20世紀に入ると周知のように、美術の舞台はヨーロッパからアメリカに移り、現代アートは多様な歩みを始めていく。
20世紀初頭の創生期に戦時下の前衛美術表現が弾圧される中で、ヨーロッパで戦禍を逃れたモダンアートの一派はアメリカへと渡ったデュシャン、モンドリアンに始まって、 50年代、近代芸術の突破を果たした抽象表現主義絵画 ポロック、デ・クーニングや、続いて現れた現代都市の事物と記号化された表現 や、ネオ・ダダのラウシェンバーグやジャスパージョーンズそして60年代、アメリカ現代美術は商業主義と結びつき、リキテンシュタイン、ウォーホルに代表されるポップアートを生んだ。
●60年代後半からスーパーリアリズムと言うジャンルが登場する。
リチャード .エステス
写真と見まごうばかりの驚くべきリアリズムで現代の風物を鮮烈に描き出す絵画。スーパーリアリズムと呼ばれるこの動向は、ポップ・アート最盛期の1960年代後半のアメリカに登場した。「リアリズム(写実)を超えた迫真のリアリズム」を意味するこの表現法は、絵画制作に写真の映像をきわめて意識的に導入し、カメラ・アイ(=機械の眼)を世界を見る手段の中心に据えることで、新しい視覚世界の地平を開いた。日常世界を撮した写真を素材にして描かれた作品は,対象への思い入れや主観的な感情をいっさい排除しクールに描写する表現が特徴で、スライド写真などの映像を忠実に写しとるためフォトリアリズムとも呼ばれ、その無機的な表現法は現代に潜む孤独と虚無を映し出ている。1970年代以降は世界的に流行し、日本にも三尾公三や森秀雄などの作家がいるが、ちょうど日本経済が高度成長期から成熟期に入った頃で、日本特有の情念的なリアリズムはアメリカのリアリズムとは違った様相を示していたように思う。このころわが国では、絵筆に代わってエアーブラシによる絵画制作がはやり、筆者もエアーブラシを使った絵画に手を染めていた頃である。
スーパーリアリズムとは、写真というメディアによってもたらされた新しい映像世界を、 再び「人間の手で描かれた絵画」という伝統的な枠組みのなかに息づかせようとしたものであった。スーパーリアリズムの絵画では、日常性をを彩る風物がモティーフとなっており。驚嘆すべきテクニックを駆使して活写された画面に は、アメリカが抱えているその時代が描き出されていた。
20世紀アメリカは、現代の典型となる強力な社会システムとしての「大量生産/大量消費社会システム」あるいは「記号化社会システム」を作り上げた。
しかし、ギリシャ、ローマに始まる古典から近代に至る文化を築いたヨーロッパ諸国にしてみれば、アメリカは安価で高機能だが品の悪い機械を大量生産するだけの非文化的な大国に見えたことだろう。
アメリカにとって、ポップ・アートを中核とする20世紀アメリカ現代美術の誕生は、超合理的に物質的豊かさのみをひたすら追求する社会システムのなかで花開いた絵画が、文化システム国家に押し上げたことを意味している。
芸術の後進国の汚名を返上したばかりか、このあらたな産業・文化システム、システム「アメリカ」を広大な自国を皮切りに自国外の旧世界に向けて伝播させるメディアを得たのである。
芸術と酒は人間の精神を解放する作用がある点で一致する。芸術には個の創出した世界を生み、個人を解放する作用があり、芸術の本質は、個人の側に立った人間の解放作用である。その表現手法はどのジャンルにおいても時代を反映するものであり、時代の表現は次の時代の芽吹きとなる新たな世界の志向性を内包している。つまりその時代の目となって表現されるものが芸術のリアリズムであるだろう。
村上 隆 フィギュアー
今、日本発の現代アートは、アニメと漫画にとってかわり、日本的なアニメやマンガを連想させる村上隆や奈良美智の作風への評価が定まってきたことに加え、コンテンポラリーな美術シーンが展開している。
2006年5月、ニューヨークのオークションで、両者の作品がそれぞれ100万ドルを超える値で落札されたことも時代を現わしている。
「人間社会は、いま人類史上かってないほど大きな変貌をとげようとしている。物理空間を基盤に構成された社会から、情報空間を基盤に構成される社会へ変わろうとしているのである。この変化は、森を基盤に生活していた縄文人が、畠を基盤に生活する弥生人にとって代わられたよりはるかに大きな変化になるだろう」と評論家立花隆は 「インターネット探検」1996 , 講談社で述べている。
一方通行のマスメディアに対して、いつでもどこでも自由にコンタクトできるインターネットは超民主的なメディアで、それは現在の世界の枠組み、国家や社会、大企業などの組織のあり方を必ずしも絶対的なものとしない、新たな世界の到来を予告しており、この流れは誰も止められない。
また一方で、視覚芸術領域を変えたもう一つの現在の時空をあらわす技術に、コンピューター. グラフィックス(CG)がある。私たちは日常的にCG映像にふれ、それをもはや特殊なものと思わずに楽しむようになっている。
映画の特殊撮影、テレビ番組のタイトルやエンディング、強い印象を与えるCMには、必ずと言っていいほど、CG映像が使われている。また写真映像も多くの場合、コンピューター処理がなされている。これらのことから私たちの時代は、CGによって高度に視覚化された概念像をもつようになっていった。
自在でスムーズな視点の移動とイメージの変化は、CG以外では作り出せなかったものである。クリアーに視覚化された概念像を我々に提供するCGは、概念と視覚の問題を占有しようとする現代芸術に、より高次元の概念化を強いていると言えるだろう。
0 件のコメント:
コメントを投稿