2010年1月26日火曜日

権力闘争の行方


                
                             検察 VS 小沢


小沢民主党幹事長の政治資金疑惑をめぐる検察との闘争は、検察の西松建設捜査の空振りから検察の威信をかけて第2ラウンドに移ったが、検察にリークされた報道が過熱する中、現職の秘書が政治資金規正法違反で逮捕された。今や現況は民主党と検察の権力闘争の様相を呈してきた。

戦後、許認可権を行使して、日本の政治、経済、国民生活など全ての分野を支配する「陰の統治者」になった官僚。法律の大半は官僚が立案し、成立までのすべての根回しも官僚が行い、自民党時代に法案を決める閣議では、慣例として大臣は盲目的に決裁をするだけで国会は法案をあげる構図が続いた。


独立法人、公益法人、経済団体、企業など経済から教育、文化、福祉にいたるまで、あらゆる分野に補助金と利権を餌にして「高級官僚」を天下りさせ、中央官庁の意向を「中央」が指示・命令することなく、一般庶民の見えないところで「あうんの呼吸」「暗黙の了解」で統治する「闇の支配体制」をつくり上げたこの官僚支配体制を壊そうとしているのが小沢一郎である。

公務員制度改革、補助金制度廃止、官僚答弁禁止、天下り禁止、地方主権など、小沢改革は官僚支配のネットワークをずたずたにする。その結果、利権を失う者は猛烈に抵抗する。それが対立の基本的な構図である。

鳩山政権は、検察が最も恐れている取り調べの模様を録音・録画する「可視化法」を制定する方針である。官僚の中の官僚である検察は心穏やかではない。
なぜなら密室で行う取調べに権力の恣意的な行使が出来なくなるからである。
これは昨今冤罪事件が取りざたされている警察も同じことである。

密室で行われる情報操作がマスコミを利用して垂れ流され、国民は都合のいいように誘導されていく恐ろしさを検察が行った冤罪事件で知らされた国民は多い。最近では検察との裏取引で偽証して佐藤福島県知事を辞職に追い込んだ前科のある獄中の水谷建設の社長が、5000万を小沢側に渡したとの供述など裏の取れていない情報が独り歩きしている。


さて小沢一郎という政治家はいろいろ論議はあるにせよ、負の部分を差し引いても(革命家)としての存在感はある。彼と反革命の検察の闘いは今後どうなっていくのか予断を許さないところであるが、

過去の自民党の政治家を振り返ってみると、田中角栄にはじまってその一派である経世会の面々、竹下、金丸、中村、鈴木(宗男)橋本と、失脚または逮捕が東京地検特捜部によって粛々と行われてきたが、小沢もその流れにあるので検察の立件次第では逮捕の可能性は捨てきれない。

一方CIAのエージェントと言われた岸信介にはじまる清和会の佐藤、福田、中曽根、森 小泉、安部、福田、麻生などの親米派は皆無傷である。
今更ながらわが国の権力構造の裏にアメリカが見え隠れする構図がうかがえる。
検察並びにアメリカがどのような手を打ってくるかまさに政局は波乱含みである。

小沢という求心力に下支えされた民主党連立政権は、小沢が勝つか検察が勝つかの瀬戸際に立たされている。勝敗の行方次第では、政治主導か従来のエリート官僚支配かに方向性が変わるだろう。

2010年1月16日土曜日

アートな話 「黄金比」





古今東西、美に対する規範や基準値なるものが時代によって変容しているが、普遍的に今日まで継承されているものに、黄金比という概念がある。形や構図のバランスにおいておさまりのいい形や、心地の良い配置はすべてこの黄金比が潜んでいる。

 古代ギリシャでは、人体の肉体美を表現するために、人体比例として黄金分割を積極的に取り入れ、美しい彫刻を誕生させている。また、規範となる理想の人体比例をカノン(CANON)という。このような理想美を追求するための規範を研究し、普遍的な美しさを追及した歴史は、分割とプロポーションを研究することの重要性を物語っている。


