2009年7月31日金曜日

自然の脅威


毎年梅雨末期におきる九州、中国地方の土砂災害は多くの被害を出しているが、最近起きた集中豪雨による被害は甚大であった。いわば日本列島の気候の亜熱帯化による、高温多雨の傾向が年々顕著になってきて、エルニーニョ現象が追い打ちをかけいまだ梅雨前線が日本列島がら離れずに停滞していて、まだ予断を許さない状況が続いている。

災害の多くは大雨の土砂災害による家屋倒壊や浸水である。地山の地盤のもろさや樹木伐採などの複合的な原因が考えられるが、改めて水の恐ろしさを感じた。最近起きた北海道大雪山系トムラウシ山での登山者たちの大量遭難事故も記憶に新しい。気象条件の悪化も遠因に考えられているが、夏山特有の気軽さもあって、ツアー気分で多少の登山経験者たちが装備も不十分なまま山に入る無防備さに警鐘を鳴らしている。10人の中高年の犠牲者たちのほとんどが冬山並みの気候の変化に耐え切れず、雨による低体温症での凍死や脳梗塞で犠牲になったことが報じられている。
今回の事故で筆者の頭をよぎるのは、生れてはじめて登山と言うものを体験した大学2年の9月の槍ヶ岳登山であった。当初上高地のお花畑あたりを散策するつもりで、軽装で(着替え下着と雨具)と友人から借りた登山靴をはいて、上高地をうろうろしていたら京都から来た2~3人の学生グループと仲良くなり、目の前にそびえる槍ヶ岳を指差しこれから登るので一緒に行こうと誘われ、最初は躊躇して断ったのだが、だいじょうぶ、だいじょうぶと声をかけられ、怖いもの知らずで後をついていった。一般的には3000m級の登山は十分な訓練と体力の蓄積に立って臨むものであるらしいが、若気の至りで思いつきで無謀なことをやったものである。

ルートは上高地からの槍沢コースで,天候も申し分なかったので槍ヶ岳山荘に晩飯までには着くというので追随した。前半は比較的なだらかな槍沢を歩き途中、雪渓の残るところでウイスキーのポケット瓶を手渡され、雪渓の雪でオンザロックをすすめられ飲んだ味が未だに忘れられない思い出であるが、やがて傾斜がきつくなるにしたがい、歩調も鈍くなり休む回数も増えた。山荘が見えたところから山荘に着くまでが非常にきつく、みんなに励まされながらやっと着いたのは6時頃で、8時間以上登ってきたわけである。山荘での一夜は朝まで眠れず、高山病の1種であることが後日分かった。翌朝頂上まで100m位しかないところの登坂が、急勾配で10m進んでは休むの繰り返しで非常に苦しく、今思えば若かったこともあり、無理が効いたのだと思うが、あの苦しさを味わったため、もう登山はやめようと心に誓った。頂上に立った時は達成感と感動でそんな思いも吹っ飛んでしまったが、筆者にとって以後登山は槍が初めてで槍が最後の山となった。


山の天候は変わりやすいのはよく言われているが、海の天候も侮れない。特に低気圧の動向には職漁船、遊漁船とも神経を使っている。特に釣船は船長の判断で船が出ないことも多いし、場合によっては釣り場から早々と引き返すこともよくある。特に小型のプレジャーボートは危ない。板子一枚下は地獄の世界である。数年前の今頃の季節に、筆者が魚の彫刻を教えていた弟子が所有している4人乗りのモーターボートで、何回か東京湾で釣りをしたことがあるが、身の危険を感じたことが1度あってから、小型船舶には乗らないことにしている。仲間がいると気が大きくなり多少の波はもろともせず内房に向けて出たのはいいが、東京湾の中の瀬あたりで風が強くなり波が船にかぶってびしょびしょになり戦意喪失のまま、波の比較的穏やかな根岸湾にもどった。それもヨットハーバーのぎりぎり出船O.Kの指示で出港したわけであるが。海難事故の死亡の多くは季節を問わず、救命道具をつけていても今回の事故と同じように溺死より低体温症による死因が多い。
遠征釣りなどの船の場合サンダル履きの乗船は保険が適用されないので、マリンブーツが義務付けられている。今回の山の遭難事故も海における船長の役目と同じような登山ガイドに負うところが多い。荒天の山を経験の浅いガイドの判断ミスで起こった今回の事故は、夏山を甘く見た事例であるが、あの時自分もたまたま運が良かっただけと思わずにはいられない。自然を甘く見るととんでもないことになるものである。

