2009年10月6日火曜日

アートな話「桃山時代の金色」


日本のルネサンス から琳派 へ

天皇陛下のご即位20年を記念して、皇室ゆかりの美術品を一堂に集める特別展「皇室の名宝―日本美の華」が東京国立博物館で開かれている。そのパンフレットの表紙に載っているのが、桃山時代の狩野永徳の唐獅子屏風絵である。
 


あの戦国時代を経て桃山時代という豪華絢爛な文化を生み出した時代がやって来る。 この桃山時代から江戸時代の前期にかけて、日本人の感覚はもう一度古代の多色時代に立ちかえったような状況を呈した。桃山時代は30年と短く終わったが、日本文化の気配を転換した。乱世に終止符を打たれた人々は太平の世を謳歌して現世享楽の様相を展開した。      

桃山時代で目立つのは、金色に対するあこがれと執着である。この金の色は、前の奈良時代では仏教文化の燦然とかがやく仏の世界を象徴するものであったが、桃山時代の金色に対する観念は仏の世界の色ではなくて、この現世にある最も豪華な色、絢爛たる色というきわめて現実的なものであった。それは色と言うより光でもあった。金と言うものは不思議なもので、使い方によっては高貴にもなるし下品にもなる難しい色である。
     

この時代の絵画には障壁画といわれるものがある。武将の城や館のみならず、公家の邸宅も寺院の特権階級から、一般の町衆の屋敷にもゆきわたり、美々しく飾り立てられた。この障壁画は金碧濃彩画、つまり金箔を張りつめた金地の上に極彩色で描くというもので、この様式が全盛を極めた。桃山画壇で最も多くの俊英を輩出させ一大王国つくったのは、漢画系の狩野派で、安土城、聚楽台の障壁画に筆を振るった。金箔を使った背景は、奥行きのある立体感をうばい、題材を画面の前面に押し出す作用があるように思われる。こうして桃山時代には絵が日常的なステージに解放され、日常使う道具類などの蒔絵装飾などが盛んになり、生活の芸術化が始まり、やがてそれらは江戸時代の俵屋宗達、尾形光琳に代表される[琳派]につながる。 


宗達は、御用絵師として制約の大きかった狩野派とは違い、市井で扇屋を営む自由気楽な町絵師であった。絵師は手本や師匠の作品を忠実に再現する。それが当時の常識だった。 ところが宗達は、構図も人物も、どこからか借用してくる。今なら盗作、盗用騒ぎになりかねないところだが、それを独創的、斬新なアイディアで味つけし、一歩別の世界へ踏み出す。普通ならまとまりがなくなるところだが、それを傑作にし仕上げてしまういう才能を持っていたらしい。宗達の構図には独特の味わいがある。宗達は扇屋という商売柄、扇面という末広がりの特殊な画面形式では、四角い画面とはちがった描き方の工夫があったために、ことさら構成に長け、後に大作を頼まれるようになった時、独自の斬新な絵が生まれたのであろうか。        


一方、尾形光琳ははじめ狩野派に学んだが、宗達に傾倒、美麗な装飾的な画風を完成し、蒔絵にも美しい光琳蒔絵を考案し、元禄文化の粋をつくりあげた人である。宗達と光琳の違いは宗達が常に楽々と対象と一体になったのに対し、光琳は一方で対象の客観的な把握につとめ、他方で造形化をはかるところにある。大胆な装飾画の大家として知られる光琳は、反面において、我が国にあっては「写生帖」を残す最初の画家でもあった。        

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