2009年1月2日金曜日

八百万の神々





今年も初詣は地元の御霊神社から鶴岡八幡宮へハシゴした。どうも正月は神社仏閣に参拝しないと落ち着かない。日本人の特性だろうか?欧米人から見るとどうやら日本人は無宗教の人種に映るらしい。我々は欧米人とは違う神との関わり方を持っており、欧米の宗教であるキリスト教は(God)は唯一の存在である。日本の神はどれもが等しく人々の信仰の対象になりうる。だが日本における信仰の存在は、神社や神棚に祭られている「神」だけではない。仏教の「仏」も同じ次元で信仰されて、土着の信仰が外来の仏教に組み込まる習合もあり、この特異性は明治の神仏分離以後も継承されている。
                                             (鶴岡八幡宮)


日本人は現在でもさまざまな儀式儀礼において各宗教施設に詣でる。まず生まれた時や七五三などは神社に、そして死を迎えた時の葬式は仏式がほとんどである。そして結婚式をキリスト教教会で行うこともある。この無節操な壁のない宗教観こそ日本人の特質ではなかろうか?
我々の身の回りで日本人はあらゆるものに神を見出してきた。住んでいる土地屋敷、先祖、身の回りの物ならなんでも。もちろん商売繁盛の神様[稲荷神社]や七福神、果てや悪さをするカルト宗教など数え上げたらきりがない、まさに八百万の神である。


いずれも自分たちの生活に密着してご利益のあるものが信仰の対象になりうるのである。そこにあるのは深遠な宗教体系に基づくものではない。このことはキリスト教徒やイスラム教徒のように厳格な決めごとに従って生活している人々とは違った位置にいる。 困った時の神頼み、鰯の頭も信心から,家内安全、無病息災、福徳開運、五穀豊穣、大漁祈願等々、日本人の神様に対する祈願は多い。




西洋諸国では中世の500年ほどの間、宗教戦争を繰り返していたが、いわゆる国民国家が形成される過程において、「国は個人の宗教に干渉せず、宗教は政治に介入しない」と言う政教分離が確立された。日本では織田信長によって政治と宗教が結びつくことを禁じた。それは一向一揆との対決や比叡山焼き討ちと言った過激な手段で実現した歴史がある。


オウムの事件があってから、国は宗教に対する警戒心は深まってはいるが、創価学会を有する公明党には、連立政権党でもあることからその目も濁りがちである。また過去にたびたび政教一致が取り沙汰され、世の批判を受けてきたこの公明党と自民党の関係も、昨今の政治事情から隙間風が吹いていることは否めない。




現在くすぶっている中東戦争の序曲であるイスラエルとハマスの紛争は、もともとエルサレムにいたユダヤ人と入植者のパレスチナ人との領土争いである。その根底には迫害と受難の歴史を持つユダヤとアラブとの長い闘争がある。


いわゆるユダヤ民族の起源は、紀元前二十世紀にさかのぼる。当時彼らは、カナン(後のパレスチナの地にあったが、その後、飢饉に襲われたことから、エジプトに移住し、奴隷、賎民として徹底した差別を受けやがてエジプトを脱出する。これが、かのモーゼ率いる「出エジプト」である。


 再び、カナンに集った彼らは、ユダヤ教の教えに基づいた統一国家を樹立したが、やがてアッシリアやバビロンに征服され各地に雲散してしまった。こうして流浪と離散の民族がイスラエルを建国するまでの歴史が続く。1948年のイスラエル建国まで、ユダヤ人国家というものは一度も成立することはなかったのである。

いずれにせよ今問題の世界の弾薬庫である中東は、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教が混在している所で、今後とも紛争は収まりそうにない。

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