ルネッサンス期には美の基本的な尺度として、積極的に利用され、作者の感性から切り離され、美を構成するための原理として美術、建築などに応用されている。人体比例の研究としてはレオナルド・ダ・ヴィンチの「カノン」やミロのビーナスなどがあげられる(上図参照)ビーナスのプロポーションはへそを起点として上部1:下部1.61となっており、プロポーションは、分割することによって生じた形同士、全体の形と部分的な形、部分的な形同士のバランスと数量的な比例関係をいう。それは部分同士が支えあい、全体を形成していることを意味している。そのプロポーションを維持するためには画面を支える統一的な構成原理である黄金分割が、絵画や彫刻などに駆使されたのである。


ちなみに、下の図を見ていただいて分かる通り、2種類の直角三角形が2つずつ、組み合わせて構成されているだけである。


しかも、この2種類の直角三角形の大きさの比率も、1:1.61になっている。図形の対角をむすんだ線に対し、90度直角に図形の一番近い角に向かって線を結んだものであり、この大きさは日常カード類、名刺、ノートなどに多く見ることができる。

下図●ABCDは正方形である。この正方形のABの中央のE点を基点にC点へ直線を引き、ABの直線の延長線であるFへ向かって円を描くと、 ABとBFの比率は黄金比になる。


 
美の基準 人間は?

人間の容貌において、女性でも男性でも美人・イケメンと称する顔つきがあるが、あれも大きさや配置の比率やを追求していくと、この黄金比が当てはまるようだ。ということは、それぞれのパーツ自体が綺麗な形をしていても、大きさや配置の比率が黄金比にそぐわなければ綺麗に見えなくなり、逆に言えば、それぞれの顔のパーツの形が多少良くなくても、配置や大きさの比率が黄金比にあっていれば、それなりに綺麗に見えるのである。

女性の化粧もやり方次第で、綺麗に見えたり、そうでないように見えたりするのは、この黄金比が深く関わっているようである。
一般的に美人の条件としては左右シンメトリー 顔の輪郭形 顔の部品の美しさと、顔に美しく配置されていることが条件になるが、基本的なプロポーションはひたいの生え際目鼻だち”というように、顔全体のなかの目と鼻の位置は美のベーシックな要素。「額の髪の生え際から眉毛の生え際」「眉毛の生え際から鼻の先端」「鼻の先端からあごの先」が3等分されていると理想形とされている。

歴史上楊貴妃とクレオパトラは「絶世の美女」という形容詞までついて我々とはかなり縁遠い存在として捉えられている。また、この2人の美人は国家の統治者へ強い影響を与え、国を滅ぼしてしまうほどの強力な威力を持っていた。

ほとんどの人の場合、左右は微妙に非対称であるから右から見た顔と左から見た顔の印象が違うことも多々ある。例えば右から見たら美人度は高いが左から見たらやや低いということが人間には微妙なズレとしてあるものである。そのズレが許容範囲であれば問題はない。

 このように造形学的バランスから絶妙にズレたところに美人の条件があるとするならば、それは自然のなせる業であり、おそらくズレというのは自然界の森羅万象の影響を受けて発生したもので、自然界には不揃いなものが多くみられる。
一般的にあまりにも造形学的バランスを持ちすぎたものは、人工的、機械的なものとして目に映るものと思われる。このことから人間の造形行為において、造形学的バランスをもう少し不規則、不安定にズラすと、情緒的な感覚を揺り動かす契機となる気がする。つまり自然の造形とは、人間が手を加えられない成り行きの所産であるから。我々は完璧に作られたクローン人間や人工的な美を望まない。
また親からもらった顔を無節操に整形を繰り返す、マイケルジャクソンの崩れた鼻も見てきた。人間の美はモノとして存在する美とは一線を画した位置にあることは言うまでもない。

2010年1月9日土曜日

混迷時代のリーダー



変動の時代のせいか、明治維新と時代がダブり、再び坂本龍馬が脚光を浴びている。龍馬については多くの人々が彼のことを書いているが、国際関係アナリストの北野幸伯氏が時代背景と龍馬の志をわかりやすく書いているのであらためて補足要約してみよう。


◇ルーツ

坂本龍馬は1835年(天保6年)11月15日、高知城下本丁筋1丁目(現在高知市上町1丁目)に生まれた。龍馬は、高知城下で呉服や酒などを扱う豪商「才谷屋」の次男であったため、龍馬は他の志士たちと違い、常に「経済」の観点から日本を見ていたことが言われている。

