2015年11月9日月曜日

アートな話「芸術と経済」


私の好きな日本の画家に田中一村(本名、田中孝)がいる。生前は、まったくの無名の画家で、明治41年(1908年)仏像彫刻家の父の長男として栃木県に生れ、69歳の1977年に、日本の最南端の奄美大島で画家として認められないまま、孤独の生涯を閉じている。南の島奄美の自然を描いた画風は昭和の若冲とも称され、飽くことなき動植物の写実に徹し、どこか平坦で装飾的な画面から漂う躍動感と静けさは、アンリルソーにも似ていて、また日本のゴーギャンともいわれている。



神童と呼ばれ、若くして水墨画にその才能を発揮した彼は4、7歳の時には児童画展で天皇賞もしくは文部大臣賞を受賞し、10代では、蕪村、木米らを模した水墨画を自由に描いたという。
1926年、18歳にて東京美術学校(現東京芸大)の日本画科に学ぶが、父の病のため中退。同期には東山魁夷がいた。その後、家族を養うため水墨画を描いていたが、従来の水墨画を捨て、日本画にもどってみたものの、画壇からは不評であった。

日本美術展覧会(日展)、日本美術院展(院展)に何度も応募するが落選を繰り返す。名の売れた画家になりたいという夢が強かったと言うが、中央画壇で認められることはなかった。
 50歳の時に出品した作品は、自分の絶対的自信作であったが、これも落選。東京美術学校の同期生は、すでに審査員になっているものも多かった。中央画壇に失望した一村は、すべてを捨て、そして、一人、日本の最南端の奄美大島にわたる。そして生計のため大島紬の染色工になるが、無口で、あまり他人と交わることはなかったという。生業以外の余った時間はただ、ひたすら絵を描いていたという。画集の写真からうかがえる貧しい生活も、やせ細った身体も如何にも満足げである。そこにはゴッホのような貧しさの果ての狂気は見いだせない。
 
奄美大島に来てから描いた花鳥画は、自然を愛し、植物や鳥を鋭い観察眼で、精緻に描いた、いかにも熱帯の日本画、と呼ぶにふさわしい大作が何枚もある。一村のエピソードでは、彼が描いた村人が、亡くなってから家に飾るための遺影として、どの家にも大切に残されているという。貧しかった村では、写真にして遺影を飾ることができなかった。そこで、絵で代用をしたそうだ。
神童と呼ばれ、画家としての将来を期待されながら認められず、外側からだけ見れば、悲運の人の生涯であったようだが、本人にしてみれば好きな絵を描いて、貧しくても幸せで孤高の人生を全うしたのだろう。


奄美パークにある田中一村美術館
 
中央画壇で認められたいと、悪戦苦闘し、夢破れて、俗世間から離れ、一人自分の志を守り、静かに去って行った一人の無名の画家。そこに垣間見るのは男の美学か。現在奄美大島の奄美パークにある田中一村記念美術館に機会があれば足を運んでみたいと思っている。


思えば芸術も、我々に身近な経済も人それぞれの人生を語っている。人間の営みの根底にあるものが経済で、これなくしては個人も国も社会も成り立たない。バブルのころならいざ知らず、今の時代、芸術で飯を食うのは難しい。芸大を出ても二足わらじの人もいれば、芸術とは関係のない仕事をしている人もいる。幸いにして絵で食っていける人でも、世間に迎合すれば芸術家精神の堕落が始まる。
いっそ商業主義に徹したデザインの世界や工芸の世界であれば、その葛藤は少ないだろう。なぜなら消費者あっての生産者(製作者)であることが前提にあるからだ。
一般消費世界では、把握しきれないほど多量なモノや情報が、限られた消費者の関心を奪い合っている。良いモノさえ作れば売れたような時代は終わりつつある。前時代の希少性とマスメディアの情報独占に操作された価値観は、ネットの出現により、知識や情報の源泉が広く分散され、消費者の関心を引きつけるものは、モノに内在するエンターティメント(面白さ)とモノの属性、即ち、デザイン、性能、品質と消費者にとっての有用性であろう。芸術は長く、人生は短し。されど人生の基盤は経済である。







0 件のコメント: