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2016年1月7日木曜日

アートな話「アートの眼」

「眼」エッシャー  1946


 
脳科学者の話では、人間の大脳皮質の3分の1の領域が「見る」機能に充てられているのだそうだ。勉学や仕事や趣味や人との付き合いなどで日々、頭をひねり、心を砕き、一喜一憂することが山のようにある中で、物を見るだけのために脳の半分近くを使っていることになり、このことは、見るということは決して単純でも簡単でもなく、とてつもなく膨大な情報処理を必要としていることを裏付けしている。見ること,すなわち我々を取り巻く世界の認知の大半が視覚に依存している。自然環境としての外部世界はもとより、人間社会における情報のすべてが文字・図形・静止画 像・動画像という形式で視覚に訴え、働きかける。また人間特有のイメージ喚起能力も眼前にないものを頭の中にイメージ(視覚化)することであり、過去に蓄積された視覚像を喚起して頭の中の「視覚像」が世界の認知に果たす役割は非常に大きい。
また見たいもの見たくないものによって、視線の集中度合いが異なり、視線はモノの特徴点を随時移動しながら形をとらえていく。いみじくもかつてサルトルが「想像力の問題」のなかで、事物を見ることの眼差しに対する考察において、見る行為を対象物を所有する概念に置き換えたことに少なからず衝撃を覚えたことを思い出す。

頭部を固定し、1点を凝視した状態で見える範囲を視野といわれているが、視野計による調査では、「人」の視野は左右約200度・上下約140度といわれ、 この場合左右については大差ありまりないが、上下に関しては上60度・下80度と下の方が 広く、日常生活ではさらに下の方が優位になるようだ。このことは、我々の身の回りの物は大部分が眼の高さより下にあって、とりあえず注意を払うのは目の高さから足元ということになる。

一方で厳しい自然界で生き残っている動物たちは、人間とは違った視界を持つことで有利に生存競争を戦っている。大半の動物は眼が顔面の両側にあって、各々の視野が独立するかたちでほぼ360度の視野をもつのに対 し、人間の場合は両眼とも前方を向いていて、左右の眼の視野の共通領域が広くなっている。つまり両眼での全体の視野は狭いが、両眼視による奥行き知覚 が有利になるという特徴をもっている。
このことは、「人」以外の動物が障害物や外敵といった自然環境に関する情報を重視するのに対し、「人」はそうした情報よりも相手の表情やしぐさ、あるいは 文字や画像情報といった同種のもの同士でのコミュニケーションに関わる情報を重視することを物語っている。

さてこの奥行き知覚であるが、目の構造上本来2次元である網膜像をもとに、我々は奥行きを含む3次元の世界を認知している。
この奥行きを知る手がかりには絵画的要因がある。 絵画的要因とは、大きさ・上下・重なり・きめの勾配・色調・コントラスト・明暗・影のできかたなどで、配置や描きかたによって奥行きを知る手がかりが得ら れるというものだ。 そのほかに視点が移動中の車窓などで見られる風景で、近くの風景と遠くの風景とでは移動のスピードに差があり、この運動視差による奥行き知覚もある。いずれも視覚に潜むアートな話で今年も始まりそうだ。

2015年11月9日月曜日

アートな話「芸術と経済」


私の好きな日本の画家に田中一村(本名、田中孝)がいる。生前は、まったくの無名の画家で、明治41年(1908年)仏像彫刻家の父の長男として栃木県に生れ、69歳の1977年に、日本の最南端の奄美大島で画家として認められないまま、孤独の生涯を閉じている。南の島奄美の自然を描いた画風は昭和の若冲とも称され、飽くことなき動植物の写実に徹し、どこか平坦で装飾的な画面から漂う躍動感と静けさは、アンリルソーにも似ていて、また日本のゴーギャンともいわれている。



神童と呼ばれ、若くして水墨画にその才能を発揮した彼は4、7歳の時には児童画展で天皇賞もしくは文部大臣賞を受賞し、10代では、蕪村、木米らを模した水墨画を自由に描いたという。
1926年、18歳にて東京美術学校(現東京芸大)の日本画科に学ぶが、父の病のため中退。同期には東山魁夷がいた。その後、家族を養うため水墨画を描いていたが、従来の水墨画を捨て、日本画にもどってみたものの、画壇からは不評であった。

日本美術展覧会(日展)、日本美術院展(院展)に何度も応募するが落選を繰り返す。名の売れた画家になりたいという夢が強かったと言うが、中央画壇で認められることはなかった。
 50歳の時に出品した作品は、自分の絶対的自信作であったが、これも落選。東京美術学校の同期生は、すでに審査員になっているものも多かった。中央画壇に失望した一村は、すべてを捨て、そして、一人、日本の最南端の奄美大島にわたる。そして生計のため大島紬の染色工になるが、無口で、あまり他人と交わることはなかったという。生業以外の余った時間はただ、ひたすら絵を描いていたという。画集の写真からうかがえる貧しい生活も、やせ細った身体も如何にも満足げである。そこにはゴッホのような貧しさの果ての狂気は見いだせない。
 
奄美大島に来てから描いた花鳥画は、自然を愛し、植物や鳥を鋭い観察眼で、精緻に描いた、いかにも熱帯の日本画、と呼ぶにふさわしい大作が何枚もある。一村のエピソードでは、彼が描いた村人が、亡くなってから家に飾るための遺影として、どの家にも大切に残されているという。貧しかった村では、写真にして遺影を飾ることができなかった。そこで、絵で代用をしたそうだ。
神童と呼ばれ、画家としての将来を期待されながら認められず、外側からだけ見れば、悲運の人の生涯であったようだが、本人にしてみれば好きな絵を描いて、貧しくても幸せで孤高の人生を全うしたのだろう。


奄美パークにある田中一村美術館
 
中央画壇で認められたいと、悪戦苦闘し、夢破れて、俗世間から離れ、一人自分の志を守り、静かに去って行った一人の無名の画家。そこに垣間見るのは男の美学か。現在奄美大島の奄美パークにある田中一村記念美術館に機会があれば足を運んでみたいと思っている。


