2012年8月26日日曜日

日本が試されている

クリス.ヘッジズ 著

世界における国の基盤の3本柱は、経済 外交 軍事であり、これらを統治するのが政治であることは言うまでもない。
戦争から目をそむけてはならない、それを怖れなければならない。2002年度ピューリッツァ賞を受賞した『ニューヨーク・タイムズ』の記者が書いた本「本当の戦争」は、15年間戦場特派員として体験した、戦場のすさまじい姿を伝えるQ&A集。 「人類の歴史は、おおよそ3400年余であるが、その間、世界が平和であったのは300年足らずだと言われている、世界のどこかで戦争が繰り広げられ、わずかな期間が平和であったことになる。」いわば人類の宿命のような戦争の話が淡々と書かれている。

第二次世界大戦で死んだ、世界の軍人、民間人の総数は概算で5000万人とも言われており、実数は不明である。大東亜戦争では、日本軍は将兵だけで150万7000名が殺されたそうだ。オランダの法学者で、「国際法の父」、と呼ばれるグロティウスも、その主著『戦争と平和の法』において「平和とは単に戦争の前ないし後を意味するに過ぎない」と述べている。世界の歴史が勝者によって作られてきたことも事実であり、日本は戦争に負けたことも厳然たる事実である。



国後島訪問のメド、尖閣上陸の中国活動家、政権末期の李 明博の最後っ屁
最近の我が国を取り巻く中、韓、露の申し合わせたような領土主張も、国力、政治力の落ちた我が国を見透かしての行動と見て取れるだろう。韓国大統領の言動も日本を完全に舐めきっているとしか思えない。また中国による南シナ海南沙諸島を例に取ると、(1)自国領であるとの領有宣言を行い、(2)海洋調査船や漁業監視船などによる既成事実化の行動を積み重ね、(3)漁民等を上陸させた後、(4)軍事力を直接行使して、(5)実効支配を確立するという手順で、段階的に占領支配を拡大するパターンを採っている。

我が国の尖閣諸島に対する中国の行動は、既成事実化の行動を積み重ねる第2段階に入っており、まもなく漁民などによる上陸の第3段階にエスカレートするだろうが、かろうじてアメリカのリップサービスで「尖閣諸島問題は日米安全保障条約第5条が適用される」と改めてキャンベル米国務次官補が言明したことから、中国は過激な行動には出ていないが、日米同盟の隙を見て虎視眈々と狙っていることには変わりがない。

過去の局面で明らかなように威圧的経済報復は中国の常套手段である。例えばレアーアースの対日輸出停止、南沙諸島がらみのフィリピンバナナの輸入削減、、はたまたノーベル平和賞に絡んでのノルウエー鮭の輸入削減など。直近ではASEAN会議の共同声明破棄に至る経済圧力をカンボジアにかけたことなどの政治的制裁を、経済環境を利用して行っている中国に対して、我が国は、60年余にわたる戦後体制の継続とその拘束によって、21世紀の激動・激変する内外情勢にまともに適応できない閉塞状況に陥っている。

アメリカに押し付けられた現行憲法がある以上、平和主義も、経済至上主義も、「自分の国は自分の力で守る」最低限の防衛努力を怠避する日米安保中心主義も、元を正せば、現行憲法を中心とする我が国の戦後体制によって歪められてきた日本人の精神性に係わる問題にたどり着く。
その根本的解決には、何よりも、時代にそぐわない、とっくに消費期限切れになった現行憲法を一から見直す必要があり、国防力の増強は最大の課題で、時の政府は憲法改定のための環境作りを持続させる努力が必要であるだろう。