2009年7月24日金曜日

魚の旬


7月も後半になりいつもの寿司屋(鮨好)の親父から「新子が入ったよ。」と連絡が入った。もちろん九州ものである。今年はいつもの年より電話が入るのが遅いと思ったら,走りの新子は高くて手が出ないので少し日にちがたったところで仕入れたらしい。ちなみに今年の新子の初値はキロ7万円したそうだ。

新子とはコハダの稚魚でこの極小の魚体を3枚におろし酢でしめてシャリの上にまとめて載せたものである。こいつを食べると日本人に生まれてよかったとつくづく思う。写真の新子は柳刃でうろこを引き、各ヒレを取り去り5cmほどに3枚下ろししたもので、ほんのりと甘く切ない味がゆずの香りに乗って口の中にふわっとした歯ごたえで広がっていく。まさに職人技と親父の心意気を感じる一品である。


江戸前すしの元祖と言われるコハダは、出世魚としてシンコ・コハダ・ナカズミ・コノシロと4回も名前を替えて成長して行く。江戸前すしの世界では今でも最も大切な魚として扱われている。通常は1尾で2貫に付けるくらいの大きさのコハダを美味とし、ナカズミ・コノシロの大きさに成長したものは高級店では使用されないことになる。皮目が硬くなり、見た目の美しさも悪くなり、旨さも大味になるために敬遠されるのだ。

シンコはコハダの幼魚で、生後3ヶ月から4ヶ月ほどの大きさのものを言う。晩秋から冬場にかけての“旨さの旬”としての旨さとは全く一線を画した世界を持っている。私は江戸っ子ではないが、江戸っ子特有の初ものに対する好奇心と憬れは、季節の先取りである“走りの旬”としてのシンコを異常な程、殊更に愛でることになる。まだ数キロにしか満たない極少の漁獲量の初ものは、高級すし店と、熟達の腕を持つ一流の職人達と、お客さん達との見栄と意地と誇りの心意気を賭けての争奪戦となり、異常な相場の狂騰となる。江戸時代の、初鰹の世界で語られた“女房を質に入れても…”と言うほどの江戸っ子の熱い思い入れが、このシンコの世界には今でもまだしっかりと伝えられて来ている。
コノシロになると東京湾八景沖でも釣った記憶があるが、味は旨くなかった。コノシロは古来、武士階級は食べることを禁じられていた。「この城を食べる」事に通ずるとして、下克上すなわち謀反の思惑を抱いていると考えられたからで。しかし、このコノシロに自分の転機を見て取った武士が居た。それが江戸城を最初に開いた大田道灌である。道灌は、江ノ島の弁財天に御参りに行った帰り道で乗っていた船にコノシロが飛び込んでくるのを見て、これを道灌は「この城が手に入るという吉兆である」と捉え、江戸城を開いたそうだ。