思えば芸術も、我々に身近な経済も人それぞれの人生を語っている。人間の営みの根底にあるものが経済で、これなくしては個人も国も社会も成り立たない。バブルのころならいざ知らず、今の時代、芸術で飯を食うのは難しい。芸大を出ても二足わらじの人もいれば、芸術とは関係のない仕事をしている人もいる。幸いにして絵で食っていける人でも、世間に迎合すれば芸術家精神の堕落が始まる。
いっそ商業主義に徹したデザインの世界や工芸の世界であれば、その葛藤は少ないだろう。なぜなら消費者あっての生産者(製作者)であることが前提にあるからだ。
一般消費世界では、把握しきれないほど多量なモノや情報が、限られた消費者の関心を奪い合っている。良いモノさえ作れば売れたような時代は終わりつつある。前時代の希少性とマスメディアの情報独占に操作された価値観は、ネットの出現により、知識や情報の源泉が広く分散され、消費者の関心を引きつけるものは、モノに内在するエンターティメント(面白さ)とモノの属性、即ち、デザイン、性能、品質と消費者にとっての有用性であろう。芸術は長く、人生は短し。されど人生の基盤は経済である。







2015年9月19日土曜日

アートな話「百年の愚行展」


『百年の愚行展』が、8月22日から9月27日まで東京・秋葉原の Arts Chiyoda1階ギャラリーで開催されている。
同展は、書籍『百年の愚行』および同書の続編となる『続・百年の愚行』の展覧会。2002年に刊行された『百年の愚行』は、20世紀に人類が犯した愚行を10に分類し、写真やエッセイ、コラムで紹介した書籍だ。昨年に刊行された『続・百年の愚行』は、アメリカ同時多発テロ事件や「3.11」にまつわる事象を含む21世紀以降の「愚行」を約50点の写真を通して紹介している。


会場風景

『百年の愚行展』は、21世紀に入った現在もなお続く暴力、環境破壊、経済格差といった問題について議論し、行動するきっかけづくりとして開催。2冊の書籍で紹介された20世紀から21世紀にかけての愚行を象徴する写真を展示するほか、国内外で現在進行している様々な動きについても映像を使って紹介している。



会場風景2

20世紀に犯した人類の数々の愚行の写真100点と、21世紀に入っても人類の愚行は増大するその続編が50点の写真集を追加しての今回の展覧会。それら出版物の中の写真パネルや、画像VTRが狭い会場を埋め尽くしている。神の視座にたてば人間のやっていることは愚行に映るのだろうが、これらの画像や映像を見て、どうにもならない厭世的な気分に陥るのは私だけではないだろう。

対義語の辞典によると、愚行の対極にあるのは快挙であり、20世紀はあらゆる分野(自然科学、生物化学、宇宙科学、産業革命、情報革命、エネルギー革命)などのイノベーションが人類の快挙とするならば、対極にある負の遺産である戦争、難民、環境破壊、原発、格差、資本主義の病根が人類の愚行と深くかかわっている要素である。人類史をあえて俯瞰してみれば、戦争と戦争の間にある平和,力と力のバランスの上でかろうじて成り立っている平和というものが長く続かないことが見て取れる。戦いの無くならない世界、これは人間のカルマ(業)のなせる業であり、我々はカオス(混沌)の世界の住人でもある。人間が自助努力をしてもその力は微力であるが、この愚行の数を減らす努力は続けなければならない。そういった志向性をうながすカメラの目は我々に黙示録として語り続けるだろう。

2015年8月11日火曜日

アートな話「色と形そして未来」

日本の伝統色


日本文化の個性として色に象徴的に現れる中間色やそれぞれの色に、自然を手本とした呼び名があるように、一つの色をとっても階調が豊かで情緒的で、他国と違った曖昧さの残る感性が、日本人の特性を表している。その根底には、絶えず変化する自然が色という表層から、色の移ろいやすさを感じ取り、色の境界線が曖昧なまま日本文化の特徴を示している。そのことは四季のない他国では見られない風土と自然が日本の文化を育んでいることと関連している。


遠近法と地平線
 
 
 
 
一方ものの形を表す線については、曲線と直線が有る。曲線が繋がるところに真円あるいはアットランダムな歪んだ円が存在する。そして自然界の動植物も円から派生した曲線から成り立つ。唯一自然界で認識される直線は、地平線(地球の成り立ちからいえば曲線)である。
古今東西、絵画における地平線は直線で画面を天と地に分けられるが、その画面における比率は、作者の感情表現に委ねられる。直線は上下縦横を分ける線であり、天上と地上、物と人、人と人の間を分け、区切りをつける言わば境界線でもある。それは情緒的な曲線とは違って、知性の線である。

西洋の古典派の画家たちは、空間を写実的に描くため、事物や建造物など人々の周りに存在するもののリアリティーを表現するため、必然的に直線が抽出され、隠れた直線とも言えるパースペクティブの遠近法を忠実に再現して行く。
そして西洋の遠近法は、ダビンチに代表されるように目から遠ざかる対象は縮小し、色彩の変化と、形のボケ、並びに空気遠近法まで持ち出して、対象が遠ざかるほど空気の色が青に見えると言った、合理主義的な形態の把握を志向している。それとは対象的な日本の逆遠近法は、西洋の理知的な合理主義とはかけ離れた、情緒的とも言える、西洋から見たら驚く手法をとっている。




現代絵画では、理知的な直線をどこまでも追求し、直線の交差するせめぎ合いから、理知的な直線から一歩抜け出た、リズム感と叙情的な直線を表現したモンドリアンの絵画が見られる。

絵画の歴史の中には常軌を逸した、画家たちも多い。その中に見られる一種強迫観念に憑かれた偏執狂的な作風の画家達。
 細密画で知られるブリューゲル、偏執狂的な色彩とタッチの絵が特徴で、最後は精神を病んで自殺したゴッホ、 自らの制作方法を、偏執狂的批判的方法と称して、写実的な描法を用いながらシュールな風景画を書いたダリ、 幼くして統合失調症を病み、幻覚幻聴から身を守るために作品を水玉(ドット)で埋め尽くす草間彌生、ウイーン幻想派  レムーデンなどなど数え上げればきりがないが、番外編では スペイン出身の建築家ガウディがいる。バルセロナにあるサクラダファミリアも、市の財政難のため建築が中断され、未だ未完成のままだ。

