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2015年10月9日金曜日

日本人の美学


美学という言葉がある。アカデミックにとらえれば美術の系譜を歴史的に研究したり、美の本質あるいは美の価値などを研究したりして、西洋では一貫した哲学の体系として思索の対象になっていたが、日本語の「美学」は、本来の意味から転じて美意識としてのいき、わび、さびなどが古来存在していて情緒的である。

美学が何を美しいと感じ取るかは、その受け取り方は人によって異なることになり、個人的な嗜好に陥りがちであるが、そこに時代背景が絡んだ一定の普遍性を醸し出す要素がある。総論でいえば日本人の美学であるが、男社会に象徴されるように男の美学というのなら男にしかない価値を語るということになり、限りなく女性を意識しながら語ることであると思われる。
男の器 潔さ 自分なりの基準やこだわり、ストイックさ 自制抑制のきいた行動  精神のダンディズム 自分なりのポリシー  男の粋と伊達などの言葉が浮かんでくる。何を持って美しいと言うかは人それぞれの価値観でもあるが、つまるところ、これを守らないと、自分の中で自分を男として認められなくなるというのが男の美学でもある。死に目覚め生に目覚めた時、人は人生思いっきり、生きる、男としてやりたい事をやり通し、悔いのない人生を生きる、それが男の美学だろう。

梅原猛は、日本人の価値観の基本は美意識にあると言った。(「美と宗教の発見」梅原猛著
綺麗な生き方をしようとしている人間が少なくなった。特に、日本の政治家の生き様から美しさがなくなりつつある。美しさは、潔さにも繋がる。花は桜木、人は武士といった美意識がなくなってきたのである。その結果、美学が廃れつつあるのである。

美は、外見に現れる。美は形である。美を追い求めれば、形式に至る。
美の基準は外形である。むろん、外見の裏には内面がある。しかし、美の本質は姿形、外に表れた象である。形からその内面を伺い知るのである。
普通、美しい、という表現は、多く外観に対し用いられるが、「美学」という表現には、むしろ外観的な要素はなく内面的な要素に集約される。



織田長益像(正伝永源院蔵)


史実によると、桃山時代から江戸時代にかけての茶人織田有楽斎は当初織田長益(ながます)と名乗っていた。織田信長とは13、歳が離れてはいたが、信長の実弟であり本能寺の変の時は、信長の長男信忠の旗下にあった。信長討たれる、の報に接すると信忠に自害を進言し、切腹させ自分は逃げてしまった武将である。
当然、世間からはもの笑いの種とされた。だが信長の実弟として天下を取ろうなどと、奮起する気配は一向に見えなかった。その後、いくつかの戦いを経験するが生き伸び、信長の後継者となることを捨て、僅か3000石の大名となり、政治向きから遠ざかり千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられ、後には自ら茶道有楽流を創始した。織田有楽斎と名乗り、野心を捨てた茶人として豊臣、徳川に仕え、75歳の天寿を全うした人物である。
花は桜木 人は武士、と言われるように、潔(いさぎよ)い生き方とは正反対の生き方をしたこの御仁、有楽斎は現在の東京有楽町の名の由来とされる俗説もあるが、歴史の裏に潜んだ人生いろいろである。




2011年10月10日月曜日

日本人の根底にあるもの 3

縄文晩期 宮城県恵比須田遺跡

風土と地理的条件は国民性を作り出す重要なファクターであるが、われわれ日本人のルーツをたどれば、先史以前の縄文時代から周りを海に囲まれ、外敵からこれといった侵略を受けてこなかった幸運や、自然豊かな海や国土の多くを森林によって育まれた自然の幸に恵まれた環境の中で、心穏やかに暮らしてきたものと思われる。やがて縄文晩期になると大陸からの流民が徐々に入り込み、弥生時代を迎えるが,多少の抗争はあったものの、大陸型の過激な侵略や抗争にはならず、ゆっくりと混血が進み文化的なイノベーションが進行していったものとみられる。
縄文系弥生人も渡来系弥生人もそのルーツはユーラシア大陸から移住・渡来した人々にあり、それぞれが日本の民族集団を形成する一部となっていった。
考古学では日本の縄文時代が始まったのは、今から1万5千年前と見られている。
古代文明の発祥地のことごとくが森林を失い、砂漠化とともに滅亡した史実を、「文明の滅亡は森の喪失である」という歴史的検証を著したジョン・バーリンが『森と文明』の中で、すべての文明発祥の地が森を開くことで興き、森が失われることで滅んでいったことを述べている。そんな日本は、長い歴史の中で平成のこの世でも国土面積の66%を保持している世界有数の森林大国である。地球上の人口爆発で森林が消失していき砂漠化が進む中で稀有な国ともいえよう。

