11日付の仏週刊紙カナール・アンシェネは、2020年夏季五輪・パラリンピックの東京開催と東京電力福島第一原発の汚染水問題の影響を報じた記事と共に、手や足が3本ある力士の風刺画を掲載した。風刺画は3本の手がある力士と3本の足がある力士が土俵上で向き合い、防護服姿のリポーターが「すばらしい。フクシマのおかげで相撲が五輪競技になった」と中継する内容。また、別の風刺画では、防護服姿の2人が放射線測定器と思われる機器を手にプールサイドに立つ姿を描き、「五輪プールはフクシマに建設済み。おそらく(防護用の)ジャンプスーツ着用が水泳選手に許可されるだろう」との説明を付けた。同紙は政治風刺で知られる。これにたいして日本政府が不適切だと抗議をしていた。
同紙のルイマリ・オロ編集長は12日、ラジオ局のインタビューで「謝罪するつもりはない」と述べた。同日午前には、在フランス日本大使館の藤原聖也臨時代理大使がオロ氏に電話で「東日本大震災の被災者の心情を傷つけるものであり不適切で遺憾」と抗議。大使館によると、オロ氏は「そういう意図はなかった」などと釈明したという。大使館は同様の内容の書簡も近く送達する。しかし、オロ氏はインタビューで「(風刺画は)誰かを傷つけるものではない」と明言。日本も一介の週刊誌に舐められたものである。これに関連して筆者は、昨年10月にフランスの国営TV 「フランス2」に出た福島原発の影響から腕が4つある日本のゴールキーパー川島の合成写真を思い出したが、日本大使館の抗議を受けて、当時国営TVは謝罪している。いずれの風刺画も同じ発想をしていて、後発の週刊誌はTVの二番煎じの画像だ。
フランスのエスプリの中にCE N'EST PAS MA FALTE(IT'S NOT MY FAULT)の精神というものがあるが、自分の中には責任が不在であることをはっきりさせ、その問題からさらりと身を翻すことが出来るエスプリ。もともと小粋な精神性を意味する言葉であるが、今回はこれにやられた。挙げ句の果てに日本人はジョークがわからないなどと独りよがりの論評を加えた。
ジョークというものはどこの国にも存在する。しかしながらそれは国、そしてその言語をかなり反映するものであって、例えばイギリス人がアイルランド人をネタにし、ユダヤ人が商売をネタにし、アメリカ人が弁護士をネタにするように、ジョークというとても俗なものは、その土地の文化と深く結びついているものである。ジョークをいう人はもちろん、笑う人にもその言葉の洗練された感覚やある程度の予備知識、頭の柔らかさが必要であることは言うまでもない。
他国に対してのジョークは民族性ジョークとも言われるエスニックジョークである。このジョークは、ある民族もしくはある国の国民が一般的に持っていると思われている典型的な性格や行動様式などに着目し、その特徴を端的に表現したり、揶揄するようなエピソードを紹介することで笑いを誘うものである。このため、ある民族、国民が一般的に持っていると思われている特徴、例えば「日本人は集団主義者である」、「ドイツ人は合理的である」というような特徴が共通理解となっていて初めて成立するジョークである。自国の悲劇をユーモアで笑い飛ばすのは勝手であるが、他国の悲劇をユーモアで馬鹿にすれば当然軋轢が生まれる。そんな簡単なことも想像出来ないのかフランスのエスプリとやらは。
バカ丸出しの韓国 |
日本にもエスプリがある。九鬼周造は、著書「いき」の構造のなかで いき」の内包的構造として「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」 第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」気概とでも言おうか、第三の徴表は「諦め」で、執着を離脱した時に見える心境とでも言おうか。また「いき」の外延的構造として(一) 上品―下品 (二) 派手―地味 (三) 意気―野暮(四) 渋味―甘味と対立概念を列記しているが、この中の野暮は粋全体の対立語として我々日本人は認識している。すなわち野暮とは、 世態人情の機微に通じず,言動がすべてにわたって洗練されていない、精神性の薄いことをさす。
同じ日本を揶揄した野暮の極め付きは韓国のサポーターのこのアホな画像で、韓国という国の国民性がよく出ている。