一般的に、魚は寒い時期の方が脂が乗っていて美味いものが多いが、この時期うまい魚に東京湾のアナゴ、タコ、シャコ、マゴチ、黄アジがある。特にシャコは抱卵していて美味い。親父曰く「魚と女は子持ちが美味い」と. 近年水揚げが落ちているシャコも同じ網で捕れるシリヤケが漁を支えているらしい。シリヤケとはスミイカの仲間でスミイカよりも体色が薄く、少し味は落ちる。アナゴに関しては専門の仲買と契約しており、店で海水で4~5日泥はかせたアナゴの中から型のいいものを仕入れてくる。意外なことに冬場のアナゴの方が脂が乗っていて美味いと言う。いずれも羽田沖のモノが最高と親父は言う。
東京湾のタコは文句なしに美味い、甘みと切れのいい歯ごたえと風味は一級品である。昨年はタコの当たり年で、私も8杯釣った年でこれから8月が釣りの盛期を迎える。また東京湾走水のアジもサバも格別で、味を比べてみたが関アジ関サバより味は上と確信している。最近は昔のように大型は少なくなったが、30cm前後のものは味もよく1年を通してよく釣れており人気の釣りの一つでもある。

2009年7月14日火曜日

中国問題




中国問題 その1



 中国で治療を受けるには「前金を収めることが日常茶飯事になっている」という。地獄の沙汰も金次第で、貧乏人は治療を受けられない。今年5月に重慶で起きた兵士の死亡は、数時間で1万人超の市民の抗議運動に発展した。彼ら市民は元兵士の運命が「明日は我が身」と感じ自分達の問題として立ち上がった。人民解放軍兵士として四川大地震の救援活動に従事した元兵士(23歳)は、5月13日、建物の5階で清掃作業中、誤って転落した。重傷を負った元兵士は、重慶市内の解放軍324病院に搬送されたが病院側は前金の30万円を要求し、放置されたまま親族が金の工面に走りまわているうちにその兵士が死亡した事件である。

中国は92%の漢民族と残りの少数民族[チベット族、ウイグル族]で成り立っており、今回イタリアサミット直前にドタキャンした胡錦涛国家主席の行動は、中国の抱えている民族問題の根深さを現している。今回のウイグル族の暴動とは別に、中国の民衆による暴動は小さいものを含めると年間8万件を下らないと言われている。農民の暴動は「地方政府が耕作地を二束三文で強制収用し、収用した農地を宅地等に造成して民間企業等に転売、莫大な差益をふところに入れている」ことが原因であるという。共産党官僚の悪政に対する農民の「生きるか死ぬか」の切羽詰まった抵抗運動である。都市住民の大規模な抗議行動は、地方政府、公安警察など共産党官僚(公務員)の問題行動で被害を被った個人の抗議で始まる。これに同情し、共鳴する群衆が短時間のうちに結集し、数千人から数万人規模の抗議行動に発展する。大規模な抗議行動を鎮圧すべく出動した武装・公安警察の暴力的対応が「火に油をそそぎ」地方政府や公安庁舎を焼き打ちにしたこともあるほど民衆の怒りは過激だ。品性正しく節度のある日本人とは対照的である。逆にいえばそれほど民衆の怒りが沸点に達していないのか、切迫感が無いのか、ぬるい日本の政治状況がうかがえる。
  



中国問題その2
 



 中国のGDP(国民総生産)は世界2位の日本を追い抜く勢いである。しかし国民1人当たりのGDPは日本の343万円に対して、中国のそれは30万円と低い。 対米輸出や加工貿易による経済成長で潤った中国共産党北京政府は、過去十数年、年率2桁の軍事費増額を行ってきた。さらに空母建造を計画している。軍事費は増え、国民生活を支えるべき教育費や福祉予算は増えないか又は削減される。輸出と為替操作で稼いだ2兆ドルの外貨は、米国債の購入や金融商品への投資並びに、豪州・ロシア・ブラジル・アフリカ諸国等の資源を確保するための企業買収・投融資に充てている。医療や教育など国民の福祉には金が回ってこない。稼いだ金は軍事費と海外への資金流出で消える。

