2015年9月19日土曜日

アートな話「百年の愚行展」


『百年の愚行展』が、8月22日から9月27日まで東京・秋葉原の Arts Chiyoda1階ギャラリーで開催されている。
同展は、書籍『百年の愚行』および同書の続編となる『続・百年の愚行』の展覧会。2002年に刊行された『百年の愚行』は、20世紀に人類が犯した愚行を10に分類し、写真やエッセイ、コラムで紹介した書籍だ。昨年に刊行された『続・百年の愚行』は、アメリカ同時多発テロ事件や「3.11」にまつわる事象を含む21世紀以降の「愚行」を約50点の写真を通して紹介している。


会場風景

『百年の愚行展』は、21世紀に入った現在もなお続く暴力、環境破壊、経済格差といった問題について議論し、行動するきっかけづくりとして開催。2冊の書籍で紹介された20世紀から21世紀にかけての愚行を象徴する写真を展示するほか、国内外で現在進行している様々な動きについても映像を使って紹介している。



会場風景2

20世紀に犯した人類の数々の愚行の写真100点と、21世紀に入っても人類の愚行は増大するその続編が50点の写真集を追加しての今回の展覧会。それら出版物の中の写真パネルや、画像VTRが狭い会場を埋め尽くしている。神の視座にたてば人間のやっていることは愚行に映るのだろうが、これらの画像や映像を見て、どうにもならない厭世的な気分に陥るのは私だけではないだろう。

対義語の辞典によると、愚行の対極にあるのは快挙であり、20世紀はあらゆる分野(自然科学、生物化学、宇宙科学、産業革命、情報革命、エネルギー革命)などのイノベーションが人類の快挙とするならば、対極にある負の遺産である戦争、難民、環境破壊、原発、格差、資本主義の病根が人類の愚行と深くかかわっている要素である。人類史をあえて俯瞰してみれば、戦争と戦争の間にある平和,力と力のバランスの上でかろうじて成り立っている平和というものが長く続かないことが見て取れる。戦いの無くならない世界、これは人間のカルマ(業)のなせる業であり、我々はカオス(混沌)の世界の住人でもある。人間が自助努力をしてもその力は微力であるが、この愚行の数を減らす努力は続けなければならない。そういった志向性をうながすカメラの目は我々に黙示録として語り続けるだろう。

2015年9月14日月曜日

難民問題

シリア難民

難民という概念は、あらゆるものに普遍的な漂流者(平たく言うと根無し草)という日本語が当てはまる。ネットカフェ難民、帰宅難民、カルチャー難民、そして映画で話題になった東京難民とさまざまである。
今世界では、シリア難民問題でEUがその受け入れを巡って分解寸前となっている。海外ニュースを賑わしている映像では、ハンガリーはセルビアとの国境に有刺鉄線のフェンス、あるいはトルコ沿岸の波打ち際で溺死した少年や、大挙してドイツに向かう難民列車等々報道されているが、しかし彼らの多くは戦禍を逃れた政治難民なのか、あるいは単に荒廃した母国を見捨て『より良い暮らし』を求める経済難民なのかの線引きは難しい。これらを見て人道、人権といったものを優先する感情論が先行することも考え物である。安易に難民を受け入れる文化のある国とそうでない国では、対応の仕方が違ってくる。既にEUはアメリカに難民引き受けを打診していて、アメリカも1万人程度受け入れるようだ。もともと移民で成り立った国だから何ら違和感はないのだろう。
ドイツを目指すシリア難民

日本も遠い国の出来事と言ってられなくなり、少なくとも難民支援のための資金提供は余儀なくされるだろう。こういう国からの難民を、自由・民主・人権・法治を土台とする近代国家が受け入れることはできても、難民が溶け込むことはない。難民はゲットーを作り、治安は悪化し彼らは仕事よりも先に福祉を要求する。難民を無制限に受け入れることによって様々な問題が各国に起きている。日本も在日棄民(注)を抱えこみ戦後を歩んできた歴史がある。パクリ、スパイ、ねつ造体質のこの民族の世界各地で起こす禍根は数が多すぎて枚挙にいとまがない。