2012年8月18日土曜日

アートな話「蒔絵と鎌倉彫」

小箱(水辺)2010 花器(秋)2012 吉川洛芳  

わが家では、カミさんも私も鎌倉彫の制作を始めて約30年になるが、カミさんは漆芸作家山口和子氏に師事して7年ほどになる。鎌倉彫をやる傍ら蒔絵の技術を磨いているところだ。上の写真は2点とも鎌倉彫と蒔絵のコラボレーションを意図した作品である。
左は平蒔絵と螺鈿を施した小箱、右は螺鈿と金箔を施した花器で、両作品とも非常に繊細緻密で根を詰めた作業が要求され、私などはこのような繊細さは持ち合わせておらず、傍らで息を詰めた作業を見ていると、鎌倉彫のおおらかさが自分には体質的にも合っていると思う。
(右の作品は来る9月1日から10日まで鎌倉彫会館で催される<喜彫会展>で出品予定の新作)

漆芸の世界では蒔絵という大きな領域があり、私が携わっている鎌倉彫は全国漆器産地のなかでは異端で、彫刻を主体にした数少ない漆芸分野でもある。
その歴史を比べると蒔絵は、古代中国で漆で模様を描き金粉等を撒いて表現する「平文(ひょうもん)・螺鈿(らでん)」等が考案され、奈良時代付近に日本に伝わり中国とは違う日本独自の『蒔絵』と呼ばれる技術が発達し、現在に伝わる漆塗りで、漆器産地の大勢を占める伝統工芸となった。
一方鎌倉彫は蒔絵に遅れること約500年後の鎌倉時代に中国から伝わった堆朱から木彫彩漆という日本独特の手法に変容し今日に至っている。

マリーアントワネットの蒔絵コレクション 17C
奈良時代に始まり日本で独自の発展を遂げて来た蒔絵芸術は、江戸時代に完成され頂点を 迎えた。当時のパトロンであった大名たちは、名工を抱えることが一つのステータスであり、金と時間に糸目をつけず、調度品ははもとより建築装飾に至るまで蒔絵が普及し、貴族趣味に支えられて職人たちは腕を競い合い多くの名工が誕生して行った。 現在残る多くの名品や国宝は、庶民とかけ離れた贅の下で作られて行ったものが殆んどである。
一方鎌倉彫は寺社などをパトロンに持ち、主に仏師の技として寺社の造仏や修復さらに調度品に至るのだが、やがて明治維新後の廃仏毀釈の時流からパトロンを失い、大衆受けする一般的な生活調度品として普及していった。

戦後の高度経済成長期が終わり、生活様式の変化から漆工品の需要も各生産地同様に減少し、今後の伝統産業の新たな道の開拓が求められている。日本の”もの作り”技術は世界でもトップクラスで大きな信頼を得ている。 精密機器や繊細な工芸分野での進出は、海外でも大いに期待できると思うが、高価な日本の漆製品は言うほど海外に浸透しておらず、富裕層をターゲットにしたところで、漆器全体の需要量の2~3%ぐらいしか輸出統計には乗っていないのが現状だ。
桃山時代以降多くのヨーロッパ人(とりわけ王侯貴族)を魅了した「蒔絵」を海外に渡った過去の輸出品として我々は知るところである。写真はかのマリーアントワネットが所蔵していたコレクションの一つで17世紀に作られた<蒔絵水差し1対>である。
メガネと蒔絵 吉川洛芳

蒔絵は漆工芸の加飾の一技法。 漆で文様を描き、乾かぬうちに金属粉(金、銀、錫など)や顔料の粉(色粉)を蒔き、固着 させて造形する技法。
基本的には平(ひら)蒔絵、研出(とぎだし)蒔絵、高(たか)蒔絵の3種類に分けられるが、 これの応用技法も多い。 普通は漆面に施すが、時には木地(じ)に直接施すこともあり、また螺鈿(らでん)や切金 きりかね)を組み合わせることもある。 蒔絵は日本の歴史とともに技術の発展を遂げた最も日本的芸術であり、漆(japan)と呼 ばれるように世界で唯一の工芸技法である。 「蒔絵」は”世界のブランド”に最も近い位置にいる。 また蒔絵は日本の工芸技法”東洋の美”として世界から注目され、 腕時計や万年筆のブランドメーカーとのコラボレーションなども盛んになってきている。 写真は最近カミさんが兄弟のために制作したもので、既製のメガネフレームに蒔絵を施した。