二十世紀後半のシュールレアリズムに見られる、意図的に無意識の世界に創造性の根拠が求められ、知性と感性を内包した交流を意識と無意識の相互交流の中で表現を求めた潮流から、一転して現代美術は現代の無機的な社会構造、テクノロジーの進歩に呼応するようなテクノロジーアート、クールアート、ハプニング、コンセプチャルアート、インスタレーションなど、従来のような有機的でヒューマンなものを否定するトレンドが見られる。中には映像を駆使したものや、コンピュータを利用したものなど視覚芸術の革命というべきステージに来ている。

Kaleidoscope with Mirror HARRIER」インスタレーション

人間の感覚器官の一部が電子機械で外部に向かってアウトプットされ、知覚系にある内容がボタン一つでプログラミングされているコンピュータから色や形になって発信されて行くのである。この流れはどこに向かって行くのだろうか?近未来には、かつてのヒューマンなタブローを回顧し復興させる流れがくるかもしれない。コンピューターが人間を支配する危うさが予見されるから、やがて人々は危機感を持つことになるだろう。なぜなら機械には自分を制御する感性も心もないから、誰もその暴走は止められないからだ。

2015年2月7日土曜日

アートな話 「生の根源」



上の絵はゴーギャンの 「我々は何処からきたのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」である。自己の存在から人類の存在の不思議へと思いを馳せたこの放浪の画家は、異国の楽園タヒチで、長年患った梅毒でこの世を去った。フランスでの娼婦との放蕩生活が祟ったのだろう。その病は共同生活をしていた狂気のゴッホも持っていた。ニーチェを始めボードレール、モーツアルト、ベートーベンなど史上の思想家や芸術家の多くが梅毒にやられている。この病、最後は脳に異常をきたすことで広く知られている。わが国でも16世紀には流行が見られ、江戸時代にはかなり多くの人々に感染した病であり、治療法も見つからないまま、五宝丹などと言った煎じ薬で対処してたようである。江戸の町人たちは病を普通のこととして受け入れていて、一説では江戸の民衆の半分はこれにやられていて、中には粋な病と吹聴する輩も居たようだ。もともとコロンブスがアメリカ大陸からヨーロッパに持ち込み、一気に広がったものであるが、日本では関西から流行りだし、江戸に渡ってくると吉原から一気に広がった。

この孤高の画家ゴーギャンは、株式仲買人(ブローカー)の実業の世界に生き、日曜画家として暮らしていたのだが、やがて日常生活に幻滅した彼は、折からの金融不況のため株式仲買人をやめて女房子どもと別れ、現代社会とは対極にある辺境の島タヒチに画家を目指して旅だった。
フランスでのゴッホとの喧嘩別れの末に、異郷の地タヒチに何を求めて行ったのだろうか。我々が彼の絵を見て感じ取るのは、土着性の強い人々と自然 を鮮烈な色彩で表現した彼の芸術性がタヒチで開花したことであろう。絵のタイトルは作家の創作意図を表した情緒言語であるため、非常に長いタイトルがつけられていて、哲学的な意味が込められている。未開の自然の中で思索を続けた果てに、生と死を見つめた画家の人生がそこにあった。初期のゴーギャンの作品は後期印象派の影響を強く受けたが、彼は次第に印象派を脱却し、単純で強烈な色彩配置やフラットで装飾的な構成を取り入れるようになった。そして島での生活の果てに病魔に苛まれた晩年の代表作がこの絵である。 絵の意味するところは、人間の一生だと言われている。
画面右側の子どもと、寄り添う3人の女達は「人生のはじまり」を、中央の人物たちは「青年期」をそれぞれ意味し、左側の人物たちは「死を迎えることに甘んじ、諦めている老女」であるという。解説を待たずしても我々はこの絵から直感的に人間の一生に思いを馳せるのである。

◎先端技術は芸術に近づく
衝突装置を分離するはやぶさ2のイメージ=JAXA提供

さて昨年打ち上げられた宇宙探索衛星「はやぶさ 2号」のミッションは、地球と火星の間を通る小惑星(1999JU3)から物質を持ち帰ることである。その収集した物質の中に有機物や水が含まれていれば地球誕生の謎が解き明かせることになるのだが、一般的に大きな惑星は地球と同じように進化が40億年の間に進んでしまっているが、その間進化が止まっている小惑星がターゲットになるという推論からこのプロジェクトがはじまり、初回のはやぶさの奇跡の生還から満を持して今回の打ち上げの運びになった。そしてそこから持ち帰った物質を分析検証の末に、我々の住んでいる原初の地球のなりたちが解明されるであろう期待を載せて宇宙を飛んでいる。

自然科学では、地球の歴史はおよそ46億年という定説がある。現在そこには数千万種を超える生物がいると推定されている。そのすべてはたった一つの生命から始まった。それが36億年前頃の海の中ですべてが始まったと推定されている。
このアナロジーの根拠は
1・生命体はかなりの部分水を含んでおり、人間の体も7割が水でできている。
2、生命が生まれた頃は、オゾン層が形成されていなかったので、地表に生物にとって有害な紫外線が地表に降り注いでいたため、安全な水の中で生命体が進化を辿ることになる。
3・生命の体液の組織は海の塩の素性と酷使していて、かいつまんで言えば、生物とは海水に炭素、窒素、リンを加えた成分からなっている。
そして様々な有機物から、原始的なミクロの生命が誕生し、長い進化の中で多種多様な生命体が発生したと推定している。
(海の生き物100不思議ー東京大学海洋研究所編より抜粋)

前回の1号による奇跡の生還は、日本の先端技術の結集が成せる技であり、まさに芸術的な神業と言えるだろう。今回は前回よりパワーアップと技術革新で世界の期待を背負っている。6年後の結果が楽しみである。
それによって我々はゴーギャンではないが、「我々は何処から来たのか、何処かへ行くのか、我々は何者なのかが」少し見えてくるような気がする。言えることは無から有は生まれないという厳粛な事実であろうか。

2014年10月9日木曜日

アートな話「鎌倉彫喜彫会展」

鎌倉彫喜彫会展 2014


10月1日から14日まで鎌倉彫会館で、喜彫会展が開催されています。
隔年ではありますが、昨年から今年前半まで各会員が制作した作品
58点を展示中です。
詳しくは喜彫会ホームページの新着情報をご覧ください。