地球上では約1万年前に始まったといえる「農業革命」すなわち「狩猟・採取」から「農耕・牧畜」への進化による、人口増加を契機に、森林の伐採が始まっていった。ここには「文明」を獲得するために、森林を破壊消費するという必然性があり、やがて緑豊かな土地の砂漠化が進んでいく。そしてそうして得た文明が、森林の消滅によってやがて砂と共に消え去るという皮肉な結果をもたらした。そして民族間あるいは他民族との血で血を洗う略奪と侵略の歴史は世界史を飾っていく。
そして砂漠化した中東アジアの一角に、根を等しくする三つの宗教が誕生する。すなわち「キリスト教・ユダヤ教それにイスラム教」などの一神教。同根でありながら「導き人」の予言者を異にし、相互へだたりを深め、相克しあっている。 しかしいずれも「砂漠の思想」であり、排他的色彩が濃い。例えばキリスト教などはキリストの教え<汝人を殺すことなかれ!隣人を愛せよ!>などはどこ吹く風で、歴史上新旧キリスト教同士、あるいは他神教との戦争など殺戮の歴史を見れば一神教の欺瞞性と過激性を語るに事欠かない。

日本には、始めにそこに森と結び付いた文化・宗教観があってこそ森の保持が出来たということもあり。温暖な森林地帯は温和な多神教(八百万の神)を生み、過酷な砂漠地帯では、峻烈な一神教が生まれた。森羅万象に神を見、事に応じ時に際して神に祈り、他国の神との共生を果たしていく、この神という概念の柔軟さ、悪く言えば節操のなさが日本人の特性であろうか。
何事も和をもって尊しとなす、として全てを丸く収める指向性も、自然に恵まれた農耕民族の狩猟民族にはない特性であろうか。


日本人の起源より
古代日本を俯瞰してみると、日本古代史は隣国中国古代史と繋がっている。中国史は複数民族の存在による民族興亡史でもある。今の中国領土の大きさはEU(欧州連合)と大体同じ大きさであり、そこには複数民族がいたし、今も複数民族で構成されている。中国古代史もこの民族の戦いだった。この民族戦争で負けた方の民族が日本に逃れてきたことが、近年の考古学の調査で分かってきた。(参照)日本人の起源
余談ではあるが私は仕事上中国産の漆を扱っているので、アジアで発掘された遺跡から出土された最古の漆器あるいは日本で発掘された漆で彩色された縄文土器や漆器などを文献で見てきたが、中国産漆と日本産のとはDNAも違うことが分かっている。右は北海道で出土した縄文晩期の丹塗り(朱漆、ベンガラのようにも見える)で塗り上げた土器である。


さて1973年・1978年の発掘調査で発見された中国浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)は紀元前6000年~紀元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。稲作を行っていた事からその住居は高床式であった。またそこの稲はジャポニカ米であり、その原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。
中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000年 - 紀元前2500年)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300年 - 紀元前2200年)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果と考えられる。ここに住んでいた民族は苗族(ミャオ族)で、台湾の先住民でもあり、弥生時代に海を渡って日本に来ることになる。

長江の民・苗族の一方は、雲南省などの奥地に追いつめられ、その子孫は今では中国の少数民族となっているが、「その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたようだ。」と報告されている。この苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されている。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われているという。
河姆渡遺跡が滅亡した時期に日本へ苗族が最初に渡り、日本の岡山県・朝寝鼻貝塚(紀元前4000年)に水田を作り、そこから米の化石が出たことに通じ、長江中流領の馬橋文化は約4千年前から2千7百年前であり、その後、苗族が日本に渡ってきた二陣目が、日本の菜畑遺跡、紀元前700年の水田跡に繋がる。その間の文化も侵略を受けて、徐々に日本に移民したように思われる。ここまでの文明は文字を持たないために記録がないが、縄文人と弥生人との見事な融和が作り出したハイブリットな文明は以後日本文明の礎を築いていくのである。