漆は天然の最高の接着剤と言われ、陶器等の破損・修理などにも広く使用されている。 粘着性が強いため蒔絵筆には細くて腰の強いネズミの脇毛が良いとされ、中でも船 ネズミが最高と言われてきた。余り動き回らないので毛の傷みが少なく、海上生活なので空気中に塩分が含まれて いるのが良いらしい。
 近年、船も清潔になりネズミが少なくなった事が、良質の筆を作れなくなった原因 になっている。一般の漆刷毛には女性の髪が使用されるが、現代のほとんどの女性は髪を染めたり、 パーマやドライヤーを使用する為良質の黒髪の調達も難しくなっているのが現状らしい。

かけがえのない日本の伝統の美を後世に伝えるため、コスト削減の価格競争に翻弄されることなく、独自の完成された技術に裏打ちされた高級品を目指すのが王道であろう。



2012年8月11日土曜日

海の歳時記

鬼カサゴ(10年で30cmと成長が遅い)
8月に入ると必ずやる釣り物に鬼カサゴがある。顔を見るとお世辞にも良い顔とは言えない。どこかの幹事長よりも悪相で醜悪な面構えである。人間にはある年代になったら自分の顔に責任を持てという言葉があるが、こいつは小さくてもえぐい顔をしていて1年生きようが10年生きようがその面構えは変わらない。さらに悪いことにそのヒレは猛毒を持っている。
スコーピオンフィッシュ(サソリ魚)と英語では呼ばれているように背ビレ、腹ビレ、尻ビレなどに猛毒を持っているが、この魚は普通の魚屋では見られない超高級魚で味は折り紙つきの極上の味なので釣り人を夢中にさせる。100M~200M位の深海に生息し1年にたった100グラムほどしか成長できず猛毒を持つ数本の背鰭で外敵から身を守り20年以上も生き延びる、そして釣り上げられても、水圧の変化にもビクともせず、まな板の上でも動きを見せる強靭な生命力の持ち主だ。臆病は野生の知恵と言われるように、この魚も神経質で警戒心が強いのでばらすことも多い。成長が極端に遅いので21cm以下はどの船宿も放流を求めてくる。


さて釣友3人と腰越から出船したのだが、そのうちの一人は鬼カサゴ釣りは初めてで、背びれには触らぬよう注意したのだったが、3匹目を釣った時に針を外している最中に魚が跳ねて運悪く手の甲にとげが刺さってしまった。
刺された右手 パンパンに腫れている
刺されるとこれまでに体験したことのない激痛が走るそうで。船長は傷口から血を吸い出せと激励し、けして冷やすなと言っていた。本人も血だらけの手に向かって懸命に血を吸っては吐き出していた。普段は饒舌な彼もひたすら無口に激痛に耐え忍んでいた。一説ではオニカサゴ毒の強さはハブ毒のなんと18倍もの強さもあり、毒量は極めて微量のために致命率は極めて低く、タンパク毒(ハチの強力なもの)のため50度ほどの温度で無毒化し拡散しないようだ。ただ魚は死んでも毒は健在で調理も慎重にヒレをとってからでないと痛い目にあう。
その後納竿までの3時間ひたすら激痛に耐え、本人は釣りどころではなかったようである。後日調べたところ、塩野義製薬から出ている「リンデロンVG軟膏」が患部に塗って早くて10分、遅くて1時間で痛みがなくなるようである。
オコゼ (こいつはひでえー顔だ!)