近年、鎌倉彫も漆の仕上げの色の多様化が進み、各会独自の色合い風合いなどさまざまであるが、色は思案のほかと言って、なかなか自分のイメージした色に近づくには紆余曲折があり、一筋縄ではいかない。色調色相が無限にあるように課題も多いが、色が作品との調和を崩し、独り歩きしないように調整するのも塗り師の仕事の一つと思っている。


鎌倉彫会館
〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町2-15-13
JR横須賀線/江ノ島電鉄「鎌倉駅」東口徒歩5分
TEL: 0467-25-1500 / FAX: 0467-25-1501



2014年9月28日日曜日

アートな話「横浜トリエンナーレ2014」


「華氏 451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」という展覧会タイトルのもと、世界各国から65組79名のアーティストによる400点以上の作品が選定された今回の横浜トリエンナーレ2014を観た。
主催者が主眼とする2つのキーワード、すなわち華氏451(摂氏232)は紙が自然発火するとされる温度のことであり、いわゆる“焚書”がテーマとなった小説で、電波が生活の中心となり、本を持つことが禁じられた近未来の情報管理社会の世界が描かれているレイ.ブラッドベリの小説のストーリーのテーマである本を芸術に置き換えたものとみられる。

トリエンナーレでは「華氏451はいかに芸術にあらわれたか」というコーナーが設けられ、第二次大戦中に文学者や芸術家が書いた文章が資料展示してある。北原白秋や西条八十、高村光太郎、瀧口修造などが戦争礼賛を書いている。、結果としてそれらは戦意を煽り、戦争の熱狂へと国民を駆り立てていった。これらの資料展示されている文献は、戦後刊行された全集には収録されずに「忘却」されたものであることも付記してある。
  

マイケルランディー<アートビン>

もう一つのキーワードは忘却で、いずれも破棄消去への道が待っているが、思考停止の前にもう一度大事なものを取り戻そうといったメッセージが込められている。
最初のエントランスでいきなり面食らったのは、マイケルランディーのインスタレーション(展示 空間全体を使った3次元的表現)の大きなゴミ箱「アート.ビン」で、創造の影の部分として発生する事物や概念の破壊や廃棄をする場としてのゴミ箱が物として存在していた。真っ先にPC上の仮想空間におけるゴミ箱が浮かび、「さながら忘却の海か!」とつぶやいた。
現代社会は「情報の海」が世界の中心に存在し、今回のトリエンナーレでは、その裏に潜む「忘却の海」に観る者を誘い、記憶や記録から消え去った大事な「忘れ物」に思いを馳せ、これを様々な方法で気づかせてくれる作品に注目する趣旨の展覧会となっている。3年前の大震災のあった年に開かれた前回のトリエンナーレよりもコンセプトが明確であった。


大竹伸朗<網膜屋/記憶濾過小屋>

会場を見た限りでは、今という時間軸が近未来に忘却の彼方に葬り去られていく事への危惧を提示しているように思える。すなわち移ろいやすい現在は、過去に向かって溶解していくのと同時に近未来に向かって歩を進める。その際無数の忘却の海の中に我々は大事なものを忘れてはいないだろうかと立ち止まり、過去の事象を現在の時間軸の中で、いろいろな表現手段を用いて提示していく。あたかも芸術の語り部のように序章から始まり、1話から11話で完結する。
中でも印象に残った作品が11話の新港ピアの会場にあった大竹伸朗の網膜屋/記憶濾過小屋が個人的な歴史に刻まれた残存物の集積場のような見世物小屋仕立てで、絶妙の空間を楽しませてもらった。
タリン・サイモンの<死亡宣告された生者>と釜ヶ崎芸術大学<漂流する教室にであう>


今回は経時変化、人の行為の軌跡、メディア(ラジオ、テレビ、本)をモチーフとした作品がごった煮のように多かった。タリン・サイモンの《死亡宣告された生者、その他の章XVIII》のように、ウクライナの児童養護施設の入所者達との説明がなければ分からない作品も多く、中には今回トリエンナーレのアートディレクター森村泰昌とかかわりのあるNPO主催の釜ヶ崎芸術大学のコーナーもそのまんまで分かり易く対照的なものもあった。横浜発現代アートの国際展と銘打っているがトリエンナーレも一種の祭りである。


◆ ヨコハマトリエンナーレ 2014  横浜美術館~新港ピア

                     会期 8/1~11/3

2014年7月17日木曜日

アートな話「伝統産業」

伝統工芸品マーク

右は、ご存知の経済産業大臣が指定する伝統的工芸品マークであり、鎌倉彫もこの指定を受けている。国は「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」1974年公布に基づき、全国の伝統工芸品210品目を指定しており、経済産業大臣が伝統的工芸品を指定する要件は、以下の5項目になっている。

1.主として日常生活の用に供されるものであること。
2.製造過程の主要部分が手工業的であること。
3.伝統的技術または技法によって製造されるものであること。
4 伝統的に使用されてきた原材料であること。
5.一定の地域で産地を形成していること。

さて、戦後高度経済成長を経て、伝統産業も経済成長とともに成長してきたが、バブルの崩壊から長期的な経済不況が始まり、現在まで一定の経済回復はあるものの、本格的な回復はしていない現況がある。このことは経済社会において、単なる経済不況に留まらないトレンド、すなわち経済のグローバル化、生活者のニーズの変化、新たな流通の仕組み、さらにITの発達などによって、経済の構造変化が進んでいることが、複合的にこの業界に影を落としている。
このような時代の流れのなかで、日本人の暮らしの価値観、精神性といったものが忘れ去られていきつつある今日において、「和」の暮らし、考え方、センスを今一度見直すためには、その担い手である伝統産業の持つ意味は大きい。
しかし、高度成長期が終わったころから、全国の伝統産業の規模の拡大が止まり、今日まで縮小の一途をたどっている。業種によっては絶滅危惧種のような地方の地場産業もあるが、後継者も育たない状況は大なり小なり各業界が抱えている問題である。

