2015年8月11日火曜日

アートな話「色と形そして未来」

日本の伝統色


日本文化の個性として色に象徴的に現れる中間色やそれぞれの色に、自然を手本とした呼び名があるように、一つの色をとっても階調が豊かで情緒的で、他国と違った曖昧さの残る感性が、日本人の特性を表している。その根底には、絶えず変化する自然が色という表層から、色の移ろいやすさを感じ取り、色の境界線が曖昧なまま日本文化の特徴を示している。そのことは四季のない他国では見られない風土と自然が日本の文化を育んでいることと関連している。


遠近法と地平線
 
 
 
 
一方ものの形を表す線については、曲線と直線が有る。曲線が繋がるところに真円あるいはアットランダムな歪んだ円が存在する。そして自然界の動植物も円から派生した曲線から成り立つ。唯一自然界で認識される直線は、地平線(地球の成り立ちからいえば曲線)である。
古今東西、絵画における地平線は直線で画面を天と地に分けられるが、その画面における比率は、作者の感情表現に委ねられる。直線は上下縦横を分ける線であり、天上と地上、物と人、人と人の間を分け、区切りをつける言わば境界線でもある。それは情緒的な曲線とは違って、知性の線である。

西洋の古典派の画家たちは、空間を写実的に描くため、事物や建造物など人々の周りに存在するもののリアリティーを表現するため、必然的に直線が抽出され、隠れた直線とも言えるパースペクティブの遠近法を忠実に再現して行く。
そして西洋の遠近法は、ダビンチに代表されるように目から遠ざかる対象は縮小し、色彩の変化と、形のボケ、並びに空気遠近法まで持ち出して、対象が遠ざかるほど空気の色が青に見えると言った、合理主義的な形態の把握を志向している。それとは対象的な日本の逆遠近法は、西洋の理知的な合理主義とはかけ離れた、情緒的とも言える、西洋から見たら驚く手法をとっている。




現代絵画では、理知的な直線をどこまでも追求し、直線の交差するせめぎ合いから、理知的な直線から一歩抜け出た、リズム感と叙情的な直線を表現したモンドリアンの絵画が見られる。

絵画の歴史の中には常軌を逸した、画家たちも多い。その中に見られる一種強迫観念に憑かれた偏執狂的な作風の画家達。
 細密画で知られるブリューゲル、偏執狂的な色彩とタッチの絵が特徴で、最後は精神を病んで自殺したゴッホ、 自らの制作方法を、偏執狂的批判的方法と称して、写実的な描法を用いながらシュールな風景画を書いたダリ、 幼くして統合失調症を病み、幻覚幻聴から身を守るために作品を水玉(ドット)で埋め尽くす草間彌生、ウイーン幻想派  レムーデンなどなど数え上げればきりがないが、番外編では スペイン出身の建築家ガウディがいる。バルセロナにあるサクラダファミリアも、市の財政難のため建築が中断され、未だ未完成のままだ。

二十世紀後半のシュールレアリズムに見られる、意図的に無意識の世界に創造性の根拠が求められ、知性と感性を内包した交流を意識と無意識の相互交流の中で表現を求めた潮流から、一転して現代美術は現代の無機的な社会構造、テクノロジーの進歩に呼応するようなテクノロジーアート、クールアート、ハプニング、コンセプチャルアート、インスタレーションなど、従来のような有機的でヒューマンなものを否定するトレンドが見られる。中には映像を駆使したものや、コンピュータを利用したものなど視覚芸術の革命というべきステージに来ている。

Kaleidoscope with Mirror HARRIER」インスタレーション

人間の感覚器官の一部が電子機械で外部に向かってアウトプットされ、知覚系にある内容がボタン一つでプログラミングされているコンピュータから色や形になって発信されて行くのである。この流れはどこに向かって行くのだろうか?近未来には、かつてのヒューマンなタブローを回顧し復興させる流れがくるかもしれない。コンピューターが人間を支配する危うさが予見されるから、やがて人々は危機感を持つことになるだろう。なぜなら機械には自分を制御する感性も心もないから、誰もその暴走は止められないからだ。

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