2012年9月22日土曜日

衰退する世界の工場

日系企業への放火と略奪

中国には「星星(せいせい)の火 以(もっ)て野を焼くべし」という諺がある。
 意味は小さな火であっても、それはやがて野一面を焼き尽くす炎となす。ということであるが、何か今の中国の世相を表しているようではないか。

日本政府が11日に沖縄県・尖閣諸島の国有化を決定してから初の週末となった15日、領有権を主張する中国の反日デモが50都市以上に拡大し、計8万人以上が参加した。 一部では暴動化。日本企業に対する破壊、放火、略奪と民度の低いおぞましい光景があらゆるメディアで世界中に報じられた。
17日付けの大紀元日本では、今回のデモが現役の警察官や軍人たちが加わった計画的なデモである可能性が大ききことを伝えている。 現役の私服警察官が各地のデモの先頭に立ってスローガンを叫んだり、群衆を扇動し暴徒化させているのが写真に映り出されているのだから語るに落ちたとはこのことである。後日当局から金をもらってデモに参加した若者の証言もあり、国家権力の仕掛け人に操られる不満分子の群衆の姿がそこにあった。
今回の反日デモは決して領土の主権など表層的な問題だけではなく、党内闘争や国民の独裁政権への不満などさまざまな要因が混じっており、きわめて複雑で混沌たる情勢である事が伺える。

<大紀元>によると中国当局は反日行動を野放しにし、お墨付きまで与えている。中国外務省の洪磊副報道局長は13日の記者会見で、「中国全土が日本の誤った行動に憤りをたぎらせ、政府による正義の要求や対抗措置を支持している」と発言。商務省の姜増偉次官も日本製品ボイコットについて「中国の消費者の権利」と容認した。中国政府の動きは経済格差や深刻化する失業問題や就職難などによる民衆の不満が爆発して政府にその鬱憤が向くのを恐れ、反日運動を扇動することで民衆のガス抜き(ベント)をしている」と分析している。


この二十数年来、中国の経済成長をひっぱってきたのは外資と安価な労働力である。大量の外資を導入し、安価な労働力で安価な製品を生産し、それを海外に輸出する。日本の高度成長期と、中国の経済の高度経済成長は性格が大きく異なっている。日本の経済成長の原動力であった製造業は、質の高い製品を生産し、海外に輸出することによって日本経済を支えてきた。中国の場合、高度な技術など存在せず、ただひたすら豊富な労働力によって安い製品を大量生産し続けてきただけである。

ここ1~2年で「世界の工場」とされた中国から企業の撤退や事業縮小が加速化している。背景にあるのは人件費の高騰が大きいが、中国独自のさまざまな規制や参入障壁、参入後の競争の激化に知的財産権の問題なども背景にある。
特に欧米のグローバル企業の撤退も目立ち、とくに米国が生産基地としての中国に見切りをつけ始めた。統計によると昨年、米国からの対中直接投資は、前年比21.5%減である。理由は、いわずと知れた中国の大幅賃上げである。人件費コストの安さだけが中国の魅力でそれが一挙に消え失せ始め、ドライな米国製造業は米国へ回帰していく。

中国は今後、所得倍増計画?どこかで聞いたような言葉(笑い)で年間13%以上も最低賃金を引き上げてきた。所得格差の拡大を是正すべく、膨大な数の底辺層の賃金引上げをはかる目的である。このため中国労働者の賃金は5年前の2倍になった。 人件費の底上げによる上昇で企業の輸出競争力は落ち、インフレが激しくなった。 賃金を大きく上げたのは、社会的な不満を眠らせるためだ。これは、予想通り裏目に出てきた。人件費アップがコスト増を招くからである。中国は大幅賃上げがもたらすマイナス面について、楽観視していたようだ。少々の人件費が上がったところで、中国は他の周辺国に比べて、製造業に不可欠な部品製造などのインフラが整っていることや人民元の為替操作などでタカをくくっていたが、米国企業が「本国帰還」の動きを強めていることには心中穏やかではないだろう。

いつまでも中国の「独り勝ち」という構図が続くわけがない。。12年に入ってから中国政府は最低賃金を平均10%以上、内陸部では20%以上上げた。これは労働者の権利意識の高揚で、ついに最後のよりどころである低賃金を改善せざるを得なくなったからだ。すでに低付加価値製品の工場はベトナム、カンボジア、インドネシア、バングラデシュなどに流れているが、
中国に進出している企業の大半が「中国の人件費は上昇し続ける」とみており、さらに日本や欧州といった先進国と比べても米国の人件費は安くなりつつあることも見越して、ゼネラル・エレクトリック(GE)はこれまでメキシコと中国にあった家電の製造拠点をケンタッキー州に戻した。競争力のある製造拠点を米国に置くことで、向こう10年間で最大300万人の雇用創出が見込めるとしている。
 日本でも人件費高騰による中国からの撤退・事業縮小の動きは、すでに各企業で起こっている。こうした世界の脱中国の動きは、中国の雇用の喪失と大量の失業問題を顕在化させ、おりからのバブル崩壊と経済の失速とともに社会不安から内乱につながる危険性を孕んでいる。

 近年、目覚しい経済発展を遂げた中国は、家電など多くの分野で世界最大の生産拠点として台頭してきたが、その急速な発展が独自に進行したのではなく、海外からの製造機能と技術の移転に依存して進められてきたのである。そして、対中直接投資の展開を通じて、外資系企業の優れた生産技術と経営管理技術が幅広く現地企業と関連産業に移転・波及するという形態を採ってきた。
日中間の経済関係はこの二十数年間にわたって年々深まっており、中国を抜きに日本経済を考えることは不可能になっている。中国の経済発展にとっても、日本が蓄積してきた技術力や発展経験などは重要なものであり、日本からの経済協力と技術移転が依然として期待されている。しかし両国の経済関係には多くの不確実性があり、また競合する面も少なくないが依然として相互依存関係にある。また、中国が日本企業の主たる投資先となる時代はいつまで続くかわからないが、今回の暴動のように中国での事業展開には様々な「チャイナリスク」が考えられるが、「政冷経熱」といわれる日中関係の現状も潜在的な進出リスクとして想定される。例えば有事における日系企業の工場の差し押さえや乗っ取りなど、他人のふんどしで相撲を取るのが得意なこの国のモラルハザードが一番警戒を要するところだろう。とにかく何があっても不思議でないのが中国である。

旧ソ連が崩壊する直前、GDPの70%は軍事産業だった。軍事産業は戦争をしない限りまったく利益を稼げないことから、アメリカとの軍拡競争で旧ソ連は崩壊した。一方、中国の2010年のGDPの60%はコンクリートだ。
リーマンショック以後54兆円に上る経済拡大策をとり、空港、高速鉄道、高速道路、数多くの建物など、各地政府は気が狂ったかのようにGDPの60%の建設土木投資を進めている。それらは全て製造業の税金収入と製造業による外貨の収入で賄われているのだが、そしてその結果日本を上回るバブル経済の崩壊がひたひたと近づいている。

旧ソ連の軍事産業経済を支えたのは石油輸出による石油収入で、原油暴落後これが絶たれた途端に一発でこの国は崩壊した。一方中国のGDPの7割はコンクリートで、同様な収益は稼げない。支えているのは製造業で製造業が倒れたら中国経済はご臨終である。近年軍備拡張に血道を上げている中国は軍事費は年々増加しているが公表されているGDP費2.5%も操作された数字で、実態はすごい数字が隠れているのだろう。アメリカを意識しての軍拡はかつて旧ソ連がたどった崩壊の道を進んでいることになる。驕るな中国!頭を冷やせ!

2012年9月15日土曜日

領有権問題

戦後すぐマッカーサーの招きでやってきたイギリスの歴史家トインビー(1889-1975)は「この国(日本)の経済は20年もすれば回復するが、国民精神の回復には100年を要するだろう」と指摘したそうだ。戦後67年を経てきた今の日本を見ているとその指摘通りになっている。冷戦後の日本を取り巻く国際環境は激動の中に有り、2極に躍り出た中国とそれに連動してロシア、韓国と各々が領土問題で我が国に対峙してきた。
日本政府は竹島にせよ尖閣諸島にせよ、国内外に我が国固有の領土であることを知らしめる発信力が弱いのが気にかかる。各メディアで論じられてる領有権問題を整理してみると、


<竹島>
日本では明治政府が1905年に竹島を島根県に編入し、竹島の領有を宣言したことから日本の領土になった。 これは国際法的にも認められている。
 ところが敗戦後の1952年、、サンフランシスコ講和条約によって確定する日本の領土に竹島が含まれていることを知った韓国が、1952年、条約締結直前に当時の韓国大統領李承晩が発した「海洋主権宣言」により、韓国周辺の公海上に勝手に設定した海域線内に含ませたこと(李承晩ライン)により竹島を占拠し,以後実行支配が続いている。また韓国はこの行動を起こす前の講和条約締結にあたって対馬を韓国領とするよう米国に働きかけたが、米国は取り合わなかったため、次に竹島を要求した。
しかし、当時のラスク米国国務次官はその要求も「古来日本が領土としており、韓国が竹島領有を主張していた事実はない」と受け付けなかったため、「海洋主権宣言」すなわち「李承晩ライン」なるものをサンフランシスコ講和条約締結前に「火事場泥棒のごとく」設定したのである。

そして 1965年に日韓基本条約が締結されるまでに「李承晩ライン」を 日本の漁船が越えて侵入したという理由で、328隻が拿捕、3929人が抑留され44人が負傷、うち5人が亡くなっているにもかかわらず、日本は韓国に対して何も言えなかった歴史がある。


<尖閣諸島>
一方中国は尖閣諸島を正式に支配したことがない。 しかし、尖閣諸島の歴史は曖昧で最古の記録では、尖閣諸島は琉球王国のすぐ隣、中国の領土内にある島として、その名前がひっそりと現れる。その琉球王国は1870年代に日本に吸収されて沖縄と改称された。
 1895年、日本は尖閣諸島を無人島であるだけでなく,清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上沖縄に編入した。1945年、日本が第2次世界大戦に敗北すると、米国が尖閣諸島を含む沖縄の統治権を取得した。
1951年に締結された日米間の講和条約、さらには1972年に沖縄を日本に返還するとの合意文書においても、尖閣諸島の主権は曖昧なまま放置された(台湾もこの島の領有権を主張している)。米国は当事者間で友好的に解決すべきとの立場を取っている。

 政府は尖閣諸島について「日本固有の領土であることは歴史的にも国際法上も明らかであり、現にわが国はこれを有効に支配している。解決しなければならない領有権の問題はそもそも存在しない」との立場だ。各メディアの論調を整理してみると、

 その第1の根拠は「1885(明治18)年から日本政府が現地調査を行い、尖閣諸島が無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で、95(同28)年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行って、正式に日本の領土に編入した」(政府見解)ことだ。
 政府はこれは国際法上の「先占」にあたるとしている。先占とは「いずれの国家にも属していない地域を領有の意思をもって実効的に占有すること」で、国際法では国家が領有権を取得する方式として割譲や併合などとともに認められている。
その後、政府は明治29年9月、尖閣で事業を展開していた実業家の古賀辰四郎氏に魚釣島など4島の30年間無償貸与を決定。辰四郎氏は尖閣諸島に移民を送り、鳥毛の採集やかつお節の製造などを行った。大正7年に辰四郎氏が死去した後は息子の善次氏が事業を継続、昭和7年には4島が有償で払い下げられた。昭和15年に善次氏が事業継続を断念し、無人島となったが、政府はこの間の事実をもって「日本の有効な支配を示すもの」としている。

第2の根拠としているのが第2次大戦後、1951(昭和26)年に締結、翌年発効したサンフランシスコ講和条約だ。同条約第2条には、日本が日清戦争で清から割譲を受けた台湾と澎湖諸島を放棄すること、第3条には北緯29度以南の南西諸島などは日本の主権を残して米国の施政下に置くことが明記された。
 政府はこれに関し、尖閣諸島は「日清戦争で割譲を受けた台湾と澎湖諸島には含まれていない」とし、「歴史的に一貫して南西諸島の一部を構成している」との見解だ。米国の施政下でも琉球列島米国民政府や琉球政府によって、標杭や領域表示板の建設など実効支配が継続された。
 その後、尖閣諸島は1971(同46)年に署名、翌年発効した日米両国の沖縄返還協定に伴い、日本に返還されたが、政府は同協定第2条から「返還された地域に尖閣諸島が含まれている」としている。その後、現在に至るまで政府は「尖閣諸島は日本が有効に支配しており、日本固有の領土」との立場だ。

中国の主張
1)明代の歴史文献に釣魚島(魚釣島)が登場しており、琉球国には属しておらず、中国の領土だった。
(反論)明から1561年に琉球へ派遣された使節が皇帝に提出した上奏文に、尖閣諸島の大正島が「琉球」と明記されていた

2)日清戦争(1894~95年)に乗じて日本が不当に尖閣諸島を奪った
日清戦争で日本は、台湾とその付属島嶼(とうしょ)澎湖(ほうこ)列島などを中国から不当に割譲させて、中国への侵略の一歩をすすめた。
(反論)日本による尖閣諸島の領有は、日清戦争による台湾・澎湖列島の割譲という侵略主義、領土拡張主義とは性格がまったく異なる、正当な行為であった
 3)中国はサンフランシスコ平和条約に関与していないため、そこで決定されたことをを認めないとの立場。
(反論)第二次世界大戦の戦後処理は妥当なものであり、尖閣諸島は1895年1月14日の編入以来一貫して日本が統治し続けてきた固有の領土であって、このことは国際社会からも認められている
出典尖閣諸島問題 - Wikipedia

竹島や尖閣をアメリカが「日米安保の対象地域」と発言しても、国益にならない領土問題にアメリカが介入する事はない。つまり領土問題は日本が独力で解決する以外に方法はないのである。国も個人も利によって動くのが慣いであるならば、今一度日本の自立とは何か、安全保障とは何かを考える時期が来ているように思う。

2012年9月6日木曜日

アートな話「指物」

2段重「渓流」吉川創雲 右は一杯に広げたところ


今月10日まで開かれている鎌倉彫喜彫会展で出品している私の最新作は2段重「渓流」。指物で木地制作を行い彫りを入れ漆を塗って仕上げた作品であるが、上下2段の料理箱が蝶番によって交差して広がる仕掛けになっている。
指物とはその歴史は古く平安時代から貴族から需要のあった家具、調度品、などを専門の職人によって作られたものであるが、室町時代に入って本格的に普及し、京都では京指物、江戸時代の江戸では江戸指物として盛んに作られた技法や製品の総称である。
厳選された材料と、それを仕上げる数々の道具と職人の腕に支えられて今日までその伝統は受け継がれている。

指物作品
私の場合正式に師匠に師事した事もなく独学で覚えたものであるが、指物で最低限必要な道具は下の写真のように作業台に乗っているものである。これらの道具をざっと列記してみると、上から鋸2種、ハタガネ2種、仕上げ砥石、溝鉋、際鉋,荒シコ、中シコ、上シコ、削り台、金槌、ノミ2種、留定規 ノギス、直角定規、指金、定規、万力である。
指物の難しいところは箱物の45度の合わせ目がコンマ何ミリの誤差で、ぴたりと合わなくなるので面作りが一番神経を使うところで、作品の出来具合を左右する。
仕事場の作業台