2011年10月3日月曜日

歴史の皮肉

アメリカの対日戦略
32代米国大統領F.ルーズベルト

1929年に起きた世界大恐慌後、かのニューディール政策でアメリカ経済をどん底から立て直した第32代アメリカ大統領のフランクリン.ルーズベルトは、第二次世界大戦中日系人の強制収容を行うなど日本人への人種差別的な嫌悪感を強く持っていたことでも知られ、大戦中は常に強硬な対日姿勢を取った一方でソ連に対して友好的な立場をとった大統領であった。
彼は日本の降伏を早めるために駐ソ大使を介してスターリンに対日参戦を提案した。そしてスターリンは武器の提供と南樺太と千島列島の領有を要求したのだが、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。また、この時の武器提供合意はマイルポスト合意といい、翌45年に米国は、中立国だったソ連の船を使って日本海を抜け、ウラジオストクに80万トンの武器弾薬を陸揚げした。

その後ヤルタ会談においてルーズベルトは、ドイツ降伏後も当分の継続が予想された対日戦を早期に終結させるため、スターリンに対し、千島列島、南樺太のソ連への割譲を条件にドイツ降伏後3ヶ月以内の対日参戦を要求した。その一方でスターリンの日本領土分譲要求をほぼ丸呑みする形となり、戦後の東西冷戦を招く要因を作ったとも言われる。(ウィクリークスより抜粋)

そしてアメリカの統合戦争計画委員会は図のような日本列島分割占領案(公文書公開)を示していたが、ルーズベルトはこれを承認する直前、心臓発作で急死した。この時この案が承認されていたら、わが国もドイツや朝鮮のような分断国家が誕生していたが、ここで日本の命運が後を引き継いだ副大統領のトルーマンの出現で、運命の糸が紡ぎ直されることになった。トルーマンはソ連に対してはルーズベルトとは正反対の反ソ連派であり、ソ連が日本統治に加わることには反対であった。

33代米国大統領 H.Sトルーマン

その後ドイツが降伏、8月には日本が降伏して第二次世界大戦が終結する目前の死であったが、戦争に勝てないと判断した日本政府は、7月12日、ソ連にいる日本大使宛に、ソ連に和平の仲介を頼むよう打電した。その暗号電報は即座に解読され、トルーマンに知らされた。ポツダム会談前の合同会議で、日本はすでに壊滅状態で、原爆を使う必要はなく、警告すれば十分。との結論を出したが、しかしトルーマンはそれを無視した。トルーマンは、7月17日にソ連のスターリンと事前打ち合わせをした際、かねてより頼んでいた通り、ソ連が8月15日に対日参戦することを確認した。ところがトルーマンは、7月21日に原爆実験成功の詳しい報告を受け取り、その威力のすさまじさを知ると態度を一変させた。東欧問題などで、ソ連に対し断固とした態度を示すようになった。

1945年4月の時点で原子爆弾の完成予定を知っていたトルーマンは、核の力でソ連を抑止できるという考えがあった。日本への原子爆弾投下命令はポツダム宣言発表の一日前の7月25日に行われ、日本の返事を待つどころか降伏勧告を出す前に投下命令を出した事になる。共和党の大物の面々が日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、先にスターリンに知らせた。共和党や共和党系と見なされていた将軍たちに原爆投下決定が伝えられたのは投下の2日前であり、これは「反対を怖れるあまり自国の議員よりも先にソ連に知らせた」と共和党側をさらに激怒させた。
この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(1963年の回想録)と何度も激しく抗議していた。日本がソ連への仲介を依頼していた事を無視し、異議を認めず強引に原爆投下を命令したトルーマンはアメリカ国内でも対日和平派・共和党側に強硬な批判を受けた。しかし原爆の圧倒的な威力を漁夫の利を得ようとしていたソ連にまざまざと見せつけたトルーマンのとった戦略は、ソ連の関与を排除し分割案をホゴにした。
そして天皇を通して統治した方が簡易であるという重光葵外相の主張を受け入れ、最終案では日本政府を通じた間接統治の方針に変更した。日本は国家が消滅したわけではなく、主権を制限された傀儡国家の状態であった。
日本が戦後目覚しい復興を遂げられ、経済大国になったのも、分断なき国家が、たとえ傀儡とはいえ幸か不幸か存在していたから出来たことであり、今更ながらそこに歴史の皮肉を見るのである。

大戦後の中国
蒋介石と毛沢東
 トルーマンはルーズベルトが大きな支持を与え親密な関係を保っていた中華民国の蒋介石との折り合いが悪く、後に蒋介石率いる中国国民党への支援を事実上断ち切った。その結果、ソ連の支持を受けていた毛沢東率いる中国共産党が国共内戦に勝利し、1949年に中華人民共和国が設立され、蒋介石は台湾に遷都することとなった。
この台湾国民党政府を、アメリカ並びに日本は一貫して支持し、蒋介石は日本との連合、友好を深め保とうとしたため、台湾政府は、日本に賠償請求権を放棄すると表明した。
これに対して毛沢東政府も追随して賠償請求権を放棄した。
このことは中国人に最も顕著である行動原理すなわち<面子>である。台湾が既に放棄しているのに、巨大な大陸政府がセコセコと小国日本に賠償を求めることがみっともないといったプライドが起因していることと、毛沢東自身の言葉「日本人がつくり残してくれた経済、今日で言うインフラが整備された満洲という巨大なものがある、これがあるから蒋介石と戦うのに何の困難もない。」と満洲を賠償として残したとの認識があった。終戦後の日本はゼロからの出発をしなければならない時に、膨大な賠償の足かせをまぬがれたことは、戦後のドイツなどを見れば不幸中の幸いでもあり、中国が二つに分裂したことによる日本の幸運。これもまた歴史の皮肉であろう。

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