2012年4月5日木曜日

アートな話 仏像彫刻

鎌倉大仏

鎌倉彫協同組合が運営する鎌倉彫の店<>の名付け親は、今は亡き後藤俊太郎先生である。第28代後藤家当主でもあり、鎌倉仏師の末裔である。後藤家も代々慶派との関わりを持ち今日に至っている。
名前の由来は慶派の慶である。慶派をたどると運慶の父で慶派の創始者の康慶(奈良時代の仏師)に遡る。慶派の中でも運慶,快慶はよく知られた仏師である。

ここで数多くの資料をもとに仏像についてまとめてみる。(出典は多岐に渡るので割愛させていただく。)

元々仏像彫刻は、釈迦亡き後、釈迦を偲んで作られたものが始まりで、仏教伝来と共に我が国に到来し、仏教の信仰対象である仏の姿を表現した造仏であり、仏(仏陀、如来) の原義は「真理に目覚めた者」「悟りを開いた者」の意である。それに付随してさまざまな菩薩像,神・明王・羅漢・祖師像などに展開していく。

平等院阿弥陀如来像(定朝作)
仏像彫刻の開祖 定朝(じょうちょう) 

仏像彫刻において寄木作りという手法がある。これは仏像の体の部分部分をそれぞれパーツ別に作り、後に組み合わせ、完成させる技法である。この技法を確立し1000体以上の造仏を手がけた定朝(じょうちょう)は大仏師20人、小仏師105人を率いる造仏工房の棟梁でもあった。藤原貴族の加護の下、数多くの仏像制作に携わった。平安京遷都によって造東大寺司が廃止されるなど官営造仏所の廃止によって奈良時代の造仏職人たちは貴族お抱えの造仏職人となる。この定朝から分派したのが、円派、院派、慶派の三大仏師の系譜になる。



定朝の弟子覚助(かくじょ)から派生した院派

覚助の弟子、院助をもって院派の創始者とする。代々「院」の字を用いたため、院派と総称される。院派は当初、円派におされていたが、院覚、院朝といった優秀な仏師を輩出し、藤原時代最末期、院尊の頃にいたって最盛期を迎えるが、慶派仏師の台頭によって、その時期は長く続かなかった。

定朝の弟子 長勢から派生した円派  
これは一門に「円」の字がつく仏師が多かったため円派と呼ばれた。工房は京都三条にあり、三条仏所と呼ばれ、後述の院派とともに京仏師ともいわれていた。
円派は自らを「定朝の正統な後継者」と位置付けて、常に、定朝様の踏襲を続けていたがこれも長くは続かなかった。


奈良仏師の作風と傾向

奈良仏師は、定朝以降、はやくに奈良に下ってしまい、興福寺関係の造仏に従事していたが、中央から離れたことにより、独自の作風を追求せざるを得ず、円派、院派といった京仏師達とはかなり違った作風を示すことになる。さらに、既に都ではなくなっていた奈良では仏像の注文は少なくなっていたため、古仏の修理などが主な仕事となる。しかし、この古仏の修理が奈良仏師たちに天平以来の仏像の本質を知らしめることになった。
こうして独自の作風に天平以来の古来の様式を組み合わせた鎌倉新写実が奈良仏師一門であった慶派によって生み出されることになる。天平時代の造形を蘇らせたいわば仏像彫刻のルネサンスである。

定朝の孫頼助(らいじょ)、覚助(かくじょ)をもって創始者とする。主に南都興福寺大仏師職に歴代が補任されていた為、奈良仏師と呼ばれる。後に一門から覚助のひ孫康朝の弟子の康慶(運慶の父)が慶派の創始者になり、以後運慶の6人の子を含め仏師の本流となる。
慶派が始めた手法に「玉眼嵌入」(ぎょくがんかんにゅう)がある。従来の眼を通常のように彫りだす「彫眼」にたいして、「玉眼」の手法は康慶、運慶など慶派の独壇場である。材料の水晶を加工し、裏から彩色するいわば義眼を取り入れたものである。
慶派は京都では相手にされないので、平家滅亡後頼朝の下鎌倉に赴き、その地で造像の仕事をやり武家階級に評価された。武家の文化は、前代の貴族好尚の優美な像より逞しい像が好まれたことと、スポンサーである頼朝が旧勢力の貴族と係わりのあった院派、円派を敬遠したことにより、奈良仏師の慶派が浮かび上がることが出来た。さらには、興福寺仏師として興福寺で造仏、補修をやっていたので、頼朝と運慶 <平家vs源氏>と<院派・円派vs慶派>という構図が浮かび上がる。
、権力の移行は、明確に、<平家→源氏>、<院派・円派→慶派>であり、そして、源氏の棟梁は頼朝であり、慶派の棟梁は運慶であった。

東大寺南大門 阿吽の仁王像  阿形は、運慶+快慶、小仏師13名で作られた世界最大の木彫で全長は8mある。
多くの仏像は、一人の彫刻家の作品として考えられず、仏像は純粋芸術ではなく信仰の対象物として作られるものであるため、工房制作の度合いが強い。あの仁王像の縮尺したひな形原形は、運慶の手によるものかもしれないが、それを基に作った像本体は、たくさんの工人の手によるものである。大きな像なら余計に多くの仏師の手にかかるもので、運慶は全体を統括するプロデューサーのような存在だったのだろう。



左は運慶の14億円で日本に買い戻された作品重文「大日如来坐像。右は最晩年の作品 重文「厨子入大日如来坐像」

 鎌倉仏師

「仏像彫刻」は鎌倉時代で終わったと言われるとおり、現在、仏像の国宝指定は鎌倉彫刻が最後である。時の幕府が禅宗を重んじ、信仰の対象が「仏像崇拝」から「人間崇拝」に変わったことが仏像彫刻の衰退を招くことになる。それは、仏像の代わりに祖師の、肖像、肖像画、揮毫書を礼拝するようになり、しかも、祖師の肖像彫刻を安置した「御影堂(みえどう)」が、「本堂」よりも大きく建築されるようになった。 「禅宗」では師が仏であるから、仏像を必要としない。開祖、高僧の像を頂相(ちんそう)と言って、仏像より重んじられ信仰の対象とされた。とはいえ、禅宗には仏像は全然無いのではなく、祀られる場合は主に釈迦如来像である。

0 件のコメント: