2010年1月9日土曜日
混迷時代のリーダー
変動の時代のせいか、明治維新と時代がダブり、再び坂本龍馬が脚光を浴びている。龍馬については多くの人々が彼のことを書いているが、国際関係アナリストの北野幸伯氏が時代背景と龍馬の志をわかりやすく書いているのであらためて補足要約してみよう。
◇ルーツ
坂本龍馬は1835年(天保6年)11月15日、高知城下本丁筋1丁目(現在高知市上町1丁目)に生まれた。龍馬は、高知城下で呉服や酒などを扱う豪商「才谷屋」の次男であったため、龍馬は他の志士たちと違い、常に「経済」の観点から日本を見ていたことが言われている。
土佐の武士には二つの種類があった。関ヶ原の戦い以前、四国を支配していたのは長宗我部氏で、この戦で反徳川の西軍につき、破れた。山内氏がかわって土佐の支配者になった山内氏の家臣は「上士」と呼ばれ、長宗我部氏の関係者は「郷士」になった。
龍馬は「郷士」の息子だったため、豪商とはいえ「上士」に逆らえない、差別される立場にあった。それで龍馬は、「経済」「金儲け」を重視する一方、「差別される人々」「社会的弱者」を大切にする視点を持ち合わせていた。また、彼は天皇以外は皆平等」という思想をもち、これは「士農工商」の時代にあってはトンデモナイ思想だったのだが、こういう「万民平等思想」は彼が郷士の子で、差別される立場にあったことと関係があるのだろう。
◇黒船来航
幼少のころは泣き虫だった龍馬であったが14歳のときから剣道をはじめ、徐々にたくましくなっていく1853年3月、江戸の千葉道場へ剣術修行に行くことを許され、その3カ月後の1853年(嘉永6年)6月、ペリーの黒船艦隊が浦賀に来航し、日本は大騒ぎになった。当時19歳の龍馬は、江戸品川海岸の警備に動員された。翌1854年3月、ペリーが再び来航。
圧倒的武力を恐れた幕府は、「日米和親条約」締結に同意。200年以上つづいた鎖国体制は崩壊にむかい、龍馬は、この歴史的事件のときも、江戸にいた。いまだ体制は強固に見えたが、以後異国にあっさり屈した幕府への不満は高まることになる。まさに日本は混迷の時代に突入していったのだ。
◇土佐勤皇党の結成と脱藩
1860年(万延元年)に日本全国を仰天させる事件が起こる。尊王攘夷派を弾圧した井伊大老が、水戸の浪士に暗殺された。(桜田門外の変)この事件は、日本全国の武士たちに、大きな衝撃を与えた。
「一浪士が、幕府の大老を暗殺???」土佐の郷士は、「おれたちにも何か大きなことができるのではないか?」と夢を描くようになったことは想像するに難くないことである。 翌1861年、龍馬の親友・武市半平太を党首とする「土佐勤皇党」が結成され27歳の龍馬も参加した。目的は土佐を「勤皇藩」(=反幕府藩)にしてしまうことである。土佐勤皇党のメンバーはほとんど「郷士」であるため、藩を牛耳っている「上士」が、軽蔑している「郷士」のいうことを聞くのかとの疑問と、藩主の山内氏は、徳川から土佐を与えられた体制側の人間であることを悟った龍馬は半平太と袂を分かち、1862年、土佐勤皇党結成の翌年、土佐藩に見切りをつけ脱藩した。脱藩というのは当時「重罪」であったが、龍馬血気盛んな28歳の時である。
◇勝海舟と神戸海軍塾
脱藩後、龍馬は昔お世話になった江戸・千葉道場に居候することになった。1862年(文久2年)秋、幕府の大物・勝海舟と知り合ったことが、龍馬の人生を大転換させることとなった。
勝海舟は1860年、ジョン万次郎や福沢諭吉などと共に、咸臨丸でアメリカを視察している。勝は幕府の中枢にいたことから、世界情勢にも精通していた。
勝は、アジアの国々が次々と欧米列強の植民地となっている状況を龍馬に話し、そして、欧米列強に対抗するためには、開国し、貿易により富を蓄積すること。その上で、どんどん黒船を購入あるいは生産し、欧米に対抗できる海軍をつくることが必要だと説く。この話は、現実主義者の龍馬の心に強く響くことになる。
勝海舟は、日本が進むべき道を、龍馬に明確に示してくれた。龍馬は迷うことなく、勝の弟子になり、土佐脱藩組を勧誘し、どんどん勝の弟子にした。この行為は当時、半平太を中心とする「尊王攘夷派」から理解されなかった。勝海舟はなんといっても、「敵」幕府の大物である。「なんで龍馬は幕府の大物の弟子になってるんだ!?」と非難されたがしかし、「海軍をつくることが日本を守ること」という彼の信念は揺るがなかった。
1863年10月、勝は「神戸海軍塾」を設立。龍馬は「塾頭」に就任する。それで、彼は「日本海軍の祖」と呼ばれることがある。土佐の脱藩浪人を塾頭にしてしまう勝海舟がいかにこだわりのない人物だったかが浮かび上がる。勝海舟と知り合った龍馬は、ここで飛躍する大きなきっかけを得た。
◇海援隊と薩長同盟