「国は栄え、民は滅びる」という王朝末期の症状が現れている。特に最近のアフリカへの投資はすさまじい勢いで増えている。中国は、外貨準備の約3割を国内資金需要に当てているが、ドル・元為替レートの維持のためドル買いは避けられない宿命になっており、アメリカに求められるまでもなく中国のドル買いは慢性化している。いわば働き虫の中国が溜め込んだ外貨はことごとくアメリカに吸い上げられ、ドル資産を増やし続けざるを得ず、そこにはまったく中国の選択の余地は無いのだ。中国もまたアメリカの経済奴隷でもある。
  






 中国問題その3




 「中国の知的財産権の侵害は際立っている。中国は関連法を改正し、外国企業の権利の剥奪と、中国企業の保護を一層強め、昨年の特許法改正などを成立させた。世界の知的財産権の侵害の8割は中国による。中国は他人の技術やアイデアの盗みやパクリは日常茶飯事。音楽も映画も、文学も小説も、その価値を認めたにも拘らず、それを生み出した元々の個人、組織、国家に著作権料などを支払う考えはない。知的財産権の侵害は、過去何十年にもわたる中国の常套手段である。その侵害の凄まじさは、個々の企業体の存続の危機を越えて国家の運命をも脅やかす。中国人の狡猾さを物語るエピソードがある。上海のレストランで食事をしていた日本人が数人いたところで、客の多くは中国人であったが、店内が急に停電になったところ、多くの中国人が停電になった暗闇にまぎれて雲散霧消してしまい、店の従業員が追っかけていったが、2~3分後電気がついたら、後に残っていたのは日本人のグループだけだったと言う笑い話もある。

また中国政府による強制認証制度と言うものがある。これはIT製品について、中国政府が審査、認証したものに限って、国内への輸入・出荷・販売を認める制度である。07年8月に導入方針を明らかにしたときは、日米欧が強く反対し、中国政府は一旦、導入を延期したがいま、再び同じ要求を突きつけている。これに対し、日米欧の産業界は、中国側への技術情報の流出を懸念して 「中国以外では例がない制度だ」と強く反発、再考を求めていたため中国政府は 実施を来年5月1日に1年延期し、適用範囲を政府調達に絞ると発表した。
中国のこの強気の姿勢は、今やアメリカに代わって台頭してきた巨大市場を有する国の傲慢さでもある。現段階では全容は明らかではないが、従来の主張から中国政府がICカードやコンピューターウイルスの侵入を防ぐソフトなどの設計図「ソースコード」の強制開示を狙っているのは容易に想像出来る。「ソースコード」とは、プログラミング言語で書いたソフトウエアの設計図のことで、知的財産の最も重要な部分だ。これを中国側に握られることは、知的財産の素である頭脳を乗っとられるようなものだ。中国はいとも簡単に、日本商品のコピーを作り始めるだろう。
厚顔無恥のこの種の要求を、しかし、日本が拒否した場合、家電製品をはじめとするさまざまな製品の対中出荷停止も予想される。影響は1兆円規模に及ぶとも見られている。金融危機以降の不況下、日本企業のみならず世界の企業は、中国市場への輸出に頼らざるを得ない状況がある。その点を見越しての狡猾な要求に対して、企業が個別に対処出来ることは少ない。中国の国家戦略に対抗するには、こちらも国家の総力をあげて臨まなくてはならない。だが、果たして、日本政府はまともにしたたかな中国政府とわたり合えるのか?東シナ海ガス田開発の問題も適当に、連中のペースに乗せられ、我が国もなめられたものだ。胡錦涛国家主席は、中国の軍事力は「平和」のためであると述べたが、それは、中国の意向を世界に受け入れさせる圧力としての軍事力に他ならないことを、アメリカから学んでいる。
戦後、軍事力を蔑ろにし、経済だけを考えてきた結果、すべての面で衰退しつつある日本。明らかにわが国には根本的な方向転換が求められているのではないだろうか?

