。日本がある意味、集団自殺をするようなことになってしまう」と、再稼働慎重派を批判した。相変わらず極左の
この御仁は「集団自殺」という不穏当な言葉を恫喝のように事もなく言い放つ。電力会社から身に余る献金でも受けているかのようにしか聞こえない。

事故から現在まで炉心溶融(メルトダウン)した燃料塊は、圧力容器を突き抜け(メルトスルー)、五重の防壁と言われた五番目の防壁である格納容器の底部を突き抜け(メルトアウト)している。高温の燃料塊がどこまで地下に沈降しているか分からないという、人類未体験の現象に突き進んでいる可能性が高い。この人類的、全地球的な状況下で野田政権は、“冷温停止状態”という、“収束宣言”をしたが、現実は事故収束とは程遠い状況にあると動画は警告している。
原発プラント一カ所で、このように人類未踏の凄惨な現象を発現させているのに、その正確な事故原因も分からず。収束への目途も全く付いていない状況下で、他の53基を稼働し続けることは狂気の沙汰である。集団自爆への道を突き進むことを食い止めることに使命感を燃やしている氏は2時間以上の講演で休憩を挟み熱弁をふるっている。問題は日本一国だけではなく、北半球の壊滅に通じる重大事を引き起こす可能性がこの地震列島には点在している。地殻は活動期に入っていて、地震のみか津波の危険も併存する日本沿岸部は活断層だらけである。事故の正確な原因はまだ不明であるが、はっきりと分かっていることは、原発がいったん暴走し始めたら人間のコントロール領域を超えるという厳粛な事実である。

福島第一原子力発電所の二酸化ウラン量の計算 (福島第一原子力発電所資料)
使用
状況  済   新   原子炉内
1号機 292本、100本   400本
2号機 587本、 28本   548本
3号機 514本、 52本   548本(MOX燃料)
4号機 1331本、204本    0本
5号機 946本、 48本   548本
6号機 876本  64本   764本
合計  4546本 496本  2808本 総本数 7852本
共用プール 約6400本
福島第一内の総本数 約14252本

6基の原子炉建屋内の貯蔵プールとは別に、約6400本の使用済核燃料を
貯蔵した共用プールがある。
1号機 292本、
2号機 587本、
3号機 514本、
4号機 1331本、
5号機 946本、
6号機 876本
合計  4546本
共用プール 約6400本
総計1万950本程度
原子力発電所は稼働すると使用済み核燃料を膨大に増やし続けていく。この核のゴミは数百年以上の管理が必要である。しかし,日本では管理施設はない。今は核原子炉の何処かにしまっている。死の灰の処理もまともに処理、管理もできない国や電力会社がこれ以上原発を稼働するのは狂気の沙汰である。脱原発に可及的速やかに移行し
次世代エネルギー達成までの過渡期として当面は従来のエネルギーに頼らざるを得ないのではないか?

2012年5月5日土曜日

主権なき憲法

すべての国家は衰退するが、その原因は必ずしも不可逆的なものではない。しかし一番致命的な要因は、国家が自己決定ができなくなることだ。」       トインビー『歴史の研究』


さらにトインビーは現代文明について言及している。「人間は、科学と技術を進歩させてきたが、人間が誕生してからこのかた、精神的には何ら成長していないという。現代技術の進歩の結果、人間は再生産不可能なかけがえのない無生物資源を、空前の規模と割合で消費する能力ばかりを身に付けた。」

物質的豊かさ、経済的繁栄への欲求が習い性となった国家・集団・個人の自己中心性が、それらを加速度的に発達させ、飛躍的に成果の争奪(競争、時には戦争)が拡大教化されてきたという。
この欲求を根源とした力は、先進国などの一部の国の人々は豊かにしたが、同時に人口爆発、貧困、自然破壊、公害など様々な問題が噴出させ、それを拡大している。

彼は物質的な豊かさというものは、精神的な貧困をもたらすものでしかないと説く。危機の世をいい方向へ立て直すには、まず第一に物質的な豊かさへの欲望は抑えよと説く。第二に、物質的な富の追求から精神的な富の追求へと、私たちの精力の向きを変えよと。




憲法記念日は日本国憲法の施行(1947年5月3日)を記念した日である。今、日本国憲法について思いを巡らせると、世界的に見ても、異常な生い立ちをもった憲法であることがわかる。
その異例な点は、アメリカ軍を中心とする連合国軍の占領下という特殊な状況においてGHQによって作られた草案に従い、短期間に日本国の主権が極度に制限されていた中で、米国から強制的に与えられたものであることは周知の事実である。

敗戦に続く占領政策は、日本の国家と社会、また日本人の精神に強い歪みをもたらした。さらに「日本弱体化政策」の設計図ともいえる米国製の日本国憲法が誕生した。それは、日本が再び米国の脅威とならないようにするために、米国が与えた法的な拘束であった。そして、現行憲法は制定後60年以上にも及ぶ長期間、日本の政治、行政、防衛、教育等の法的枠組みとして存続してきたことによって、日本人のアイデンティティーが弱められ、決められない政治に象徴されるように、今日の亡国の危機を生み出している土台が仕組まれていた。