私が仕事をしている鎌倉彫業界は、お稽古産業という特殊な形態が鎌倉彫総生産の80%以上を占めていたため、急激な需要の落ち込みはなかったものの、年々会員数の減少化は進み、会員の高齢化なども影響し最盛期の半数を大幅に下回り、下げ止まりが見えない状況である。一方で伝統産業の宿命でもある生産性の低さと高い技術力とは裏腹に、大量生産された紛い物(市場で鎌倉彫風と称して流通している安価な臭い製品)も製造業としての鎌倉彫のイメージを悪くしている。良い作品を見て消費者が眼力を肥やすのは望ましいことだが、生産者も消費者のニーズに答えるよう、常に創造力を磨く努力は怠ってはいけないと思う。

ここにきて生産基盤である原材料の減衰や,経営者死去に伴う廃業などで、唯一残っていた鎌倉市内の木地製造業者もいなくなり、今後は鎌倉市以外の地域で、限られた業者に材料の調達と木地加工製造を委託することになるようだ。これも時代の趨勢かもしれないが、組合も手の打ちようがないのだから情けないかぎりである。
鎌倉市も地場産業の鎌倉彫に対する思い入れも厚いとは言えず、市の助成金も雀の涙ほどで、このまま伝統産業の看板が廃れていくのは関係者としては忍びない。唯一の地場産業である鎌倉彫を守り、その活性化を促すのが鎌倉市の使命だと思うのだが。果たして市にその気概があるのかどうか疑問である。

2014年6月10日火曜日

アートな話「線について」

線と面が一体の作品
作者不詳

図案を起こすとき、そのよりどころになるのは1本の線である。何本もの錯綜した線がイメージの器から湧き出ては消え、新たな線を生み出す。事物の観察は数多くのデッサン、スケッチによってイメージとして蓄積されていくものだが、目に見える「形」に表現する要素の最小の単位は、「点」である。ある点が別な所へ移動したその軌跡が「線」を作り出す。また、点を集結させることによって「面」が出来る。点・線・面は表現の基本要素であり、それを用いて、構図、配置を決めていくまでに葛藤があり、やがてひとつひとつ決断をしていかなければならない。点・線・面の中で、最小でかつ簡単に、「形」を認識することのできる表現が可能なのは「線」である。

事物の形態は線で縁取りされているわけではないが、面として実在する事物は点の集積でもあり線の集積でもある。面と面を分けるエッジは線で表現される。1つの点の移動した跡、つまり軌跡によって生じる線は形を表現するベースの要素と言える。日常で我々は少なからず線的思考を重ねている。世界が分子、粒子のような点であっても、それらが動きつつあるもの、動勢、軌跡、過程、それら自然の造形を線として表現することにも慣れている。
私が図案を起こすときは、下絵をラフに不定形な線で趣くままに描き、仕上げはトレーシングペーパーで、下絵の中の無数の線から一本ずつ選び修正していく手法をとっている。
線には、見る者に何らかの感覚や感情を生じさせる「線の力」や「線の表情」といった風合いがある。平面における絵画空間あるいはデザインにおけるラフスケッチなど、線によって様々な表現がなされる。
絵画においては輪郭線のはっきりしたものや,曖昧なものまでいろいろな絵があるが、輪郭線は、現実には存在しない非存在の線である。現実の物や人体が、線で囲まれているわけではないが、しかし、絵画における様々な輪郭線を見てみると、 形が確定したことによって意味が生じ、平面的な感じが表現される。また形に動きや量感がでて、形が背景に溶け込み広さや深さと結びつき、共有する輪郭線によって異なる空間が現れる。絵画において直線が少ないのは、直線は、どこまでも幾何学上の線で無機的なものであるからだろう。

左はスイス出身の彫刻家アルベルト・ジャコメッティ(1901~1966)の人物デッサンで重なり合う輪郭線が特徴的で、線の集合は量感を生み出し男の存在感を際立たせている。浮世絵や日本画は線を基調にした表現が多いが、線が生み出す空間意識や構図のとらえ方は、特に浮世絵で顕著にみられ、西欧の画家たちに多大な影響を与えたことは周知のとおりである。

2014年4月1日火曜日

アートな話「世紀の日本画展」



3月も終わりになって、上野の東京都美術館で開かれている日本美術院再興100年 特別展『世紀の日本画』を見に行った。3月の終わりでいつもなら花見客で賑わう公園内であるが、さすがに荒天の雨の中では花見の宴席はガラガラで、傘をさして一杯やっている小人数の団体が2組いただけで、あとは雨の花見客が大勢そぞろ歩きをしていた。

いわゆる院展は日本画の展覧会で、前半後半の2部に分かれ、今回は後半の展示を見にカミさんと雨の中出かけた次第である。会場はテーマ別にコーナーが設けられ、歴史や花に鳥、また風景や幻想などを1章から7章まで展示されていた。会場の多くは再興院展の馴染みの画家の作品が並んでいて、いまだ存命の作家の作品も展示され、時系列での展開ではないが、作品を通して院展100年の歴史が概観できるようになっていた。主に国公立の博物館や美術館から集められた日本画。見慣れた作品も少なくなかったが総じて大作揃いで、一定の見応えはあった。心に残った作品を2点あげると,

 小野田尚之 くつおと 1996年

 私は具象と抽象のはざまに位置するこのような作品が好きで、(第5章の風景の中で)の会場にあった小野田尚之 くつおと が院展の中でも斬新さを感じさせた。この絵は、今は使われていない京成線「博物館動物園」駅を描いた絵で、1997年まで営業していたという地下駅で、私も大学時代下宿していた京成お花茶屋にいたころ何度か利用した記憶がある。この駅は老朽化や乗降客数の減少に伴い、1997年(平成9年)に営業休止、2004年(平成16年)に廃止になったそうだ。廃止後も駅舎やホームは現存するらしいが見たこともなく、遠い記憶の中に閉じこもったままである。
駅の正面をとらえたこの絵は、ただ過去の情景を思いだすというだけでなく、今の時間も広がってくる仮想空間が、博物館という駅名の入り口とも出口ともいえないところから亡霊のように浮かび上がってくる心象風景。ありふれたなつかしさに流されてしまうなかで、画面中央の下階から上がってくる二人の人物ととすれ違いそうな錯覚を感じ、過去から湧き上がってくるような幻想的な空気感に包まれ。得体のしれない駅がぽっかり口を開けて待っている画面はシュールな感じが立ち込める。
美術館を出た後日本橋に向かうため、過去の淡い記憶を頼りに地下鉄を探し、確かこの辺にあったと思いつつ、芸大の前あたりをうろついていたら地下鉄と京成線の地下駅を混同していたことに気づいたのはシャッターの降りた今は面影もない駅の入り口で、まるで迷路に迷ったようにあたりを徘徊し、JR上野駅まで歩き、ようやく地下鉄に乗れた次第である。