(注) 戦後一貫して韓国は不良朝鮮人、犯罪者、ヤクザの帰国や送還を認めてこなかった。いわば国家が見捨てた 難民である。

長い歴史の中で多くの困難を乗り越えて今日の国家は存在する。総じて次世代により良い国家を引き渡すのが国民の義務であるが、残念ながら難民は受け入れ先で多くの問題を引き起こす。解決策は祖国が安定して、故国に帰り元のさやに戻るのが理想であるが、国際情勢からみて非常に困難なことでもある。いかに先進国とはいえ難民受け入れには限度があり、各国ともこの連中に満足を与え続ける余裕はない。各国とも経済的余裕のない“底辺の人々が”が真っ先に難民に対する抵抗勢力となってナショナリズムを煽り立てる。ドイツのネオナチしかりである。しかしそれにしても日本の難民認定はハードルが高く2011年以降、61人のシリア人が申請を行い、難民認定された人が1人もいないというのが批判の的になっている。そのための改善も進めているようだ。日本のガードが堅いのは世界も周知の事実である。よほど在日問題で国が悩ませ続けられたのだろう。

我が国法務省の在留外国人統計(平成26年6月末現在)によると、国籍地域別特別永住者の数は、韓国・朝鮮(36万0004人)中国(1759人)台湾(648人)となっており、圧倒的に韓国人が多い。日本の隣 国には幼少の頃から反日感情を植えつける教育を施された民族が大勢現存しており、戦後60年経ても、在日朝鮮、韓国人の動向を見ていると他山の石とは言えない。大陸有事の際は厄介な隣人たちが日本に押し寄せる局面は想像するに難くない。

(国連)によれば、シリア国内で600万人余りが避難民となり、400万人余りが難民登録をしているという。そのうち半数以上がレバノン、ヨルダン、イラク、エジプトに流れ、トルコにも約190万人が、北アフリカに約2.4万人がいるという。ドイツでは今年、過去最多の80万人が難民申請すると予測されているが、申請者の約4割は「不法移民」だという。出口の見えない難民問題に世界は苦慮している。どうしたものやら、、、、

2015年9月5日土曜日

ネット社会の裏側

アマゾンの配送センター


ここ3~4年でアマゾンで日用品から書籍並び食品、家電、など多岐にわたり利用することが多くなった。家電品でもヤマダ電機より安いものが手に入ることもあり、配達の速さと日用品などの定期購入の便利さから利用頻度がますます広がり,無くてはならないものになってきた。本家アメリカでは、アマゾンにとっぷり浸かった消費者を称してアマゾン中毒といっているようだ。私もそのカテゴリーに入るかもしれない。

実際アマゾンのマーケット上で売り手としても店を持っているが、登録までには手続きなどで手間取った。PRさせていただくが、 鎌倉彫工房<創>を参照されたし。ネットショップがひしめく中、ランディングコストは、楽天などに比べかなり安く営業しやすい。周知のとおりアマゾンは、米国の最大手通販業者であり、日本でも楽天やヤフー、その他通販業者をおさえて売上高トップの座を占めている。
アマゾンは、市場の拡大、成熟、縮小の状況に関係なく、顧客を自社の通販サイトに誘導するための、新規投資や改革を常に行っているので、大手小売業者にとっても、その存在は脅威である。インターネットの普及により情報の垣根が崩れ、場所の垣根も崩れ、どこにいようと好きなものが手に入る今の時代、アマゾンの強みは、Webサイトの見やすさ・使いやすさ、扱い製品群の多さと、高効率且つ廉価若しくは、一部業者を除いて無料の宅配サービスが売りになっている。今後ネット通販は、アマゾンに限らずスマホの高速普及や高齢者のネット活用比率の向上などから、更に成長が見込まれるだろう。