2010年4月20日火曜日

日本人の根底にあるもの 2

禅の心


釈尊(しゃくそん)(釈迦のこと)は、輪廻転生(りんねてんしょう)から解脱(げだつ)して、永遠の安らぎ(涅槃(ねはん))を得るために苦行をした。

しかし苦行では目的を達成できないことを知って、菩提樹(ぼだいじゅ)下に坐禅を組んでヨーガの行に入ったのである。 こうして自らの自己に目覚め悟りを得られた。これが仏教の始まりである。
こうした坐禅によって悟りを得る、インドの禅を中国に伝えたのがボーディーダルマ(Bodhidharma:菩提達磨(ぼだいだるま))である。



                十牛図(じゅうぎゅうず)


人生について、ある心理学者は、「自己実現の旅」という言い方をする。つまりこの十牛図の絵において、表現されていることは、いかにして自己実現の道に到るかをやさしく説いた絵本なのである。まずは「牛を尋ねる」と思うこと。ここから自己実現の道は開始される。



本来の自分を見失った者が、”自分”を捜す様を牛の図によって示す。"本来の自分"が牛によって表されている。十枚の絵の中では、牛は途中で一度消えるが、また出てくる。十牛図は無我とは何か? を、10の段階を追って示したものである。
これらの図は、禅において悟りを牛に例え修行の道程を表現するために用いた説明図である。この道程には、禅に限らず、書道・華道・歌道・武道等、道を求める者にとって共通のものである。

尋ねる牛と書いて、「尋牛」(じんぎょう)という言葉がある。これは禅の精神を分かりやすく伝えるマニュアル本「十牛図」の第一の絵である。

牛(幸せ)を求めて牧童が旅に出たが、牛は簡単に手に入らない。牛を得るためにはすべてを投げ捨て命がけの修行が必要であるが、「果報は寝て待て」というのは幸運はあせってもどうにもならないものであるから、あせらずに時期が到来するのを待てという意味で仏教においても一面の真理でもある。

けれど禅においては求めるものを得るためには苦労に苦労を重ねることが重要であると説かれている。

だんだん道を歩いていくと、男が何者かの足跡を見つけた。近寄ってよく見ると、どうやら牛の足跡ではないか。とうとう牛を捕まえるチャンスがあるかもしれない。このことを見跡(けんせき)と言う。
牧童は苦労してやっと牛の足跡を見つけた。これこそ牛(幸せ)の足跡だ。修行僧でいうとお経や先人の言行である。幸せとはどんなものであるかということは知ったような気がするが、幸せになったわけではない。足跡はあくまで足跡であって、牛そのものではない。

男はその足跡を辿って、道を外れ、山の方に分け入っていく、もはや怖いものはない。どんどんと山奥に分け入っていく。するといた。真っ黒い牛の尻が見えた。まさか熊ではないはずだ。尻尾もある。あれは間違いなく牛だ。これを見る牛と書いて「見牛」(けんぎゅう)という。幸せとは何かという話を聞き、自分もそうなれば幸せであると思っている段階で、自分が幸せになったわけではない。ただ何となく幸せとはこんなものだという形を知ることができた。


さてこの牛をやっとの思いで。牛の鼻に手綱をかけた瞬間、牛(幸せ)を自分の手でつかんだが、しかし、牛は嫌がって逃げようとする。逃がしてはなるものかと懸命に努力して、せっかく掴んだ牛(幸せ)を放すまいとしている姿である。幸せを自分のものにすることは容易ではない。いつ自分の手からこぼれ落ちるとも限らない幸せをつかんだ図、この絵のことを得る牛と書いて「得牛」という。


捕まえたと言っても、まだまだ牛は野生の心を持っていて、男はこの牛を調教することに心血を注ぐ、頭を撫でながら、鼻管を通して、手綱を引く。次第に牛もおとなしく従うようになった。逃げようとして暴れていた牛がやっとの思いで慣れてくれた。牛を飼い育てることに成功し、幸せを手に入れた。
この絵を「牧牛」という。





男はこの牛を田舎に連れて帰ろうと思う。そこで旅の支度をして、牛に乗り、意気揚々と道を歩いていく。今や自由に繰れるようになった牛の背に乗り笛を吹きながら家に帰っていく心境で、自分と牛が一体になった姿を現わしたこの絵を「騎牛帰家」(きぎゅうきけ)という。