土佐の武士には二つの種類があった。関ヶ原の戦い以前、四国を支配していたのは長宗我部氏で、この戦で反徳川の西軍につき、破れた。山内氏がかわって土佐の支配者になった山内氏の家臣は「上士」と呼ばれ、長宗我部氏の関係者は「郷士」になった。
龍馬は「郷士」の息子だったため、豪商とはいえ「上士」に逆らえない、差別される立場にあった。それで龍馬は、「経済」「金儲け」を重視する一方、「差別される人々」「社会的弱者」を大切にする視点を持ち合わせていた。また、彼は天皇以外は皆平等」という思想をもち、これは「士農工商」の時代にあってはトンデモナイ思想だったのだが、こういう「万民平等思想」は彼が郷士の子で、差別される立場にあったことと関係があるのだろう。

◇黒船来航

幼少のころは泣き虫だった龍馬であったが14歳のときから剣道をはじめ、徐々にたくましくなっていく1853年3月、江戸の千葉道場へ剣術修行に行くことを許され、その3カ月後の1853年(嘉永6年)6月、ペリーの黒船艦隊が浦賀に来航し、日本は大騒ぎになった。当時19歳の龍馬は、江戸品川海岸の警備に動員された。翌1854年3月、ペリーが再び来航。
圧倒的武力を恐れた幕府は、「日米和親条約」締結に同意。200年以上つづいた鎖国体制は崩壊にむかい、龍馬は、この歴史的事件のときも、江戸にいた。いまだ体制は強固に見えたが、以後異国にあっさり屈した幕府への不満は高まることになる。まさに日本は混迷の時代に突入していったのだ。

◇土佐勤皇党の結成と脱藩

1860年(万延元年)に日本全国を仰天させる事件が起こる。尊王攘夷派を弾圧した井伊大老が、水戸の浪士に暗殺された。(桜田門外の変)この事件は、日本全国の武士たちに、大きな衝撃を与えた。
「一浪士が、幕府の大老を暗殺???」土佐の郷士は、「おれたちにも何か大きなことができるのではないか?」と夢を描くようになったことは想像するに難くないことである。 翌1861年、龍馬の親友・武市半平太を党首とする「土佐勤皇党」が結成され27歳の龍馬も参加した。目的は土佐を「勤皇藩」(=反幕府藩)にしてしまうことである。土佐勤皇党のメンバーはほとんど「郷士」であるため、藩を牛耳っている「上士」が、軽蔑している「郷士」のいうことを聞くのかとの疑問と、藩主の山内氏は、徳川から土佐を与えられた体制側の人間であることを悟った龍馬は半平太と袂を分かち、1862年、土佐勤皇党結成の翌年、土佐藩に見切りをつけ脱藩した。脱藩というのは当時「重罪」であったが、龍馬血気盛んな28歳の時である。

◇勝海舟と神戸海軍塾

脱藩後、龍馬は昔お世話になった江戸・千葉道場に居候することになった。1862年(文久2年)秋、幕府の大物・勝海舟と知り合ったことが、龍馬の人生を大転換させることとなった。
勝海舟は1860年、ジョン万次郎や福沢諭吉などと共に、咸臨丸でアメリカを視察している。勝は幕府の中枢にいたことから、世界情勢にも精通していた。
勝は、アジアの国々が次々と欧米列強の植民地となっている状況を龍馬に話し、そして、欧米列強に対抗するためには、開国し、貿易により富を蓄積すること。その上で、どんどん黒船を購入あるいは生産し、欧米に対抗できる海軍をつくることが必要だと説く。この話は、現実主義者の龍馬の心に強く響くことになる。
勝海舟は、日本が進むべき道を、龍馬に明確に示してくれた。龍馬は迷うことなく、勝の弟子になり、土佐脱藩組を勧誘し、どんどん勝の弟子にした。この行為は当時、半平太を中心とする「尊王攘夷派」から理解されなかった。勝海舟はなんといっても、「敵」幕府の大物である。「なんで龍馬は幕府の大物の弟子になってるんだ!?」と非難されたがしかし、「海軍をつくることが日本を守ること」という彼の信念は揺るがなかった。