平櫛田中 •禾山笑
•1914年(大正3年)


 愛媛県にある 江西山大法寺18代和尚 臨済宗師家臨済宗での最高峰にある老師として日本中に鳴り響いていた禅師西山禾山老師(1837~1917)を彫った木像作品で、芸大所蔵の木彫であり、これを型どりしたブロンズ像が、田中美術館(岡山県)に所蔵されているそうだ。
いすに腰かけ両ひじをはって後ろにのけぞりながら、大口を開けて大笑するポーズで、和尚の豪放らいらくな風格がしのばれる面白い作品であった。作者の平櫛田中は107歳まで生きた彫刻家で満百歳の誕生日を前に、30年分の材料を買い込んだと言われる。「六十・七十は鼻たれ小僧。男ざかりは百から百から。わしもこれからこれから」とは本人の弁。これを聞いた横溝正史は「田中さんには及びもないが、せめてなりたやクリスティ」と詠んだ。という逸話の持ち主である。

会期 4月1日まで 東京都美術館

2014年2月3日月曜日

アートな話「芸術とエロス2」


黒田清輝 湖畔

前回は欧米絵画を中心に芸術とエロスについて歴史的に考察してみたが、今回は日本における絵画のエロスについて浮世絵が展開する江戸時代から現代に至る諸相を俯瞰してみようと思う。
明治以前の日本画は儒教に基づいた中国の水墨画や唐絵の影響を受けていたため、裸体を意識した作品が描かれることはなかった。明治に入ると、洋画の方では西洋で学んだ画家たちが、西洋的なヌードを発表し始めていたが、黒田清輝の「裸体画論争」に象徴されるように、裸体は生活様式の欧米化を背景に否定され、裸体画を大体的に発表することは禁じられた。流派を重んじる日本画においても裸体画は厳しく取り締まられ、洋画での裸婦モデルという存在が一般的になっても直接的な裸体表現は退けられ、西洋の美意識を取り入れたうえで、モデルや被写体の直接的な描写ではなく、独自のイメージや美意識で「再構成」することに画家たちは心血を注いだ。

俵屋宗達 風神雷神屏風図

さて絵画史上で、時の権力者から一般庶民に芸術が開放され、豪華絢爛に花開いたのが江戸時代である。18世紀初頭には人口が100万人を超え、世界有数の大都市へと発展を遂げた“大江戸八百八町”265年に及ぶ天下泰平の世のもと、町人文化が栄え浮世絵版画の誕生とともに、それまで上方(現在の大阪・京都を中心とする地域)に先行されていた江戸の出版界も独自の展開をみせることとなる。
 経済と流通システムが発展した江戸時代は、当然上方の町人社会も潤し、江戸時代初期には、京都において琳派の創始者である本阿弥光悦が隆盛を極める。光悦は京都の有力な町衆(富裕な町人)であり、彼に追随する俵屋宗達も扇や団扇に絵付けする工房を営んでいた。
 室町時代から時の権力者の庇護の元で続いてきた画派である狩野派が、武家の好みに応じて作品をつくったのに対して、光悦は自分の好みで作品をつくっていた。狩野派は武家文化であるが琳派はいわば裕福な町人文化である。本阿弥光悦・俵屋宗達に影響を受けた尾形光琳、さらに尾形光琳に影響をうけた酒井抱一などを「琳派」と呼んでいるが、宗達と光琳、光琳と抱一はそれぞれおよそ100年ずつ活動時期がずれていて、当然たがいに面識もなく、師弟関係もない。つまり、「琳派」は狩野派のような派閥や組織ではなく、純粋に様式を指している。その様式は、漢画の技法を基礎におきつつも、大和絵の要素もふんだんにとりこんで、独自の華やかでデザイン感覚に富んだ世界を生み出したということになる。

喜多川歌麿

●浮世絵
浮世絵は、封建制度の中で文化の主導権を握った町人の絶大な欲望と、強力な支持によつて発生し、時の幕府の圧迫にも耐えながら発展した絵画である。その源は遠く平安期に発した大和絵が、町人階級の芸術として新しい生命によってよみがえったと考えられる。しかし、それはいたずらに高雅を標榜する狩野派や宮廷貴族、公家たちの長い伝統に寄りかかる土佐派の絵画とも違う。新たな政治の中心となった江戸という地方色豊かな土地に育まれ開拓された新様式の絵画である。
浮世絵の主題は、過去や未来よりも、今(現世)を描くことにある。そのため、浮世絵師たちは題材に時代の最先端をいく風俗や話題を追い求め、常に趣向を凝らした描写で人々を喜ばせた。江戸時代の庶民の楽しみといえば「遊び」と「芝居」。これが、浮世絵の中で「美人画」と「役者絵」として描かれ、いわば流行ファッション誌、歌舞伎役者のポスターやブロマイドの代わりとして、浮世絵は瞬く間に庶民に浸透していった。
江戸中期になると「版」による彩色がはじまる。色版を摺る際に色がずれないよう、版木に目印となる「見当」をつける工夫がなされ、これによりカラフルな多色摺の版画が量産できるようになった。10色以上もの色版木を重ねた豪華な多色摺版画も登場し、絹織物の「錦」に匹敵するほどの美しさを誇ったことから東錦絵(あずまにしきえ)と呼ばれ、江戸の新名物になった。また裏本として春画なども数多く出回った。ギリシャ芸術では裸体の身体美が崇められたが、春画では衣服の美しさが強調されている。生の肌は、むしろ道ばたや風呂場などで見られるもので、日本の美が「衣服の下に隠された非日常の<みだら>に通じる情念の世界を描き出す。
これらを作ったのは、新秩序としての徳川の身分制度の枠にもはまり込めず、巧みに処世上の保護者をつかむこともできなかった画人たちであった。彼らは版元に仕切られ、その多くは安い画料で描き続けたが、いわゆる町絵師と呼ばれたこうした画人たちこそ、この新しい絵画芸術の生みの親だったのである。版元は彫師、刷師なども抱え込むプロデューサーのようなものだった。
浮世絵には、肉筆と版画があり、江戸時代中期以降の封建制が最も完成し、またすでに崩壊を来し始めていた時代は刹那と歓楽に耽溺し、遊里と歌舞伎がテ-マになり、また閨中秘画にも傑作が描かれた。この時代、初期の遊里の風俗画としての浮世絵に始まり、絢爛たる錦絵の誕生、寛政期の美人画あふれる黄金時代、役者絵、末期の浮世絵期に現れた風景作家、写楽、北斎や広重などそうそうたる面々が現れた。  

