2012年4月23日月曜日

政治一新

ダリ 内乱の予感 1936


鳩山,菅、野田と3代続いた民主党政権も黄昏が近づいてきたようだ。前田国土交通相と 田中防衛相に対するの問責決議案可決は民主党政権で3度目になり、小沢グループの造反や国民新党の内紛も加わり民主党政権の足元が揺らいでいる。
八方美人の野田首相は「党の利益よりも国益が優先される」を繰り返し言っているが、やっていることは真逆で、民主党政権の癒しがたい言行不一致にふりまわされ、、政治は混迷を極めている。そんな折も折、国の不甲斐なさに業を煮やした東京都石原知事が外交音痴で国益を毀損している野田内閣の領土問題に一石を投じた。

歴史の転換期には時の政府の統治能力が劣化し紛争を解決する能力を失った時、政治権力を分有してきた各党派間の権力闘争が激化する。まさに徳川幕藩体制末期から明治維新の時代の様相が重なる。我が国の近代史上、中央政府における権力闘争が全国的規模の内戦に発展したのは倒幕戦争であった。幕末、薩長同盟軍(地方政府軍)は幕府軍(中央政府軍)や佐幕派の欧州列藩同盟軍を撃破した。弱体化した中央政府は台頭する地方政府によって権力を侵奪される。

大阪維新の会、明治維新を彷彿とさせる命名は言えて妙だが(橋下・松井)は、坂本龍馬を意識してか船中八策なるものをぶちあげた。荒唐無稽な夢物語と思われていた「大阪都構想」もわずか数年で実現する見通しである。大阪維新の会は、民主・自民・公明・みんなの党などの既成政党の弱点をついて恫喝し、各党を競わせ、法案提出寸前にこぎつけている。原発再稼働についても民主党の手法を批判し徹底抗戦の構えを崩さない。
報道では13日、大阪維新の会橋下徹代表は「次の衆院選のときに民主党政権には代わってもらう。もう国の統治を民主党に任せることはできない。大阪維新の会松井一郎幹事長は緊急幹部会を招集し、「今のままでは(民主党政権と)全面対決となるであろうが仕方がない」と全員異議なしで橋下徹代表の倒閣宣言を追認する旨の機関決定を行った。いわば地方による中央への下剋上でもある。

一方で東京都石原知事は「尖閣諸島を所有する地権者との間で、尖閣諸島を買い取る合意ができた。売買契約の時期は国の賃貸借契約が切れる来年4月」という。石原都知事は 「尖閣諸島の実効支配を狙って漁船や巡視船を派遣して実効支配の実績を積み重ねている中国の侵略行為に対し、見て見ぬふりに終始する民主党政権(外務省)には任せておけない。東京都が国に代わって領土を保全する捨て石になる。地権者の意思を尊重して、まず東京都が買取り、然る後、国が国有化の意思を固め、実効支配に資する必要な施策をとったならば、所有権を国に移転してもよい」と語った。それに乗じて野田首相も国が買ってもいいと言い出した。だったら最初から言い出すぐらいの覚悟と根回しをしろよと言いたくもなる。

奇しくも二人のポピュリストが起爆剤となり、3代続いた民主党の自己崩壊が進んでいく。次回の衆院選は「民主党対自民・公明両党」という旧来の政権交代の図式にはならないだろう。民主党、自民党、みんなの党、立ち上がれ日本、国民新党等の既成政党の枠組みを超えて政界再編がなされ、現国会議員や元国会議員のみならず、雨後の筍の如く芽生えている全国各地の政治塾の動きも気になるところだ。次回衆院選と来年夏の参院選は我が国の政治を一新する転換点となる予感がするのだが、果たしてどうなることやら。

2012年4月12日木曜日

生き物三様

魚偏に春と書いて鰆(サワラ)が今は旬であるが、思わぬところから現物が届いた。御前崎港春日丸の船長からである。
全長85cmの大物で一本釣りで仕留めたもので、これでも中型で
4年物のオスで立派な白子がぎっしり入っていた。メスはオスよりも大きく体長は1mを超すらしい。寿命はオス6年、メス8年ほどで、人間と同じくメス(失礼)の方が長生きだそうだ。