1863年10月、勝は「神戸海軍塾」を設立。龍馬は「塾頭」に就任する。それで、彼は「日本海軍の祖」と呼ばれることがある。土佐の脱藩浪人を塾頭にしてしまう勝海舟がいかにこだわりのない人物だったかが浮かび上がる。勝海舟と知り合った龍馬は、ここで飛躍する大きなきっかけを得た。

◇海援隊と薩長同盟

神戸海軍塾が、設立からわずか2年で、勝海舟の塾は、幕府の金で倒幕兵を養っている」と批判され勝海舟は塾の責任者を解任され、塾も閉鎖されてしまった。閉鎖のきっかけとなったのが、1864年の「禁門の変」で長州の尊王攘夷派と、幕府・会津・薩摩などが京都で戦った事件であるが、長州側、つまり反幕府側に、神戸海軍塾の塾生が多く参加していたため幕府の槍玉に上がったわけである。1865年(慶応元年)3月
その後龍馬は、勝に紹介された西郷を説得し、主に薩摩藩の出資で、日本初の株式会社といわれる亀山社中(後の海援隊)を設立する。さらに、土佐脱藩・中岡慎太郎と共に、薩摩藩と長州藩を同盟させるべく奔走した。1866年1月、龍馬と慎太郎などの努力が実り、薩長同盟成立。時代は倒幕にむけて大きく前進した。同年6月、幕府 対 長州 の戦争に参加。龍馬と社中は、当然長州側の倒幕軍で戦っていた。この戦争で長州が勝利。幕府の権威は完全に失墜していった。

◇大政奉還

さて、長州が戦争に勝利した後、薩摩と長州の力はますます強まっていき、倒幕までの道筋も見えてきたがしかし、この時期龍馬には、もし幕府と倒幕軍の全面戦争になれば日本の国力は疲弊し、イギリスかフランスの植民地になるのではないか?という不安がつきまっとった。
そんな折、龍馬は、「なんとかして全面戦争を回避する方法はないだろうか?」と考えていた。1867年(慶応3年)龍馬は土佐藩上士・後藤象二郎に「大政奉還案」を進言する。大政奉還とは要するに、将軍が国の統治権を天皇に返すこと。1867年10月14日、大政奉還実現。つまり、徳川将軍みずから幕府をつぶしてしまったわけである。薩摩と長州は、倒すべき相手がいなくなってしまった。龍馬らの努力により、日本は全面戦争を回避。日本が植民地化をまぬがれた大きな理由の一つが、この「大政奉還」であったことは疑う余地がない歴史の事実であろう。

◇船中八策

龍馬が革命家として傑出していたのは、「倒幕後の政体」について明確な方針をもっていたことである。1867年6月に記された「船中八策」がそれである。
一策 (大政奉還をする)
二策 (議会政治を行う)
三策 (身分にかかわらず、実力主義にする)
四策 (外国との交流を進める。不平等条約を改定する)
五策 (新しい憲法を制定する)
六策 (海軍力を増強する)
七策 (御親兵を設置する)
八策 (金銀の交換レートを変更する)

この八策は、明治新政府に引き継がれ、日本が近代国家・世界の大国になる道が開かれた。

◇龍馬がみた夢

坂本龍馬は、大政奉還が実現した約1カ月後の11月15日に暗殺された。龍馬33歳の時である。いまだ実行犯は諸説あるが推測の域を出ず歴史の闇に消えていった。

・海軍塾の設立・日本初の株式会社・亀山社中(=海援隊)の設立・薩長同盟・大政奉還・船中八策 と、数々の歴史的偉業を成し遂げた龍馬。しかも、これだけの大事業を成し遂げた期間は、脱藩した1862年から1867年の、わずか6年間。まさに奇跡的な人物、龍馬は一体なにを目指していたのだろうか?

龍馬、幕臣・勝海舟と共に「海軍塾」を設立した動機は日本が植民地にならないためには、「強力な海軍が必要」と考えたからである。その後、倒幕のために薩長同盟を成立させた。しかし、倒幕戦の準備が本格化すると、今度は「大政奉還」を実現させ、大規模な内戦を回避したが、それも龍馬が常に「日本の独立を守るため」に行動していたことに他ならない。