神戸海軍塾が、設立からわずか2年で、勝海舟の塾は、幕府の金で倒幕兵を養っている」と批判され勝海舟は塾の責任者を解任され、塾も閉鎖されてしまった。閉鎖のきっかけとなったのが、1864年の「禁門の変」で長州の尊王攘夷派と、幕府・会津・薩摩などが京都で戦った事件であるが、長州側、つまり反幕府側に、神戸海軍塾の塾生が多く参加していたため幕府の槍玉に上がったわけである。1865年(慶応元年)3月
その後龍馬は、勝に紹介された西郷を説得し、主に薩摩藩の出資で、日本初の株式会社といわれる亀山社中(後の海援隊)を設立する。さらに、土佐脱藩・中岡慎太郎と共に、薩摩藩と長州藩を同盟させるべく奔走した。1866年1月、龍馬と慎太郎などの努力が実り、薩長同盟成立。時代は倒幕にむけて大きく前進した。同年6月、幕府 対 長州 の戦争に参加。龍馬と社中は、当然長州側の倒幕軍で戦っていた。この戦争で長州が勝利。幕府の権威は完全に失墜していった。
◇大政奉還
さて、長州が戦争に勝利した後、薩摩と長州の力はますます強まっていき、倒幕までの道筋も見えてきたがしかし、この時期龍馬には、もし幕府と倒幕軍の全面戦争になれば日本の国力は疲弊し、イギリスかフランスの植民地になるのではないか?という不安がつきまっとった。
そんな折、龍馬は、「なんとかして全面戦争を回避する方法はないだろうか?」と考えていた。1867年(慶応3年)龍馬は土佐藩上士・後藤象二郎に「大政奉還案」を進言する。大政奉還とは要するに、将軍が国の統治権を天皇に返すこと。1867年10月14日、大政奉還実現。つまり、徳川将軍みずから幕府をつぶしてしまったわけである。薩摩と長州は、倒すべき相手がいなくなってしまった。龍馬らの努力により、日本は全面戦争を回避。日本が植民地化をまぬがれた大きな理由の一つが、この「大政奉還」であったことは疑う余地がない歴史の事実であろう。
◇船中八策
龍馬が革命家として傑出していたのは、「倒幕後の政体」について明確な方針をもっていたことである。1867年6月に記された「船中八策」がそれである。
一策 (大政奉還をする)
二策 (議会政治を行う)
三策 (身分にかかわらず、実力主義にする)
四策 (外国との交流を進める。不平等条約を改定する)
五策 (新しい憲法を制定する)
六策 (海軍力を増強する)
七策 (御親兵を設置する)
八策 (金銀の交換レートを変更する)
この八策は、明治新政府に引き継がれ、日本が近代国家・世界の大国になる道が開かれた。
◇龍馬がみた夢
坂本龍馬は、大政奉還が実現した約1カ月後の11月15日に暗殺された。龍馬33歳の時である。いまだ実行犯は諸説あるが推測の域を出ず歴史の闇に消えていった。
・海軍塾の設立・日本初の株式会社・亀山社中(=海援隊)の設立・薩長同盟・大政奉還・船中八策 と、数々の歴史的偉業を成し遂げた龍馬。しかも、これだけの大事業を成し遂げた期間は、脱藩した1862年から1867年の、わずか6年間。まさに奇跡的な人物、龍馬は一体なにを目指していたのだろうか?
龍馬、幕臣・勝海舟と共に「海軍塾」を設立した動機は日本が植民地にならないためには、「強力な海軍が必要」と考えたからである。その後、倒幕のために薩長同盟を成立させた。しかし、倒幕戦の準備が本格化すると、今度は「大政奉還」を実現させ、大規模な内戦を回避したが、それも龍馬が常に「日本の独立を守るため」に行動していたことに他ならない。
◇世界の海援隊 ~ 私利私欲をこえて
龍馬は常々「人は“利”によって動く」と言っていた。そして、この人間心理を倒幕運動にも利用している。「倒幕を実現するためには、薩摩と長州を和解させる必要がある。しかし、薩摩と長州は、何度も戦っているので非常に仲が悪い。幕府との戦に備える長州は、武器を購入することが出来ないため、そこで龍馬は、亀山社中を使い、薩摩名義で武器を購入し、長州を救い、さらに、米の不作で困っていた薩摩に、その年豊作だった長州の米を与えている。
こうして、薩摩と長州の利害を一致させることで、両藩の感情をやわらげていったが、両者ともお互いの面子からすんなりとはいかなかったが、そんな中、龍馬の一喝「わしが日本のことを考えちょるのに、おまんらは小さな藩の事しか考えられんのか!」で薩長同盟は成立した
その後、新政府の人事を見た西郷は龍馬の名前が出てないことを訝って、彼に尋ねる「この表を拝見すると、当然土州(土佐)から出る尊兄(龍馬)の名がみあたらんが、どぎゃんしもしたかの?」
龍馬は答える。「わしぁ、出ませんぜ。あれは、きらいでな」西郷が「なにが?」ときくと、龍馬は、窮屈な役人がさ」西郷は「窮屈な役人にならずに、お前さぁは何ばしなはる」とさらに聞くと、龍馬は身を起こし、同席していたすべての人が忘れられない言葉を言う。「世界の海援隊でもやりましょうかな」
大欲は無欲に似たりとの諺があるが、今の日本、第2の龍馬待望論が出ていることも時代の背景か?、、、
どんな理想を政治に掲げても、経済を忘れた政治は長続きしないことを我々は知っている。
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