さてそのアマゾンであるが、秘密のベールに閉ざされたアマゾンの内側をえぐった潜入ルポ「アマゾン、ドットコムの光と影」横田増生著を読むと、アマゾンの心臓部分の巨大な配送センターの正確無比なシステムと、多くのアルバイトと非正規社員に支えられた実体が浮かび上がる。著者自身がアルバイトとして配送センターで実際に働いた体験が生々しく語られている。そこにあるのは働く希望も喜びもない時給ノルマに縛られた、無機的な職場環境の格差社会で働く大量の労働者の縮図があぶりだされていた。それはあのチャップリンのモダンタイムスのシーンを彷彿させるものだ。

アマゾンに限らず、どの産業も企業の草創期から成長期そして成熟期を経て、低迷衰退期に至るサイクルが約30年というのが定説となっている。そして最後を迎えるも迎えないも企業努力にかかっているのだが。経済環境の激変期(戦後高度成長時代から成熟期に至り、そして衰退期を迎える現在) に日本経済を支えてきた年功序列と定年までの身分保障をされたあの時代は通り過ぎ、各企業は正規社員を多数抱え込む余力はなくなり、企業存続のためには、正社員さえもリストラの憂き目にあう。そして賃金の安い非正規社員、派遣、アルバイトと労働形態はシフトして行き、労働環境は年を追うごとに厳しくなっている。今話題のブラック企業や過労死、ワーキングプアーなどおなじみのフレーズが巷にあふれている。

グローバル経済の下、単純労働は途上国に流れ、国内では労働の2極化、すなわち特別なスキルのある専門職と誰でもできる一般職に分化してゆく。この一般職の分野も、多くの職種が近未来にはコンピュータや機械にとって代わっていくことが予測されている昨今。そしてそれらの経済環境の中で未来を絶たれた者たちは、希望を持てない労働者として社会の底辺をさまよい、少子高齢化に拍車をかける。このトレンドは止められない。日経新聞によると、2014年のニート総数は56万人、雇用者のうち非正規社員やアルバイトは全体で2000万人を突破した。今や正社員だった人が転職の時に非正規になる流れも強まっている。



この情報化時代に起きた事件が、オリンピックエンブレム使用中止の佐野騒動である。とざされた世界の審査につきものの、なれ合い、お手盛りもさることながら、大量情報消費の中には、便所の落とし紙のごとくコピーされては捨てられていくものも多い。特にデザインの世界では珍しくないようだ。似たようなデザインがネットでは氾濫している。またそれに対して多くのギャラリーが匿名性を武器にして誹謗中傷や、安っぽい正義感を振りかざして、個人のプライバシーを暴き、特定の個人を攻撃する。身から出た錆とはいえ、国民のつるし上げにあったあのデザイナーの末路は気の毒としか言いようがない。

ご承知のように情報の中には虚偽、だまし、誇大、偏見も多く混在し、利用者に取捨選択や読解力と言う見識とレベルも必要であることは言うまでもないことだが、不特定多数、匿名、非対面と言うメリットは、同時に無責任、虚偽、ナリスマシや憑依や荒らしやフィシングのリスクを含んでいることは忘れてはならない。そういう時代に我々は生きているのだから。

2015年8月15日土曜日

オリンピック 3つの懸念

ごたごた続きの東京オリンピックであるが、最近の情勢をみてみると、3つの懸念が頭をよぎるので以下に列記してしてみた。

1.メインスタジアム
没になった新国立競技場デザイン

2020年のオリンピック・パラリンピック東京大会のメインスタジアムである新国立競技場の建設計画は、当初から担当組織のいい加減な予算の立て方や、その利権に群がる政治家の思惑で空転が続き、挙句の果てに安部首相の一声で白紙見直しが決まった。
当初の試算1300億円から二転三転したあげく、多目的の運用を想定し、2520億円に膨れ上がった新国立競技場の整備計画。世論の逆風に押されて、その費用の積算根拠や責任の所在などを明らかにするための第1回検証委員会が8月7日、文科省で行われた。
文科省傘下の独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)は、早い時期からゼネコンの共同企業体(設計JV)より予算が3000億円は超えると報告されていたにもかかわらず、文科省に過少申告をして事態を混迷させていた。そこには情報操作の疑惑まで浮かび上がる様相が見えかくれする。