2009年7月3日金曜日

アートな話「虚構と事実の間」



映画が世に登場して110年強、フィルムの存在自体が変化しようとしている。いわゆるデジタルシネマの登場である。これまで映画製作において、フィルムはなくてはならない存在であったが、デジタルデータによって、撮影、編集、配給、上映を行う規格を示したいわゆるDCI(Digital Cinema Initiatives)規格が、06年にハリウッドメジャーを中心とした映画業界に支持されてきた。これがきっかけとなり全米では08年中にデジタルシネマを実装したスクリーンが、5,000を超えたとされている。日本ではゲキ×シネがスタートした04年当時には、わずかに10スクリーン足らずだったデジタルシネマが、09年中にも300スクリーンに届く勢いで普及しつつある。最近ではゲキシネと称したデジタルシネマが紀里谷和明監督によって、映画「GOEMON」が話題になっている。




西の怪盗ルパンに対して東の大泥棒石川五右衛門がお馴染みの話である。
石川五右衛門は空想の人物か実在の人物かは,浄瑠璃や歌舞伎で語られる五右衛門はフィクションの領域に入っているが、石川五右衛門自体はいくつかの記録にも残っており、実在の人物である。具体的に残されている記録は処刑に関する次のものある。秀吉の時代[安土桃山時代]、日本に滞在していたスペインの貿易商アビラ・ヒロンが残した「日本王国記」にその記録が残っている。それによると都を荒らした15人の頭目が捕らえられ、京都三条河原で生きたまま釜の油で煮られた(揚げられた)とされ、この短い一文に,当時やはり日本に滞在していたイエズス会の宣教師ペドロ・ホレモンが注釈を入れている。「この事件は1594年の夏であった。




油で煮られたのは Ixicava goyemonとその家族9人ないしは10人であった。彼らは兵士のようななりをしていて10人か20人の者が磔になった」佐久間正 他:著 「大航海時代叢書11 日本王国記:日欧文化比較」岩波書店 1965年その他、わずかに残る記録では(例えば「豊臣秀吉譜」林羅山編 1642年に徳川政権下において記録)「文禄のころに石川五右衛門という盗賊が強盗、追剥、悪逆非道を働いたので秀吉の命によって(京都所司代の)前田玄以に捕らえられ、母親と同類20人とともに釜煎りにされた」とある。
少年時代に押し込み強盗に入って3人殺したのが始まりとされているが、その後何人殺したか分からない人間で、およそ義賊といえるような人物ではなかったといわれている。一般的に知られる五右衛門の半生は、当時、五郎吉と名付けられて育ったが、手に負えない非行少年であり、14~15歳頃に父母が死んでしまう。この頃最初の盗賊を働き、押し入った屋敷で3人を殺す。
その後20歳頃になって伊賀忍者の修行をする。 伊賀の頭目:百地三太夫から伊賀流忍術を学ぶ。しかしこともあろうに師であり伊賀の頭目でもある三太夫の妻と密通。さらにその妾を殺害して伊賀の抜け人となる。その後、悪の徒党を組みその親分となる。しかし相手としたのは権力者や悪徳を働いて金を稼いだ者のみとされ、義賊とされて人気を博した。


この頃は豊臣による圧政、貧困、朝鮮出兵などで秀吉の人気は地に落ちていた。そのため、義賊である石川五右衛門は庶民からは大変な人気を得ることとなった。その後の有名な話として必ずドラマなどに出てくるのは、秀吉の甥である豊臣秀次の家臣:木村常陸介から秀吉暗殺を依頼される。しかし、秀吉の寝室に忍び込んだとき、香炉(鶯廊下などともいわれる)が鳴って御用となる。そして秀吉の命により釜茹での刑となると言ったストーリーである。。