<オコゼの毒>
オコゼもすこぶる旨い魚で、顔はもとよりその風貌は海のホームレス(一昔前の)とでも言おうか、薄汚い体表に無数のボロ布を着けているようだ。一度日本海から取り寄せたことがあったが、背びれは処理済みで送られた風体をを見たときはこいつが食えるのかと一瞬たじろいだが、刺身、唐揚げは絶品だった。
 

オニオコゼ類の毒腺はカサゴ類のそれよりも遥かに発達しており、毒性も強いのでより要注意である。毒はハブ毒の81倍の強さを持つことが報告されていて。西インド洋でかなりの死亡例があったと言われている。医療事情が悪いことも原因だと考えられるが。刺傷事故が多く危険で有るためオーストラリアでは抗毒素が作られているほどである。
岩のような鬼ダルマオコゼ、魚類最強の毒を持つ

以前沖縄・名護市の海岸でスクーバダイビングの講習中、「オコゼ」に刺されて死亡したという記事もあった。これは背ビレのトゲに猛毒があるオニダルマオコゼでどうやら素足で踏んだらしい。


ゴンズイ

<ゴンズイ>
ナマズの仲間で背鰭と胸鰭には、刺があり、刺されると猛烈に痛いので漁師はあまり相手にはしないようだが、一度東伊豆で食べたゴンズイの蒲焼はうなぎとまではいかないが、脂がのって美味かった記憶がある。堤防などで釣れる魚で、小学生の頃
周りの大人がこいつはヤバイから触るなと聞かされたものだった。毒の強さは猛毒で、大人でもあまりの痛さに真っ青になって病院に駆け込んでくるケースも多いが、冬場の味の良さは意外と知られていないようだ。

悪相、猛毒、美味。なぜか三拍子揃った魚を求めて、今日も釣り場をさまよう馬鹿がいる。

2012年8月7日火曜日

食物連鎖の果て



ブリューゲルの「大きな魚は小さな魚を食う」と題したこの版画は、、当時のフランドル地方でよく知られていたことわざををテーマにした大作で、人間社会の弱肉強食を投影したものだ。
この絵の中心には、巨大な魚が大きな口をあけて、小さな魚を吐き出している。また鎧兜をまとった人物がナイフで大魚の腹を裂くと、中からやはりたくさんの小魚が踊りだしてくる。これは、驕れるものはいつかは自分が迫害される立場に立つということを、図像学的にアピールしているもので
、同じオランダの大画家ヒエロニムス.ボスなどが好んで描いているモチーフの一部でもある。
ところで食物連鎖の頂点に立っている人間が今や、魚にしっぺ返しを食らう状況になっているのが今の日本でもあり、この絵とは真逆のイメージが浮かんでくる。

この6月には神奈川県川崎市川崎区殿町先の多摩川河川敷の土壌から1キログラム当たり約2万7000~2万1000ベクレルの高濃度の放射性セシウムが検出されていたことが分かった。
また京都大学防災研究所のグループは、福島第一原発の事故で関東に降った放射性物質などの調査データを使い、東京湾に流れ込んで海底にたまる放射性セシウムを、事故の10年後まで予測するシミュレーションを行った。
その結果、放射性セシウムの濃度は再来年(2014年)の3月に最も高くなり、荒川の河口付近では、局地的に泥1キログラム当たり4000ベクレルに達すると推定されるようだ。これは、ことし1月に福島第一原発から南に16キロの海底で検出された値とほぼ同じで。再来年の4月以降は、周囲の河川から流れ込む放射性物質が減る一方で、拡散が進むため、濃度は徐々に下がるとしている。

比較的濃度が高くなるとみられる東京湾の北部では、平均すると海底の泥1キログラム当たり300ベクレルから500ベクレル程度と計算されたということだが、根魚はもとより小魚を食すヒラメや川を登るスズキや大型の回遊魚なども影響は出るだろう。江戸前の魚が安心して食えるように、今後2年間は偽りのない検体検査の結果を国や漁業組合に頼ることなく、中立公正なな検査機関が公表してもらいたいものである。