JSCの試算では、新国立競技場の年間維持運営費は40億円余。これは、旧国立競技場の維持運営費の約8倍になり、回収不能と言われている。かつて日本中の町に多目的ホールが建設され、「無目的ホール」と揶揄された箱ものがあふれている昨今。そしてその多くが、今や維持困難になっている。「無目的競技場」の将来世代への負担はあまりにも大きい。いうまでもなく身の丈に合った施設を作るべきで、政治家の利権に振り回される国民はたまったものではない。

2.コピーワールド
ベルギーのデザイナーのデザインとスペインのデザイン

国立競技場に続いて、オリンピックに関連したデザイン盗用問題が起きた。 2015年7月24日に発表された東京オリンピックのエンブレムだ。
事の発端は、ベルギーのリエージュ・シアターのロゴマークに似ているとして、このロゴをデザインしたベルギーのデザイナー、がTwitterやFacebookなどのSNSで両デザインを比較した画像を発表したこと。この画像がインターネットを通じて一気に広がり、日本国内でも「模倣ではないか」と多くのメディアが取り上げる事態になった。その後ドビ氏はオリンピックエンブレムの使用停止を求めてIOCとJOCに、書簡を送付している。またスペインのデザイン事務所のロゴとも似ていて、足して2で割ったデザインとも指適されている。
 
こうした事態に対して8月5日、オリンピック組織委員会と、デザイナーの佐野研二郎氏が都内で会見。佐野氏は「全く似ていない」とベルギーのデザイナーの主張に真っ向から反論した。なるほど色といい形といいよく似ている、これでは
パクリと言われても仕方がないだろう。創造においては素材(要素)を抽出する模倣の段階から、それを消化して新たな構造(再構成)を作る過程を経て、機能を探り新たな機能を創り出し完成度を高める手順というものがある。このエンブレムは未消化のままだ。さらに悪いことに、最近になって他に出回っているパッケージデザインも2~3コピーしたことを本人が認めたことから、問題がこじれ、これが国際問題に発展しないことを望むばかりだ。我々は日々の経験則から一度ケチの付いたものは最後までケチがつくことを知っている。老婆心ながら最後にもう一つオリンピックについての懸念がある。

3.3.11から5年後以降の東京の環境
福一から250kmの位置に横浜がある

原発問題を発信し続けているノンフィクション作家の広瀬隆氏は、緊急出版した著書〔東京が壊滅する日〕が話題になっている。
すでに事故から4年をすぎた現在、日本に住むほとんどの人は「事故と被害は終った」と勘違いしているが、「福島第一原発」の事故現場では、大量の放射能放出が続いており、東京電力が発表する放出量は変動が大きすぎて信頼できないのだ。毎日6000~7000人の作業者が、汚染地帯で身を削って働いている。そしてここから漏れ出している放射能汚染水は、地下水脈を流れ、ハンパな量ではない。東京電力は必死になってそれを回収しているが、この4年間で貯蔵量が75万立方メートルというトテツモナイ量に達しているのだ。

著書では、トリチウムの危険性を言及しており、これが放射性セシウムと放射性ストロンチウムと共に、汚染水に大量に流れこんでいるのだ。
トリチウムという放射性物質は、元素としては水素である。しかし通常の水素は原子核が陽子1個でできているが、トリチウムの原子核は、そこに中性子が2個くっついている。DNAを構成する究極の原子は水素H、炭素C、酸素O、窒素N、リンPである。その水素が、放射線を出す水素になってしまえば、体内で、どれほどおそろしいことが起こるかは、誰でも想像できるだろうとしている。