家に帰った男は、田舎の家で野山に囲まれて、悠々自適の生活をしている。もはや牛は家畜となって、彼の前にはいない。物思いに耽っているのか。座っている男がそこにいるだけだ。家に帰って牛(幸せ)のことは忘れてしまった。
牛と自分が一体になったのであるが、実は牛は外のものではなく自分の内にあるものであるということを知った姿である。
外の牛と一体となり幸せを得たのではなく、むしろ求めるものは内にあった。すなわち求めるものは他になく、自分なのだ。
この絵のことを牛を忘れ、人だけが存すると書いて、 「忘牛存人」(ぼうぎゅうそんしん)という。



この絵を、十牛図では、禅的な最高の境地としている。この奇妙な画面を、人も牛もともに忘れると書いて「人牛倶忘」(じんぎゅうくぼう)という。禅では仏になってもそこに止まることなくそれを超越し更に止揚せよと教えられる。
迷いも悟りも無く、仏も凡夫もない。空(くう)そのものである。
ここは、空円相という。円は真実を示す。今までの絵は、すべて円の中にあった。これは、仏教の「空(くう)」である。
死してまた蘇る我、絶後再蘇(ぜつごさいそ)、本当に蘇った我を表す。

つぎに枝が生き生きとせり出した絵が見えてくる。その背後には生命力に溢れた春の野山がある。この絵のことを「返本還源」(へんぽんげんげん)という。本来の根源に戻ること。ひょっとしてここは天国なのかもしれない。人の影はどこにも見えない。 幸せを求め旅に出、求めつくして自分のものにし、それすら忘れた世界に帰ることである。本当に人間、真の人間に立ち帰るのである。

幸せになってみても、なる前も「柳は緑 花は紅」であり、自然界はなんら変りはないのだ。

栄枯盛衰も飛花落葉もごく当たり前の姿なのであって、偽りの世界に生きている私たちが真実の世界に立ち帰ることである。この絵は、無我性の具現化したものである。梅花は、我ならざる”蘇った無我の我”である。


最後の絵では、太った男が街にきて、何かを誰かに渡そうとしているシーンが見えてくる。この絵を街に入り、手を伸ばすという意味をもって「入廛垂手」(にってんすいしゅ)という。何ものにも捕らわれず、ただ思うがまま、生きて間違いのない境地に達した男の老いた姿であろうか。
「てん」は汚染した俗界のことである。
垂手とは手を垂れることであり、人々に教え導くことである。



さてこうして牛を尋ねることから始まった男の人生絵巻が閉じられる。いったいこの絵で登場する牛とは何であろうか。あなたは牛をどのようにイメージするだろう。牛を自分自身の本来の心と考えることも出来よう。元々自分というものは、自分の内面にありながら、あたかも野生の牛のように御しがたく、簡単に調教できるようなヤワなものではない。牛を探そうとすることは、つまり本来の自分を見つけようと心を決めた状態をいうようだ。

2010年3月3日水曜日

日本人の根底にあるもの

                      涅槃の図

日本の伝統文化のほとんどには「道」がつく。柔道、剣道、茶道、花道、しかりであり、挙句の果ては外来スポーツである野球にまで「野球道」なる言葉が存在する。
我々伝統工芸に身を置く者も、その背後には道なるものが存在する。広島大学の川上恭司教授が日本人の精神構造の根底にある仏教感について述べているので私感を交えて紹介しよう。                                                                                        

● お釈迦さまが教えた6つの教え

仏教用語に六波羅蜜という言葉がある。京都の六波羅もこれが語源である。これは、今から2000年前、お釈迦さんが教えた人間トレーニングプログラムとして、提唱されたものであり、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の6つをやれば、人間が磨かれると教えてくれた六波羅蜜なのである。六波羅蜜とは。「六度(ろくど)」ともいわれる。サンスクリット語の(Paramita パーラミター)、玄奘以降の新訳では波羅蜜多(はらみた)は、仏教における菩薩の基本的な実践徳目である。


 その1.布施

坊さんにお布施をすることもそうだし、笑顔で相手をいい気持ちにさせるのも布施業である。スポーツで人々に夢や勇気を与えるのも、布施業の一種だし、「世のため人のため」も、もちろん布施業である。別の言い方をすれば、坊さんに銭をやれば、自分の人格が磨かれるというものである。真偽は不明であるが・・・いわば人に徳を施すということか。