日本が版画大国として外国から高く評されるのも浮世絵を通じての評価であったし、ヨーロッパの近代絵画に与えた影響も大きい。浮世絵は、明治末期にその生涯を閉じたと言われている。開国したことによって海外から新たな版画、新たな印刷技術、新たな印刷機器が輸入され、日露戦争の報道画を最後に、新版の浮世絵は姿を消してゆく。
池田満寿夫 愛の瞬間

●現代絵画のエロス   
現代絵画においてエロスを感じさせる作家で思い出すのは池田満寿夫だろう。「エロスの画家」と呼ばれた彼は、あるインタビューで「エロスとはイマジネーションだ」という発言をしていた。「写真やコラージュではあまりにもモロになってしまうが、版画というフィルターがかかっているために、エロチックではあっても成功した」というようなことをコメントしていたのが印象に残る。浮世絵にも造詣の深い池田は、女、愛、エロスというテーマで作品を作り続け、女性の根源的な美しさ、彼女たちが発するものすべてに魅力を感じ、創作意欲を湧き立たせた。ピカソが晩年に発表したエロスをテーマとした版画集に強く影響され、喜多川歌麿の浮世絵春画にも興味を持っていた池田は、急逝する少し前にも、アトリエの机上にそれらの画集が広げてあったと言われている。確かに版画に描かれた線描は、浮世絵に通じる痕跡を見て取れる。浮世絵の深淵を覗いた満寿夫のリトグラフやエッチングの作品には、浮世絵のエッセンスがにじみだすように、その繊細な線描のヌ-ドのタッチは、エロティシズムにあふれ、まるで陰毛そのものを見るようだと批評されたと本人も述べていた。彼もまた、浮世絵に見入られ、そこから何かをつかみ、それを現代の作品に生かした日本の画家として、その精神を伝承する稀有な画家の一人であろう。晩年のピカソのように数々の女性遍歴の末にたどり着いた帰結「人生はxxxxだ。」 は画面から饒舌に我々に語っている。    

2013年12月1日日曜日

アートな話「芸術とエロス」

ガバネロ「ビーナスの誕生」とマネの「オランピア」


英和大辞典によるとエロスは[ギリシャ神話]の世界では恋愛の神、[プラトン哲学]では善きものの永久の所有に向けられる愛(Platonic love)、キリスト教の世界では人間的な愛、として古来概念づけられてきたが、20世紀に入り、フロイト一派の無意識の心理学によって、あらゆる人間活動の根底にリビドー(性的欲望)が横たわっていることが主張された。
もともとエロティシズムという言葉の語源はギリシア神話の愛の神エロースの名前であり、一般的にエロティシズムは官能愛または人間の性衝動(リビドー)のことだと考えられている。
 
このような辞書の定義にある「エロス」を表現している絵画や彫刻は、古典美術の女体讃美に始まって現代に至るまでいくらでもあるが、鑑賞者が「これは人間的な愛を表している」「人間が生きることの本質、つまりはエロスを感じる」と思えばエロスを表した芸術なのかもしれないが、鑑賞者にとってエロスの定義付けは不要なもので、観る側のイメージの内は個人の自由である。そのことは作る側にとっても自由であるはずである。
歴史的にもタブーと開放という矛盾した二つの性質を持ち合わせたエロティシズムは、古来人間のその文化に幻想と呪縛から逃れられない吸引力を発してきた。性的発露や行為は、それ自体エロティックということではなく、そのイメージを喚起したり、暗示したり、表現したりすることがエロティックなのである。つまりエロティシズムとは、生物としての人間の本能的な欲望や生殖行為とは無関係な、動物にはない人間として、本質的に心理的なトリガー(引き金)から発するものであるから、人間のあらゆる文化的伝統、神話、習俗、宗教、芸術などのなかに、深くその根を下ろしている。
上の絵は、19世紀半ばに描かれたアレクサンドル.ガバネルの「ビーナスの誕生」で、ギリシャ神話のビーナスは海の泡から生まれた一説をもとに描かれた古典的なヌードの代表作である。古来より宗教的あるいは神話的な裏付けのない世俗的な単なるヌードは受け入れられないフランス美術界の中で当時絶賛された作品である。同年代のマネの世俗的な娼婦を描いた「オランピア」は対照的に酷評の嵐に合う。まさにマネの裸婦は古典のエロティシズムを破綻の淵に追い込まんとした問題の作品であったのだ。

フランスの思想家ジョルジュ.バタイユは、何かを禁止することは、禁じられた行為にそれ以前にはなかった意味を与えることだと書いている。タブーさえなければ危険で邪悪な誘惑の輝きを持たなかったものが万人をして禁止の違反へと誘うことになり、この禁止の違反そのものが人の心を魅了し掻き立てるというのである。
      

エゴン・シーレ「黒いストッキングの女」  グスタフ.クリムト「ダナエ」

19世紀末になると、オーストリアでウイーン分離派の旗手グスタフ.クリムトや,不道徳な絵を描いたとして、獄中生活を送った夭折のエゴン.シーレといった異才が出てくる。クリムトは過去の様式に捉われない、総合的な芸術運動を目指したが、画風は装飾的で退廃的などこか気だるい雰囲気を醸し出している。
歴史的に近代の終わりは、第二次大戦によるヨーロッパ近代社会の崩壊を区切りとして、20世紀の前半が近代と現代が重なり入れ替わってゆく時期ということになっているが、近代芸術の終わりはヨーロッパ近代の終焉と時を同じくしている。二つの大戦の前後を含むあいだの期間に芸術をはぐくむ場がヨーロッパの近代都市パリ(近代芸術)からアメリカ現代都市ニューヨーク(現代芸術)へ移ることになる。
       