しかしほとんどの人が持っている簡易式の放射線測定器は、放射性のセシウムやヨウ素が出す「ガンマ線」しか測定できない。

Air counter-S
ストロンチウム90やトリチウムが出す「ベータ線」を測定していないのである。私もネットで買った線量計を持っているが、役に立たない、国もストロンチュウムとトリチウムの線量は正式に発表していないのが不気味だ。不都合な事実が潜んでいる気配がする。

最大の汚染となった阿武隈川の河口は宮城県にあり、大量の汚染物が流れこんできた河川の終点の1つが、東京オリンピックで「トライアスロン」を予定する東京湾。世界人口の2割を占める中国も、東京を含む10都県の全食品を輸入停止し、数々の身体異常と白血病を含む癌の大量発生が日本人の体内で進んでいる今、オリンピックは本当に開けるのか?
チェルノブイリ事故でも「事故後5年」から癌患者が急増、それが2016年からだ。2020年はどうなっているのだろう?

2015年8月11日火曜日

アートな話「色と形そして未来」

日本の伝統色


日本文化の個性として色に象徴的に現れる中間色やそれぞれの色に、自然を手本とした呼び名があるように、一つの色をとっても階調が豊かで情緒的で、他国と違った曖昧さの残る感性が、日本人の特性を表している。その根底には、絶えず変化する自然が色という表層から、色の移ろいやすさを感じ取り、色の境界線が曖昧なまま日本文化の特徴を示している。そのことは四季のない他国では見られない風土と自然が日本の文化を育んでいることと関連している。


遠近法と地平線
 
 
 
 
一方ものの形を表す線については、曲線と直線が有る。曲線が繋がるところに真円あるいはアットランダムな歪んだ円が存在する。そして自然界の動植物も円から派生した曲線から成り立つ。唯一自然界で認識される直線は、地平線(地球の成り立ちからいえば曲線)である。
古今東西、絵画における地平線は直線で画面を天と地に分けられるが、その画面における比率は、作者の感情表現に委ねられる。直線は上下縦横を分ける線であり、天上と地上、物と人、人と人の間を分け、区切りをつける言わば境界線でもある。それは情緒的な曲線とは違って、知性の線である。

西洋の古典派の画家たちは、空間を写実的に描くため、事物や建造物など人々の周りに存在するもののリアリティーを表現するため、必然的に直線が抽出され、隠れた直線とも言えるパースペクティブの遠近法を忠実に再現して行く。
そして西洋の遠近法は、ダビンチに代表されるように目から遠ざかる対象は縮小し、色彩の変化と、形のボケ、並びに空気遠近法まで持ち出して、対象が遠ざかるほど空気の色が青に見えると言った、合理主義的な形態の把握を志向している。それとは対象的な日本の逆遠近法は、西洋の理知的な合理主義とはかけ離れた、情緒的とも言える、西洋から見たら驚く手法をとっている。




現代絵画では、理知的な直線をどこまでも追求し、直線の交差するせめぎ合いから、理知的な直線から一歩抜け出た、リズム感と叙情的な直線を表現したモンドリアンの絵画が見られる。

絵画の歴史の中には常軌を逸した、画家たちも多い。その中に見られる一種強迫観念に憑かれた偏執狂的な作風の画家達。
 細密画で知られるブリューゲル、偏執狂的な色彩とタッチの絵が特徴で、最後は精神を病んで自殺したゴッホ、 自らの制作方法を、偏執狂的批判的方法と称して、写実的な描法を用いながらシュールな風景画を書いたダリ、 幼くして統合失調症を病み、幻覚幻聴から身を守るために作品を水玉(ドット)で埋め尽くす草間彌生、ウイーン幻想派  レムーデンなどなど数え上げればきりがないが、番外編では スペイン出身の建築家ガウディがいる。バルセロナにあるサクラダファミリアも、市の財政難のため建築が中断され、未だ未完成のままだ。