先月娘が制作したTV番組に出演していただいた春日丸さんからの御好意にに甘えて、早速刺身で頂いたが、味はトロと遜色ない脂ののりで美味かった。、焼いて良しの魚であるが足が速い魚なので、刺身は釣ってから3日以内が食べ時で、日にちが立つと身が柔らかくなる。量が多かったのでご近所や、いつもの居酒屋に配り、食してもらったがいずれも好評だった。私もサワラの刺身は初めてで、焼き魚や加工品しか知らなかったので、今回この魚を再認識した次第である。白子も焼いて見たがこってりコクと脂がのって美味だった。
。鮨ネタとしても最高の部類らしいが、大変身割れしやすいので扱いに技術が必要で ネタとしては歩留まりが悪いので「サワラぬ神に祟り無し」と言われて鮨屋から恐れられているとか・・

魚の旬はいろいろあるが、御前崎と言えば過去に3回ぐらい釣りに行った場所でもあるが、8月にここで釣ったイサキは、ハリス5号で鯛狙いで釣れたもので、旬が終わった産卵後の荒食いで型揃いを70匹ぐらい釣ったが、味は脂の抜けたパサパサの味で旨くなかった。鯛やヒラメの高級魚でも産卵後の魚体は脂が抜け、身が痩せて旨くないので魚の旬は侮れない。

自家製の補助椅子に座るラキー
 飼い主に似て我が家の愛犬ラッキーは、食欲が旺盛で満腹中枢が壊れているのか、ゲップをしても餌のおねだりが多く、かみさんと食事をする際は必ず抱っこをせがみ、食後にもかかわらずおやつを要求してくる。そんなわけでいつもゆっくり食事ができないと、とうとうカミさんがこぼしたので、元はといえば抱っこをするくせをつけたのがいけないのだが、カミさんの手が離れるように犬用の補助椅子を作ってみた。
思ったほかおとなしく座ってくれているので助かっている。過食にならないように気をつけていても、月に1回のシャンプーで預かってくれている業者が体重が増えているといつも注意してくれている。そんなこの犬もはや7才になった。犬の寿命も15~6年なのでちょうど人生?の折り返し点だ。
長生きしてくれよ。

桜も見頃になり、動物園の切符を2枚もらっていたので、花見を兼ねて横浜ズーラシアにでかけた。犬を連れていこうと思ったが、園内犬の同伴は禁止なのでやめて2人だけで行ったが、園内は想像以上に広く世界の地域ごとに仕分けられて、多種多様な動物が見られ、えさやりの実演も行われて子供連れ客には人気のまとだった。園内を一回りするのに我々の足で途中休憩を入れると2時間はかかった。
そんな中、印象に残ったのはチンパンジーが自分の肛門から排泄物を手に取りしみじみと味わいながら食っているシーンが目に飛び込んできて、嫌なものを見てしまった。まさに自家消費だ。人間に近い頭脳動物のチンパンジーと最近見た猿の惑星に出てきたスーパーチンパンジーとが重なり、生命の不思議を感じた。

2012年4月5日木曜日

アートな話 仏像彫刻

鎌倉大仏

鎌倉彫協同組合が運営する鎌倉彫の店<>の名付け親は、今は亡き後藤俊太郎先生である。第28代後藤家当主でもあり、鎌倉仏師の末裔である。後藤家も代々慶派との関わりを持ち今日に至っている。
名前の由来は慶派の慶である。慶派をたどると運慶の父で慶派の創始者の康慶(奈良時代の仏師)に遡る。慶派の中でも運慶,快慶はよく知られた仏師である。

ここで数多くの資料をもとに仏像についてまとめてみる。(出典は多岐に渡るので割愛させていただく。)

元々仏像彫刻は、釈迦亡き後、釈迦を偲んで作られたものが始まりで、仏教伝来と共に我が国に到来し、仏教の信仰対象である仏の姿を表現した造仏であり、仏(仏陀、如来) の原義は「真理に目覚めた者」「悟りを開いた者」の意である。それに付随してさまざまな菩薩像,神・明王・羅漢・祖師像などに展開していく。

平等院阿弥陀如来像(定朝作)
仏像彫刻の開祖 定朝(じょうちょう) 

仏像彫刻において寄木作りという手法がある。これは仏像の体の部分部分をそれぞれパーツ別に作り、後に組み合わせ、完成させる技法である。この技法を確立し1000体以上の造仏を手がけた定朝(じょうちょう)は大仏師20人、小仏師105人を率いる造仏工房の棟梁でもあった。藤原貴族の加護の下、数多くの仏像制作に携わった。平安京遷都によって造東大寺司が廃止されるなど官営造仏所の廃止によって奈良時代の造仏職人たちは貴族お抱えの造仏職人となる。この定朝から分派したのが、円派、院派、慶派の三大仏師の系譜になる。