 同じ敗戦国でも、条件付き降伏の日本と異なり、文字どおり無条件降伏をしたドイツに対してさえ、戦勝国は憲法を押し付けることは無かった。ここに白人の有色人種に対する人種差別意識が見え隠れする。戦時国際法では外国軍隊は、占領地において現地の法律に従うことが規定されており、占領軍にできることは、占領政策に必要なものに限られていて、それにもかかわらず、日本を占領した連合軍は、当時の日本の基本法である帝国憲法の改変を強行した。これは、明確にハーグ陸戦規則に違反することである。
 連合国の極東委員会は、昭和21年11月に憲法が公布された後、2年以内に再検討すべしと決めていた。マッカーサーも、日本国憲法の押付けは理不尽であることを十分理解しており、そこで、彼は委員会の決定を受けて、憲法施行後1~2年の間に改正が必要であるなら、国民の判断に委ねるべきことを、吉田茂首相に伝えたが、しかし、吉田は、これを無視したと伝えられている。ここから、半世紀を超える今日まで、改憲か護憲かという議論が続いている。

 日本国憲法は正に米国が日本を属国として支配するための半植民地憲法だった。これを改正しない限り、日本は永久に米国の従属国・被保護国いわば半植民地なのだ。
広島大学の中川剛教授は、比較憲法学の立場から重大な発見をした。アメリカは大戦後、スペインの植民地だったフィリピンに独立を与える際に、アメリカ製の憲法を与えたが、このアメリカがフィリピンに与えた憲法と、日本国憲法は武力放棄など基本的な点において、ほとんど同じだというのだ。その為、法の専門家でもないGHQが手際よく短期間で憲法草案を作れたことの説明がつくと締めくくっている。

日本国憲法の欠陥と矛盾

  戦後、連合国による占領下で行われた日本弱体化政策とは、軍事力の制限と考えがえがちだがしかし、最も重要な弱体化は、精神面に対するものであり、すなわち、精神を骨抜きにすることである。
現在の日本は、どこかの国が突然、宣戦布告をして侵攻してきた場合でも、単独では対抗できない状態にある。日米安全保障条約によって米国に守ってもらうしかない状況下で、米国はこうした防衛上の依存構造を作り、米国は、日本に防衛力を持たせ、それをあくまで米国が管理下におき、日本自身が自分の意志で防衛力を行使することはできないようにしている。それがアメリカによる"宗主国対従属国"の構造である。
つまり、日本は、安保条約による軍事同盟国ではあるが、根っこでは第9条が主権制限条項であることの意味がここにある。すなわちここで言う主権の制限の核心は、強い軍隊を持たせないようにすることである。 第9条は、『戦争の放棄』という題名の章に置かれた条項だが、憲法に定めるべきものは安全保障である。現在の憲法は、国家の主権を制限する内容となっているから、これを改正しなければならない」と改憲論者は言う。
 しかし、戦後の日本人は、連合軍に占領された6年8ヶ月の間、行政、立法、家族制度、報道、教育、学術等、すべての分野で徹底的な弾圧・改変を受けた結果、マッカーサーから押し付けられた憲法を変えることを恐れている。言論統制と検閲は終わったにもかかわらず、日本人は見えないもののマインドコントロールを受け自主規制をかけ、米国の庇護の下、国の防衛に腐心することなく稀に見る経済発展を遂げた居心地の良さのため、55年体制の下、この憲法の欠陥と矛盾を改める気力も薄れた状態で、他力本願のまま、改憲護憲の上っ面の論議は何度も与野党間で起きては消え今日に至っている。

安保は、敗戦国・日本には基地の提供などの義務はあるものの、戦勝国・アメリカが一方的に防衛義務を負うという片務条約である。それゆえ、日本は自国の防衛にすら責任を持たなくてよくなり、平和と繁栄を享受することができた。そして、アメリカの作った自由貿易体制を最大限活用して、高度経済成長を成し遂げ、経済的に大きな利益を得てきた。日本はこうして特権的な条件のもと従属国的・被保護国的な地位に甘んじて栄華に酔いしれてきた。そのため、日本人は、自主独立の精神と民族としての気概や誇りを失い、他国への依存心を強め、その下で、経済的な発展ばかりを追求するという偏った指向性が続く。そして、この他者依存的な防衛機構と経済的繁栄が、日本人の心の隙間を広げていくことになる。

日本人は戦後、自立心を失い、国防を他国に依存するという「甘え」の構造の中で、「利己主義」的に物質的な豊かさをむさぼってきたが、かつての高度成長経済がもはや戻れない過去のものとなった現在、国家目標も国民的理想もない「半植民地国家」の虚栄の半世紀をもう一度省みて日本再生を望む意志の持続と、自虐的な隷属感覚を払拭するためにも日本国民が作る自主憲法が望まれる。