二十世紀後半のシュールレアリズムに見られる、意図的に無意識の世界に創造性の根拠が求められ、知性と感性を内包した交流を意識と無意識の相互交流の中で表現を求めた潮流から、一転して現代美術は現代の無機的な社会構造、テクノロジーの進歩に呼応するようなテクノロジーアート、クールアート、ハプニング、コンセプチャルアート、インスタレーションなど、従来のような有機的でヒューマンなものを否定するトレンドが見られる。中には映像を駆使したものや、コンピュータを利用したものなど視覚芸術の革命というべきステージに来ている。

Kaleidoscope with Mirror HARRIER」インスタレーション

人間の感覚器官の一部が電子機械で外部に向かってアウトプットされ、知覚系にある内容がボタン一つでプログラミングされているコンピュータから色や形になって発信されて行くのである。この流れはどこに向かって行くのだろうか?近未来には、かつてのヒューマンなタブローを回顧し復興させる流れがくるかもしれない。コンピューターが人間を支配する危うさが予見されるから、やがて人々は危機感を持つことになるだろう。なぜなら機械には自分を制御する感性も心もないから、誰もその暴走は止められないからだ。

2015年8月5日水曜日

日々雑感

気象庁 HP


ここのところ暑さの収まりそうもない日々が続いているが、今年は確かエルニーニョ現象が広がり日本の夏は冷夏になる予報だったのが、台風の多発に伴い状況がガラリと変わった。紋切り型の定説はあまりあてにならないようだ。
このさき一週間も、東北~沖縄にかけて気温のかなり高い状態が続き、一部で40℃を超える高温となるおそれも出てきた。
東京では、きょうも35℃の予想は続き、すでに5日連続の猛暑日で統計開始以来の連続記録を塗り替えたそうな。年を取ったせいか薄くなった頭頂に照りつける太陽がじりじりと神経を刺激する。外出先でこんな日は帽子をかぶるに限ると思ってみても後の祭りだ。梅雨明け前の日照不足を騒いでいたあれは何だったんだろう?
一度でもまとまった雨が降れば、暑さに少しブレーキがかかるのだが、今週もその気配が本州付近ではないようだ。雨による冷却や空気の入れ替わりがないと、日に日に熱が蓄積され、気温が上がりやすくなってしまうのではないだろうか。私などは屋内で仕事をやっていることが多いので、クーラーのない外で働いている人は、体力を消耗して大変だろうと思う。

人間の場合、気温が高すぎると食欲不振におちいるが、反対に魚の場合は、水温が下がりすぎると食いが落ちることが知られている。以前、台風の後に千葉に釣りに行った時など、時化の後、海水がかき混ぜられて夏場なのに水温が14度まで下がり、魚が口を使わず貧果に終わったことがあったが、暑気払いに行った8月最初の走水釣行では、午後からのアジと、夜メバルはそこそこ釣れた。これも自然には逆らえないといったところか。


*エルニーニョとは、ペルー沖の海水温が上昇する気象現象を言う。海水温が上昇することで様々な異常気象を世界にもたらることで知られている。日本の場合は夏なら冷夏、冬なら暖冬となり、今年は既にエルニーニョが観測され、更に今後もかつてない規模で大きくなる予想が気象庁から出ている。ペルー沖の海水温が上昇すると、周囲の海水温が影響されて高くなる。この高い海水温域が日本に暑い夏をもたらす太平洋高気圧を引っ張り、東に寄ってしまい、結果として、日本は太平洋高気圧の影響が薄くなり冷夏となるようだ。

2015年7月26日日曜日

アートな話「動きのカガク展」

動きのカガク展 入口風景

「動きのカガク展」が、6月19日(金)から9月27日(日)までの期間、六本木ミッドタウン DESIGN SIGHTで開催されているので、月に一度の通院の帰りに見に行ってきた。内外の作家や学生、企業との協働による多彩な「動く」作品を展示している会場には、所狭しとコンクリートの打ちっぱなしの空間に作品群が生物のようにうごめいていた。