また、釜茹での刑(実際には釜揚げの刑)にされたのは1594年の10月8日とされている。一般には釜茹での刑とされているが、実際には煮えたぎる油の中へ放り込まれたとされている。京都三条河原は何度か言ったことがあるが、この地でこの処刑が行われたことは、普段釣った魚を唐揚げにしている身としては五右衛門の顔とカサゴの顔がダブって複雑な思いがよぎる。信長の残忍さは有名であるが、秀吉も負けてはいない。
石川五右衛門は安土桃山時代の盗賊であるが、伊賀の抜け人であったとか,30人力の熊のような体躯であったとか、少年の頃にすでに盗みを働いて人殺しを働き始めた、などのことが語られているが、しかし、歴史に残る記録ではこれらについて正式に語られた文書は存在せず、いずれも真実とはいいがたい面がある。処刑のとき以外ではフィクションが大半と見るべきであろうか。おそらくは悪逆非道な盗賊ではあるけれども、義賊的な一面があって、それが後年歌舞伎や浄瑠璃で誇大的に語られるようになったのであろうともいわれている。いつの時代も善と悪は紙一重。巨悪は善に通じ、巨欲は無欲に通じるとは誰かが言った言葉であるが、、、、。釜の中で詠んだという有名な辞世の句「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」も本当かな?

2009年7月1日水曜日

政権交代の足音が聞こえてくる


戦後、そして冷戦構造下の日本において、半世紀もの間自民党の一党独裁体制が続いてきたが、権力を手中に納め続ければ、いずれそれは腐敗していき時代への適応力を失っていくことは、歴史が証明している。また、一つの勢力が権力の座に長くあると、行政や既得権益を持った団体や事業者との間に癒着関係が生じる。やがてその癒着の構造が必要な改革のさまたげになっていく。そうした人間の不完全さや腐敗や堕落から政治を救い、立法府の暴走や閉塞を防ぐために、政権交代は民主主義のシステムにもともと装備された機能であった。しかも、日本では裁判所とメディアという、本来は権力の暴走をチェックするはずの機関が、ほとんどまともに機能していない。

 政権交代は同時に、政策の転換でもある。欧米ではこれまで、再分配政策の度合いの多寡で、左右の陣営に勢力が分かれ、政権交代を繰り返してきた。平等を重んじ、貧富の差を縮めるために富の再分配を強調するのが左派で、政府の介入の行き過ぎを警戒し、より市場や個人の自由に任せるのが右派という選択が、おおむねどの国にも存在した。
  

自民党内は、小泉改革の評価をめぐり一枚岩ではないが、基本的には自民党の自由主義路線と民主党の再分配路線の対立軸がある程度はっきりと顕在化したため、次の選挙は、壊れかけた日本の社会経済システムをどのような方法で立て直すかをめぐる路線選択の選挙になりそうだ。仮に民主党が政権を取ったとしても、民主党が自らの歴史的役割を正確に認識し、それを確実に実行できなければ、政権交代が自己目的だけに終わってしまうことを、我々国民は注視する必要があると、政治学者山口二郎氏は述べている。


また、より大きな問題は下野した後の自民党が野党に落ちた時、政党のアイデンティティを持ち続けることができるかどうか。また、その場合、自民党の中川秀直氏らが主張する構造改革路線なのか、麻生首相や一部の穏健派が主張する安心・安全、中福祉中負担路線になるのか。自民党が党の力を再結集できるかが問われることになる。以前評論家の田原総一朗氏の講演を聞いた時に彼が中川秀直の力を非常に買っていたことを思い出す。
自民党も客寄せパンダの戯言(総裁候補に指名を条件に出馬要請を受けるなど)が飛び交う事態に、党内はますます収拾がつかなくなっている。首相の地位がこんなに軽々しく見られるのは、その立場を投げ出した、安部、福田に続き軽薄な麻生の自民党三羽ガラスの罪は大きい。もういい加減に有名人や芸人を選挙に担ぎ出すことはやめたほうがいい。そのイージーさが世襲政治をはびこらしていることを国民は知っている。