定朝の弟子覚助(かくじょ)から派生した院派

覚助の弟子、院助をもって院派の創始者とする。代々「院」の字を用いたため、院派と総称される。院派は当初、円派におされていたが、院覚、院朝といった優秀な仏師を輩出し、藤原時代最末期、院尊の頃にいたって最盛期を迎えるが、慶派仏師の台頭によって、その時期は長く続かなかった。

定朝の弟子 長勢から派生した円派  
これは一門に「円」の字がつく仏師が多かったため円派と呼ばれた。工房は京都三条にあり、三条仏所と呼ばれ、後述の院派とともに京仏師ともいわれていた。
円派は自らを「定朝の正統な後継者」と位置付けて、常に、定朝様の踏襲を続けていたがこれも長くは続かなかった。


奈良仏師の作風と傾向

奈良仏師は、定朝以降、はやくに奈良に下ってしまい、興福寺関係の造仏に従事していたが、中央から離れたことにより、独自の作風を追求せざるを得ず、円派、院派といった京仏師達とはかなり違った作風を示すことになる。さらに、既に都ではなくなっていた奈良では仏像の注文は少なくなっていたため、古仏の修理などが主な仕事となる。しかし、この古仏の修理が奈良仏師たちに天平以来の仏像の本質を知らしめることになった。
こうして独自の作風に天平以来の古来の様式を組み合わせた鎌倉新写実が奈良仏師一門であった慶派によって生み出されることになる。天平時代の造形を蘇らせたいわば仏像彫刻のルネサンスである。

定朝の孫頼助(らいじょ)、覚助(かくじょ)をもって創始者とする。主に南都興福寺大仏師職に歴代が補任されていた為、奈良仏師と呼ばれる。後に一門から覚助のひ孫康朝の弟子の康慶(運慶の父)が慶派の創始者になり、以後運慶の6人の子を含め仏師の本流となる。
慶派が始めた手法に「玉眼嵌入」(ぎょくがんかんにゅう)がある。従来の眼を通常のように彫りだす「彫眼」にたいして、「玉眼」の手法は康慶、運慶など慶派の独壇場である。材料の水晶を加工し、裏から彩色するいわば義眼を取り入れたものである。
慶派は京都では相手にされないので、平家滅亡後頼朝の下鎌倉に赴き、その地で造像の仕事をやり武家階級に評価された。武家の文化は、前代の貴族好尚の優美な像より逞しい像が好まれたことと、スポンサーである頼朝が旧勢力の貴族と係わりのあった院派、円派を敬遠したことにより、奈良仏師の慶派が浮かび上がることが出来た。さらには、興福寺仏師として興福寺で造仏、補修をやっていたので、頼朝と運慶 <平家vs源氏>と<院派・円派vs慶派>という構図が浮かび上がる。
、権力の移行は、明確に、<平家→源氏>、<院派・円派→慶派>であり、そして、源氏の棟梁は頼朝であり、慶派の棟梁は運慶であった。

東大寺南大門 阿吽の仁王像  阿形は、運慶+快慶、小仏師13名で作られた世界最大の木彫で全長は8mある。
多くの仏像は、一人の彫刻家の作品として考えられず、仏像は純粋芸術ではなく信仰の対象物として作られるものであるため、工房制作の度合いが強い。あの仁王像の縮尺したひな形原形は、運慶の手によるものかもしれないが、それを基に作った像本体は、たくさんの工人の手によるものである。大きな像なら余計に多くの仏師の手にかかるもので、運慶は全体を統括するプロデューサーのような存在だったのだろう。



左は運慶の14億円で日本に買い戻された作品重文「大日如来坐像。右は最晩年の作品 重文「厨子入大日如来坐像」

 鎌倉仏師

「仏像彫刻」は鎌倉時代で終わったと言われるとおり、現在、仏像の国宝指定は鎌倉彫刻が最後である。時の幕府が禅宗を重んじ、信仰の対象が「仏像崇拝」から「人間崇拝」に変わったことが仏像彫刻の衰退を招くことになる。それは、仏像の代わりに祖師の、肖像、肖像画、揮毫書を礼拝するようになり、しかも、祖師の肖像彫刻を安置した「御影堂(みえどう)」が、「本堂」よりも大きく建築されるようになった。 「禅宗」では師が仏であるから、仏像を必要としない。開祖、高僧の像を頂相(ちんそう)と言って、仏像より重んじられ信仰の対象とされた。とはいえ、禅宗には仏像は全然無いのではなく、祀られる場合は主に釈迦如来像である。