2015年10月9日金曜日

日本人の美学


美学という言葉がある。アカデミックにとらえれば美術の系譜を歴史的に研究したり、美の本質あるいは美の価値などを研究したりして、西洋では一貫した哲学の体系として思索の対象になっていたが、日本語の「美学」は、本来の意味から転じて美意識としてのいき、わび、さびなどが古来存在していて情緒的である。

美学が何を美しいと感じ取るかは、その受け取り方は人によって異なることになり、個人的な嗜好に陥りがちであるが、そこに時代背景が絡んだ一定の普遍性を醸し出す要素がある。総論でいえば日本人の美学であるが、男社会に象徴されるように男の美学というのなら男にしかない価値を語るということになり、限りなく女性を意識しながら語ることであると思われる。
男の器 潔さ 自分なりの基準やこだわり、ストイックさ 自制抑制のきいた行動  精神のダンディズム 自分なりのポリシー  男の粋と伊達などの言葉が浮かんでくる。何を持って美しいと言うかは人それぞれの価値観でもあるが、つまるところ、これを守らないと、自分の中で自分を男として認められなくなるというのが男の美学でもある。死に目覚め生に目覚めた時、人は人生思いっきり、生きる、男としてやりたい事をやり通し、悔いのない人生を生きる、それが男の美学だろう。

梅原猛は、日本人の価値観の基本は美意識にあると言った。(「美と宗教の発見」梅原猛著
綺麗な生き方をしようとしている人間が少なくなった。特に、日本の政治家の生き様から美しさがなくなりつつある。美しさは、潔さにも繋がる。花は桜木、人は武士といった美意識がなくなってきたのである。その結果、美学が廃れつつあるのである。

美は、外見に現れる。美は形である。美を追い求めれば、形式に至る。
美の基準は外形である。むろん、外見の裏には内面がある。しかし、美の本質は姿形、外に表れた象である。形からその内面を伺い知るのである。
普通、美しい、という表現は、多く外観に対し用いられるが、「美学」という表現には、むしろ外観的な要素はなく内面的な要素に集約される。



織田長益像(正伝永源院蔵)


史実によると、桃山時代から江戸時代にかけての茶人織田有楽斎は当初織田長益(ながます)と名乗っていた。織田信長とは13、歳が離れてはいたが、信長の実弟であり本能寺の変の時は、信長の長男信忠の旗下にあった。信長討たれる、の報に接すると信忠に自害を進言し、切腹させ自分は逃げてしまった武将である。
当然、世間からはもの笑いの種とされた。だが信長の実弟として天下を取ろうなどと、奮起する気配は一向に見えなかった。その後、いくつかの戦いを経験するが生き伸び、信長の後継者となることを捨て、僅か3000石の大名となり、政治向きから遠ざかり千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられ、後には自ら茶道有楽流を創始した。織田有楽斎と名乗り、野心を捨てた茶人として豊臣、徳川に仕え、75歳の天寿を全うした人物である。
花は桜木 人は武士、と言われるように、潔(いさぎよ)い生き方とは正反対の生き方をしたこの御仁、有楽斎は現在の東京有楽町の名の由来とされる俗説もあるが、歴史の裏に潜んだ人生いろいろである。




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