モノづくりに携わっている人間にとって、作品を構成する要素のなかでデザインは非常に重要なウエイトを占めている。
それは従来の絵画や彫刻などのメディアアートの時代から進化し続ける情報化社会のテクノロジーを駆使したニューメディアアートとして動きをデザインする「モーション・デザイン」が、色や形を超えて時代の科学を支えている装置としての原理や仕組み、あるいは発想の原点のようなものを、制作にかかわった道具や素材の解説を試み、見るものに体験をうながす流れになっている。
我々の身の回りで見かける原始的な仕組みから最先端の制御装置やロボットなどの動きに関連したものや、視覚のイリュージョンを呼び起こす各種動力装置など、どれもが見るものを楽しませてくれる。印象に残った作品を2~3紹介してみよう。

最初の入り口に展示していた
    


<シックスティー・エイト>

ニルズ・フェルカー

ドイツ人アーティストによる作品。プログラミングされたポンプを使い、68枚のポリ袋が波のように伸縮し呼吸するような動きを見せる。因みにドイツではこの青色に加えてグレーのポリ袋が主流とのこと。



「atOms」岸 遼       《124のdcモーター、コットンボール、53×53×53cmのダンボール箱》  ジモウン 2015年

    
上の2作品は素材の違いこそあれ、ボールの動きの静止バランスを風量による調整でコントロールされたものと、片や長さの異なるピアノ線に繋がれたボールが小型モーターで振動し、円筒形に積み上げられた段ボールを打ち鳴らし、内部空間に入ったとたん共鳴音が生みだす効果に驚いた。



《レイヤー・オブ・エア》沼倉真理 2015年
透明感のある素材を使ったカーテンを風で揺らして、そこにプロジェクターから不規則な光を当てカーテンをスクリーンに見立てて、そこに映し出された数々の映像イメージがおもしろい効果を出している。






 

《リフレクション・イン・ザ・スカルプチャー》

 生永麻衣+安住仁史  2015


 
右の作品は 1枚の布にステンレスミラーを貼り合わせて折ったものを伸縮させることで、多様な光の反射を見せるシャンデリアのようなものが天井からぶら下がり、これもモーターで伸縮させている。昔キャバレーで見たミラーボールを思い出す。










最後にこの展覧会の主催者側のコンセプトとギャラリーディレクター菱川勢一氏のコメントをご紹介する。



 
表現に「動き」をもたらしたモーション・デザイン。その技術は、車両制御システムや地図アプリケーション、通信技術やSNSの普及など、私たちの快適で便利な日常生活を支えている。また、プロダクトをはじめグラフィックや映像における躍動的な描写を可能にし、感性に訴えるより豊かな表現をつくりだしている。 今日のデザイナーは、エンジニアリングの手法も駆使しながら、先端技術を用いたものづくりを展開している。私たちの生活に欠かせない様々な動くツールやその仕組みは、デザイナーや企業の研究と実験の連続から生まれている。自らのアイデアが形となり、動き出す――その瞬間の純粋な喜びこそが、ものづくりの楽しさだと言えるのではないだろうか。
「動き」がもたらす表現力に触れ、観察し、その構造を理解し体験することで、ものづくりの楽しさを感じ、科学技術の発展とデザインの関係を改めて考える展覧会となるだろう。


ディレクターズ メッセージ  


この展覧会の「動き」というテーマの中には、「重力」「慣性」「波長」といった、デジタル社会においてもまだ完全に解明されていない現象への想像力を込めました。情報が溢れている現代だからこそ、自然科学だけではなく文化や経済といった人間の営みまでを「動き」という視点で横断的に捉えなおす機会になればと考えています。(中略)

つくることは決してブラックボックスではなく、いろんな人がチームとして参加することで流れだす、ひとつの「動き」なんだという認識が広まることを願っています。それは、展示を観に来る子どもたちだけではなく大人たちにも伝えたいことです。

 菱川勢一