2013年3月7日木曜日

アートな話「芸術とパトロン」


現在神奈川県立歴史博物館で鎌倉彫の特別展が3月23日まで開催されている。鎌倉彫の歴史的な流れが展示作品や資料によって理解を深める構成になっており、鎌倉の移り変わりや鎌倉ゆかりの文化人と鎌倉彫の接点も紹介しており、見ごたえのある展覧会だった。 

さて近代鎌倉彫に関連して時代背景をたどれば、明治元年(1868)明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図した。一部の国学者主導のもと、仏教は外来の宗教であるとして、それまでさまざまな特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。僧侶の下に置かれていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。
神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまった。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などを急激に実施したために混乱した。明治4年(1871年)ごろ終熄した(ウィキペディア)


神仏分離令が発令され、廃仏毀釈運動により寺の衰退が進み、従来の寺の仕事(造仏、寺の装飾、調度品など)を生業としていた仏師は大きなパトロンを失うことになる。そしてそれらの仏師たちが活路を見出したのがそれらの技術を生かした鎌倉仏師の後藤、三橋両家が始めた日用品や茶道具としての鎌倉彫であった。そしてその鎌倉彫は皇族や一部資産家らの特権階級から手を離れ、戦後の高度成長に支えられた中産階級に普及し、身近な工芸品として今日に至っている。

古今東西、画家や彫刻家は時の権力者である宮廷のお抱えで生計を立てていた。わが国では絵画や工芸品(襖絵、蒔絵など)は時代を遡ること奈良や平安時代から貴族や時の権力者によって保護育成されていた。一方宗教的な関わりで言えば、寺の造仏や装飾を担っていたのが仏師たちである.
飛鳥時代から連綿と続く仏師は、朝鮮半島や中国大陸から来たお坊さん達で、仏像造りの技術を日本に伝えた。飛鳥時代の有名な仏師 止利仏師(鞍作止利)の祖父も中国からの渡来人である。
やがて 仏教により国を統一する鎮護国家を朝廷が目指したことから、仏師は国家プロジェクトの中心部に絡んでいた。さらに、当時の最先端の特殊な技術を駆使するため、地位や待遇が、他の工人より優遇されていた。やがてそれら渡来人の子孫や弟子から、運慶,快慶などの名工が誕生し仏教文化の担い手である彼らを支えていたのが多くの寺院であった。このように宗教と芸術は密接な関係に有り、それは西洋においても同じことが言える。

教王ユリウス2世      ロレンッオ・デ・メデチ

西洋における宗教画やキリストの像などを制作した芸術家のパトロンは教会であり中世のダ.ビンチ、ミケランジェロ、ラファエルロなどの宮廷人芸術家たちは教皇ユリウスの庇護の下、旺盛な芸術活動を展開していた。15世紀のフィレンツエでは教会堂の装飾や祭壇画の制作(宗教芸術)が、その後資本主義の発達とともに勃興してきたメデチ家(商人や銀行家)などによって支えられてきた。王侯貴族や教会がパトロンであったルネサンスから、市民階級が展覧会に出品される作品の「買い手」として新しいパトロンとなる19世紀をへて、現代は宗教的な背景はなくなり、多様化するパトロン活動が政府や地方自治体の公的資金を用いて、芸術活動支援があらゆるアートで展開しているが、都市の公共空間を芸術作品で飾り、一般市民が日常生活の中で芸術に接する環境を創り出す、いわば美術館や画廊から芸術が街に出て行った状況をパブリックアートが作り出している。

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