◇世界の海援隊 ~ 私利私欲をこえて

龍馬は常々「人は“利”によって動く」と言っていた。そして、この人間心理を倒幕運動にも利用している。「倒幕を実現するためには、薩摩と長州を和解させる必要がある。しかし、薩摩と長州は、何度も戦っているので非常に仲が悪い。幕府との戦に備える長州は、武器を購入することが出来ないため、そこで龍馬は、亀山社中を使い、薩摩名義で武器を購入し、長州を救い、さらに、米の不作で困っていた薩摩に、その年豊作だった長州の米を与えている。
こうして、薩摩と長州の利害を一致させることで、両藩の感情をやわらげていったが、両者ともお互いの面子からすんなりとはいかなかったが、そんな中、龍馬の一喝「わしが日本のことを考えちょるのに、おまんらは小さな藩の事しか考えられんのか!」で薩長同盟は成立した
その後、新政府の人事を見た西郷は龍馬の名前が出てないことを訝って、彼に尋ねる「この表を拝見すると、当然土州(土佐)から出る尊兄(龍馬)の名がみあたらんが、どぎゃんしもしたかの?」
龍馬は答える。「わしぁ、出ませんぜ。あれは、きらいでな」西郷が「なにが?」ときくと、龍馬は、窮屈な役人がさ」西郷は「窮屈な役人にならずに、お前さぁは何ばしなはる」とさらに聞くと、龍馬は身を起こし、同席していたすべての人が忘れられない言葉を言う。「世界の海援隊でもやりましょうかな」

大欲は無欲に似たりとの諺があるが、今の日本、第2の龍馬待望論が出ていることも時代の背景か?、、、
どんな理想を政治に掲げても、経済を忘れた政治は長続きしないことを我々は知っている。

2010年1月5日火曜日

今年はどうなる

新しい年が明けた。3日に家族で伊東に泊まり4日は一人川奈沖で初釣りをしたが、本命のヒラメは釣れず型の良いハタとカサゴが数匹釣れた。


さて、戦後6度目の寅年(とらどし)である。振り返れば朝鮮戦争、キューバ危機、ウオーターゲート事件に田中角栄首相の金脈問題、。内外の政治史上に残る大きな出来事が寅年にはあった。今年は何かありそうな予兆がする。

二大政党時代の到来を見据えて生まれた民主党が宿願を果たし、自民党を軸とする政党政治の枠組みである「55年体制」を突き崩して初めて迎える年でもある。前回1998年の寅年にその民主党が結成されたのも時の巡り合わせと言えるだろう。

エコノミスト門倉貴史氏によると

日本の地下経済(アングラマネー)の規模は約22兆円!と推定されている。日本の国家予算が約80兆円、(本年度は史上1位の92兆円)名目GDPが約500兆円なのでいかにヤミ世界で動く金が莫大であるかが計り知れる。
その地下経済の圧倒的多数を占めるのが3/4の「脱税」によるものである。日本の脱税額は、推定金額で、下限7.4兆円~上限14.2兆円と推測されている。日本の脱税規模は、世界的に見てもトップクラスである。これは、自営業者(農業なども含む)からの税収を「確定申告」という自主申告制度にしている事が大きな要因となっている。

その次は、暴力団の非合法ビジネスでの収入(闇金や詐欺、違法賭博開催・覚せい剤密売・占有屋ビジネス・外国人の不法滞在手助け・など)。それに続くのが、性風俗産業による闇所得。これらは実体を把握しきれない部分が多く、税務署の泣き所だと言われている。
脱税ワーストはパチンコ業、建設業、性風俗業、不動産業などが常連であったが、ここにきて「人材派遣業」も仲間入りし、申告漏れと称するあらゆる業種を含めるとわが国は脱税天国である。


民主党も税収の落ち込みから、埋蔵金などを当て込んで苦心惨憺の財政運営を余儀なくされているが、ここへ来て思わぬ税収があった。(笑い)
今話題の鳩山総理が相続税として早々おさめた6億円近い金も、毎月母親の老婆心からか、小分けに生前贈与をしてきた12億といった巨額の財産を、われ知らずとは言えないところまで追いつめられたところの年貢の納め時とばかりの申告で、納税者の国民の側からすると煙に巻かれたような幕切れであったが、自民党の世襲議員も政治資金管理団体を経由して同じような事をやっている者も少なからずいるという。国政の正念場である参議院選挙を夏に迎え、せめて新年度からの政治の方向性だけは内外の煙を晴らしてもらいたいものである。