 その2.持戒

人間は生きるために、食欲、性欲、独占欲等の煩悩を必然的に持たされており、もちろん、これら基本的欲求がなければ、生物として存在できない。しかし、往々にしてこれら煩悩は際限がなくなり、食べ過ぎてメタボになったり、性欲の虜となり社会的地位から家庭から全て無くしてしまう事がよくある。
これらの欲求はどれも人間として必要不可欠なものであるが、問題は、これらをコントロールできるか否かなのである。腹八分目で食欲をコントロールする力、性欲を抑えておく力など。(タイガーウッズは18番ホールを超え25番ホールまで飛び越し身を持ち崩したことで一躍時の人になったが。)これを戒め、持戒と言う。これをコントロールする練習をすれば、人格が磨かれると教えている。ゴルフにおいても如何に欲をコントロールするかがスコアメイクの秘訣であるらしい。私は自分がストイックなスポーツに向かないことを悟ったので、ゴルフを辞めテニスに変更したが、精進が足りないのか一向にうまくならない。

 その3.忍辱(ニンニクと読む。食べ物ではない)

“耐え忍ぶ”だけで人間が成長するようである。素行の悪い子供を、野球部等の運動部に入部させ、理不尽なしごきの中で耐え忍ぶだけで立ち直って行く例とか、古い例では戸塚ヨットスクールでの更生の例などがある。昔から“辛抱する木に花が咲く”と言われており、耐え忍ぶこと、辛抱すること自体にも意味があるようである。体のでかい不良を相撲部屋に入門させ、稽古で理不尽なしごきに耐えさせるだけで人格が磨かれると言うことで、かわいがりと称してしごきとリンチを加えた相撲部屋の事件もあったが、いずれにせよ堪忍袋の緒が切れるという言葉もあるとおり、忍の名のもとで行われる愛の鞭と制裁虐待は紙一重のところにある。私の知っている修験僧の話を聞くと、極限の忍耐を体験した者は特有の境地を切り開くらしい。

 その4.精進

この言葉はあらゆる世界で使われる。日々の練習の繰り返しのみで、人間が成長するということらしい。、イチローは、学問的には大したことはなさそうであるが、コメント一つ聞いただけで人格者であることが解る。たかがボール遊びで、あれだけの人間性ができあがる原因は、忍辱、精進その他の六波羅蜜の修行の賜物かもしれない。芸の道、芸術の道、アホなことを言って人を笑わせるお笑いの道、すべてが精進である。

 その5.禅定

禅の心、動じない心である。この心を磨くことで人格を上げて行こうという試みが禅宗であるが、凡人としては、なかなか難しい心境である。どんなスポーツでも平常心は大切であり、宮本武蔵は特にこれを磨くことによって強くなったと言われている。相撲も同様、この不動心で強くなっていくが、結局は人格を磨く方法論なのである。すべての戦いにおいてプレッシャーに負けない心を持つこともこれに通じる。

 その6.智慧

六波羅蜜では1から5の修行ができた後に、智慧が浮かんでくると教えている。すなわち、布施、持戒、忍辱、精進、禅定等をクリアしたら、世の中が見えてくるらしい。スポーツで言えば、無意識のうちに相手の動きが見えてくる超能力の領域である。王、長嶋、大鵬、青木等かつての名プレーヤー達は、ほとんど理解不能なコメントを残している。
道は違えども、人の営みは全て六波羅蜜のトレーニングプログラムで自分を訓練していると言える。スポーツ選手も、漁師も、大工も、芸術家も、企業経営者も、医者も全て、人助けをし、自分を戒め、耐え、精進し、心を落ち着けて、自分を磨いている。日本人は、伝統としてこれらを「道」と捉えてきた。剣道、柔道、相撲道、野球道、茶道、花道、大工道、左官道、医道、果ては極道まで、全て自分を磨く道なのである。


