ルネマグリット 白紙委任状 |
ルネ・マグリッド(1898~1967)は、私の好きなベルギーの画家でシュール・レアリスムを代表する画家でもある。
マグリッドの絵は、筆の跡をほとんど残さない古典的ともいえる描き方で丁寧に描かれているが、絵に表現されているのは、「空中に浮かぶ岩」・「鳥の形に切り抜かれた空」など現実では考えられない不思議なイメージで、本人の言葉によれば表現とは「目に見える思考」だそうだ。
「言葉とイメージ」を追求したマグリットの作品は、その後20世紀の商業広告やグラフィックアートの世界にも大きな影響を与え、そのエスプリは現代に生きている。
彼の制作手法は、日本文化の見立て(みたて)に通じるところがある。それはある物の様子から、それとは別のものの様子を見て取ることで、その別の物で対象物を表現する便法である。
「見立て」は絵や彫刻をはじめ、和歌、歌舞伎、茶の湯、活花、造園など、我国において芸術創作の重要な要素になっている。、定義においては「見立て」は「模造再現」のカテゴリーに入るのであろう。
利休 釣瓶水指 |
「見立て」という言葉は、「物を本来のあるべき姿ではなく、別の物として見る」という物の見方で、本来茶の湯の道具でなかった品々を茶の湯の道具として「見立て」て、茶の湯の世界に取り込む工夫をしたのが利休であった。
利休は、この文芸の精神であった「見立て」の心を大いに生かして、日常の生活用品を茶道具に採り入れた。たとえば、水筒として使われていた瓢箪を切り、花入として用いたり、井戸の釣瓶を水差しにしたり、船に乗るために出入りする潜り口を茶室のにじり口に採り入れたりした。
話は変わるが、この見立てが単なるイマジネーションに終わっていないのが、人類の発明した紙幣である。ユダヤ人の発明した紙幣を絶対的な価値のある金(きん)に見立て今日の世界に普遍させたのが最大の見立てである。この現実世界で寄る辺ないひと握りの人種(ユダヤ人)が、長い歴史の中で築き上げた金融システムも見立ての舞台で世界を縦横無尽に支配している。
ソフトバンクCM |
一方で、見立ては一種の言葉遊びとしてもよく見られ、比喩遊びとも言う。比喩は直喩(ちょくゆ)暗喩(あんゆ)擬人法の三つがある。日本では文人の遊びとして、ひとつの流れを作っており、芸術表現としても和歌、俳諧、戯作、歌舞伎などで広く見られる。
芭蕉の句、奥の細道の「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」これなどは暗喩である。身近なたとえで言うと、母は太陽のように明るい。などは直喩になる。また擬人法になるとTVのCMでお馴染みの、ソフトバンクの犬(我が家の主)などがある。ソフトバンクの監督だった,ワンちゃんと言われた王を使わず、本物の犬を使ったところに、ソフトバンクのこだわりがあったのではないかと想像を巡らしてみたりする。
柳家小さん 時蕎麦 |
寅さん |
一方で「地口」(じぐち)と言って、江戸時代の言葉遊びでは「恐れ入谷の鬼子母神」 「驚き桃の木山椒(さんしょ)の木 」など、我々が聞き覚えのあるフレーズがある。最近では、もっとも有名なのが映画の寅さんで日本中が知り得ることとなった。この下衆(げす)な口上。「結構毛だらけ猫灰だらけ ケツの周りはクソだらけ」などは、サブカルチャー的なものとしておなじみであるが、昔、新橋駅前で見た十徳ナイフの 叩き売りをやっていた露天商の口上も負けてはいなかった。疑り深い客に向かって「嘘は泥棒の始まり、屁はクソの始まり」と言ってのけた具合だ。
モノマネ、形態模写、声真似、顔真似など、真似モノ。ピン芸なんていわれて、いまひとつ知的な高評価を受けていない気がするが、これらも広い意味での見立てになるだろう。
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