2011年10月10日月曜日

日本人の根底にあるもの 3

縄文晩期 宮城県恵比須田遺跡

風土と地理的条件は国民性を作り出す重要なファクターであるが、われわれ日本人のルーツをたどれば、先史以前の縄文時代から周りを海に囲まれ、外敵からこれといった侵略を受けてこなかった幸運や、自然豊かな海や国土の多くを森林によって育まれた自然の幸に恵まれた環境の中で、心穏やかに暮らしてきたものと思われる。やがて縄文晩期になると大陸からの流民が徐々に入り込み、弥生時代を迎えるが,多少の抗争はあったものの、大陸型の過激な侵略や抗争にはならず、ゆっくりと混血が進み文化的なイノベーションが進行していったものとみられる。
縄文系弥生人も渡来系弥生人もそのルーツはユーラシア大陸から移住・渡来した人々にあり、それぞれが日本の民族集団を形成する一部となっていった。
考古学では日本の縄文時代が始まったのは、今から1万5千年前と見られている。
古代文明の発祥地のことごとくが森林を失い、砂漠化とともに滅亡した史実を、「文明の滅亡は森の喪失である」という歴史的検証を著したジョン・バーリンが『森と文明』の中で、すべての文明発祥の地が森を開くことで興き、森が失われることで滅んでいったことを述べている。そんな日本は、長い歴史の中で平成のこの世でも国土面積の66%を保持している世界有数の森林大国である。地球上の人口爆発で森林が消失していき砂漠化が進む中で稀有な国ともいえよう。

地球上では約1万年前に始まったといえる「農業革命」すなわち「狩猟・採取」から「農耕・牧畜」への進化による、人口増加を契機に、森林の伐採が始まっていった。ここには「文明」を獲得するために、森林を破壊消費するという必然性があり、やがて緑豊かな土地の砂漠化が進んでいく。そしてそうして得た文明が、森林の消滅によってやがて砂と共に消え去るという皮肉な結果をもたらした。そして民族間あるいは他民族との血で血を洗う略奪と侵略の歴史は世界史を飾っていく。
そして砂漠化した中東アジアの一角に、根を等しくする三つの宗教が誕生する。すなわち「キリスト教・ユダヤ教それにイスラム教」などの一神教。同根でありながら「導き人」の予言者を異にし、相互へだたりを深め、相克しあっている。 しかしいずれも「砂漠の思想」であり、排他的色彩が濃い。例えばキリスト教などはキリストの教え<汝人を殺すことなかれ!隣人を愛せよ!>などはどこ吹く風で、歴史上新旧キリスト教同士、あるいは他神教との戦争など殺戮の歴史を見れば一神教の欺瞞性と過激性を語るに事欠かない。

日本には、始めにそこに森と結び付いた文化・宗教観があってこそ森の保持が出来たということもあり。温暖な森林地帯は温和な多神教(八百万の神)を生み、過酷な砂漠地帯では、峻烈な一神教が生まれた。森羅万象に神を見、事に応じ時に際して神に祈り、他国の神との共生を果たしていく、この神という概念の柔軟さ、悪く言えば節操のなさが日本人の特性であろうか。
何事も和をもって尊しとなす、として全てを丸く収める指向性も、自然に恵まれた農耕民族の狩猟民族にはない特性であろうか。


日本人の起源より
古代日本を俯瞰してみると、日本古代史は隣国中国古代史と繋がっている。中国史は複数民族の存在による民族興亡史でもある。今の中国領土の大きさはEU(欧州連合)と大体同じ大きさであり、そこには複数民族がいたし、今も複数民族で構成されている。中国古代史もこの民族の戦いだった。この民族戦争で負けた方の民族が日本に逃れてきたことが、近年の考古学の調査で分かってきた。(参照)日本人の起源
余談ではあるが私は仕事上中国産の漆を扱っているので、アジアで発掘された遺跡から出土された最古の漆器あるいは日本で発掘された漆で彩色された縄文土器や漆器などを文献で見てきたが、中国産漆と日本産のとはDNAも違うことが分かっている。右は北海道で出土した縄文晩期の丹塗り(朱漆、ベンガラのようにも見える)で塗り上げた土器である。


さて1973年・1978年の発掘調査で発見された中国浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)は紀元前6000年~紀元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。稲作を行っていた事からその住居は高床式であった。またそこの稲はジャポニカ米であり、その原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。
中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000年 - 紀元前2500年)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年 - 紀元前2200年)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果と考えられる。ここに住んでいた民族は苗族(ミャオ族)で、台湾の先住民でもあり、弥生時代に海を渡って日本に来ることになる。

長江の民・苗族の一方は、雲南省などの奥地に追いつめられ、その子孫は今では中国の少数民族となっているが、「その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたようだ。」と報告されている。この苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されている。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われているという。
河姆渡遺跡が滅亡した時期に日本へ苗族が最初に渡り、日本の岡山県・朝寝鼻貝塚(紀元前4000年)に水田を作り、そこから米の化石が出たことに通じ、長江中流領の馬橋文化は約4千年前から2千7百年前であり、その後、苗族が日本に渡ってきた二陣目が、日本の菜畑遺跡、紀元前700年の水田跡に繋がる。その間の文化も侵略を受けて、徐々に日本に移民したように思われる。ここまでの文明は文字を持たないために記録がないが、縄文人と弥生人との見事な融和が作り出したハイブリットな文明は以後日本文明の礎を築いていくのである。

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