                     阪神大震災

現代に生きる日本人も、無意識のうちにこの価値観の中にあり、オリンピック選手が出発時に「皆さんに夢と勇気を与えるために頑張ります」と布施行らしきものを称えている。昨今の朝昇龍の一件も「品格、品格」と定義の曖昧な価値観でチャンピオンが非難されるのである。ここから外れたものはたとえ横綱とはいえ排除される。それが日本人の伝統というものである。所詮モンゴルからの出稼ぎと言われても仕方がない。
日本人をよく現わした事例では、阪神大震災で多くの人々が被災したことが世界に報じられたが、その後の復興までの道程の初期の段階で、ハイチやチリの大震災時の略奪、放火、横流し、戒厳令、あるいはアメリカなどで起きた被災地に見られる数々の犯罪のようなものが、ほとんど見られないことが奇異に映り、世界の目から見て日本人の規範のようなものが、驚きの眼差しで見られている。日本人の面目躍如たる好例である。

2009年1月2日金曜日

八百万の神々





今年も初詣は地元の御霊神社から鶴岡八幡宮へハシゴした。どうも正月は神社仏閣に参拝しないと落ち着かない。日本人の特性だろうか?欧米人から見るとどうやら日本人は無宗教の人種に映るらしい。我々は欧米人とは違う神との関わり方を持っており、欧米の宗教であるキリスト教は(God)は唯一の存在である。日本の神はどれもが等しく人々の信仰の対象になりうる。だが日本における信仰の存在は、神社や神棚に祭られている「神」だけではない。仏教の「仏」も同じ次元で信仰されて、土着の信仰が外来の仏教に組み込まる習合もあり、この特異性は明治の神仏分離以後も継承されている。
                                             (鶴岡八幡宮)


日本人は現在でもさまざまな儀式儀礼において各宗教施設に詣でる。まず生まれた時や七五三などは神社に、そして死を迎えた時の葬式は仏式がほとんどである。そして結婚式をキリスト教教会で行うこともある。この無節操な壁のない宗教観こそ日本人の特質ではなかろうか?
我々の身の回りで日本人はあらゆるものに神を見出してきた。住んでいる土地屋敷、先祖、身の回りの物ならなんでも。もちろん商売繁盛の神様[稲荷神社]や七福神、果てや悪さをするカルト宗教など数え上げたらきりがない、まさに八百万の神である。


いずれも自分たちの生活に密着してご利益のあるものが信仰の対象になりうるのである。そこにあるのは深遠な宗教体系に基づくものではない。このことはキリスト教徒やイスラム教徒のように厳格な決めごとに従って生活している人々とは違った位置にいる。 困った時の神頼み、鰯の頭も信心から,家内安全、無病息災、福徳開運、五穀豊穣、大漁祈願等々、日本人の神様に対する祈願は多い。




西洋諸国では中世の500年ほどの間、宗教戦争を繰り返していたが、いわゆる国民国家が形成される過程において、「国は個人の宗教に干渉せず、宗教は政治に介入しない」と言う政教分離が確立された。日本では織田信長によって政治と宗教が結びつくことを禁じた。それは一向一揆との対決や比叡山焼き討ちと言った過激な手段で実現した歴史がある。


オウムの事件があってから、国は宗教に対する警戒心は深まってはいるが、創価学会を有する公明党には、連立政権党でもあることからその目も濁りがちである。また過去にたびたび政教一致が取り沙汰され、世の批判を受けてきたこの公明党と自民党の関係も、昨今の政治事情から隙間風が吹いていることは否めない。




現在くすぶっている中東戦争の序曲であるイスラエルとハマスの紛争は、もともとエルサレムにいたユダヤ人と入植者のパレスチナ人との領土争いである。その根底には迫害と受難の歴史を持つユダヤとアラブとの長い闘争がある。


いわゆるユダヤ民族の起源は、紀元前二十世紀にさかのぼる。当時彼らは、カナン(後のパレスチナの地にあったが、その後、飢饉に襲われたことから、エジプトに移住し、奴隷、賎民として徹底した差別を受けやがてエジプトを脱出する。これが、かのモーゼ率いる「出エジプト」である。


 再び、カナンに集った彼らは、ユダヤ教の教えに基づいた統一国家を樹立したが、やがてアッシリアやバビロンに征服され各地に雲散してしまった。こうして流浪と離散の民族がイスラエルを建国するまでの歴史が続く。1948年のイスラエル建国まで、ユダヤ人国家というものは一度も成立することはなかったのである。

いずれにせよ今問題の世界の弾薬庫である中東は、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教が混在している所で、今後とも紛争は収まりそうにない。