 
    ● 左 ダリ 「柘榴の実の周囲を一匹の蜜蜂が飛び回ったために見る夢」 
    中 マグリット 「黒魔術」 
    右 ピカソ 「首飾りをつけて横たわる裸婦」

 
20世紀に入りエロスと芸術の分野では,シュールレアリズムがパンドラの箱を開けることによって,あらゆる束縛からの「新しい」自由のための実に様々な表現方法を見つけだした。サルバドール・ダリの偏執的な幻想や、ルネ・マグリットは人間の姿を物と化した感情なしのエロスに昇華表現していく。また数々の女性遍歴とシュールレアリズムをくぐり抜けてきたピカソもエロスを基軸に女を描いている。キュービズムから出発したフランスのマルセル.デュシャンはアメリカに渡り、時間と運動によるコンセプチュアルアートをかかげ、現代アートの先陣を切った。そこにあるのは乾いたエロティシズムと概念の破断である。


1   2        3          4


  ●1.デュシャン 「階段を上る裸婦」 2.デクーニング「女1」3.オキーフ「蘭」4.「Music - Pink and Blue

 

物質文明を謳歌する20世紀アメリカの現代アートでは、抽象表現主義のウィレム・デクーニングは猥雑なエロスを醸し出し、一方で女が醸し出し男が表現する長い芸術の中で、花によるエロスを表現する稀代の女性画家ジョージア.オキーフがいる。具象がクローズアップもしくはトリミングされた過程で抽象化が進み,抽象のエロスがほとばしる奇妙な作家である。無垢な女の感性であるがゆえに、男から見ると不思議なエロスを感じさせる絵だ。いろんな意味でエロスは生きとし生ける物にとって元気と活力を与える源である。いずれにせよ XXXXをくぐり抜けないでこの世に出た者はいない。エロス、大いに結構ではないか。エロス万歳!

2013年9月16日月曜日

アートな話「時空を超えた展覧会」


東京都美術館で開催されている終了間近の二つの展覧会を観に行ってきた。一つはルーブル美術館展(地中海4千年ものがたり)と銘打って地中海を舞台に、西洋と東洋が出会って誕生していった至宝の数々273点が時系列で展示され、地中海を取り囲む国々の民の生活が忍ばれる小物類から、彫刻絵画に至るまで歴史物語が展開していく。
もう一つはかのトリックアートの巨匠福田繁雄の娘福田美蘭の個展である。父親譲りのDNAの影響か、きわどいパロディと時代に眼差しを向けた作家の意気込みを感じる展覧会だった。リニューアルされた東京都美術館に足を運ぶのは初めてである。

●ルーブル美術館展

地政学的に地中海は東西南北ヨーロッパ、アジア、中近東、アフリカの国々に取り囲まれた内海であり、そこには絶えず侵略や強奪による国家の存亡が繰り広げられ、4000年の歴史の中で異文化の吸収と破壊のなかで生まれてきた数々の世界遺産,あるいは地中海を通じて船による交易品など、全6章にわたり地図と解説付きで展示されていた。いずれも時の支配者のために作らせたものや、民衆の生活の中から生まれたものまで多岐にわたっている。歴史は勝者によって創られるという言葉があるが、国家盛衰の果てに残ったものが巨万の富と、それを運用する時の支配者が作らせた芸術や建造物、贅沢工芸品などである。今回は膨大なそれら遺産の一端を見せてもらった。以下はその概要と感想。



序 地中海世界(自然と文化の枠組み)ここでは教科書でお馴染みの黒像式,赤像式土器の繊細な筆さばきの描画が見られる。土器の多くは壷類で、オリーブ油を入れたり水を入れたりしていたらしい。その他銀製の打ち出し杯などデザインはいずれも精緻でストーリーに満ちている。

1章 地中海の始まり  このコーナーは小物類が多く展示され、エジプトに関連したものが多く見受けられる。エジプト文字やギリシャ文字が刻まれたものや、神々(個々の守護神)を現した像など日本の八百万の神と似た感覚。

自害するクレオパトラ



2章 統合された地中海(ギリシャ、カルタゴ、ローマ)ローマ帝国による地中海支配で破壊されたカルタゴなどの遺産やローマの石棺などの彫刻、クレオパトラの彫像などが印象に残った。

3章 中世の地中海(十字軍からレコンキスタへ)
   キリスト教徒イスラム教の交差する異文化の交流を受けた工     芸品が見られる。
4章 地中海の近代(ルネサンスから啓蒙主義の時代へ)
   地中海の覇者となったオスマントルコの影響を受けた絵画、装飾品などが見られる。

5章 地中海紀行(1750~1850年)
   地中海世界への憧れから西欧の画家たちが書いた絵画が多く見られる。
  

※ 会期 9月23日(月)まで 東京都美術館


●福田美蘭展
 
案内状に誘われて初めて接する作家であるが、彼女の亡き父親はかの有名なトリックアートの福田繁雄である。父親譲りのDNAがそうさせるのか、きわどいパロディーを駆使した作品も多く見られる。画家の姿勢として眼差しを意識した時空を超えての構成になっていて、その制作意図がよく伝わている。
銭湯の背景画(富士山にマツキヨ、左にすかいらーく)

1.日本への眼差し
  第一室の最初の絵が銭湯の背景画が看板のように出てきたのでたまげた。黒田清輝の湖畔のパロディーや、北斎の富士山の反転画(逆さ富士)など意表をついた絵や、日常のオブジェなど、作品の裏で作者が鑑賞者の眼差しを弄んでいる感すらする。その裏には日本の絵画を再認識するといった意図が込められているのか?

ブッシュ大統領に話しかけるキリストと噴火後の富士


2.現実への眼差し
  9.11以降に起こった一連のアメリカを象徴する絵の中で、特に9.11を自作自演した、聞く耳を持たない独裁者ブッシュに話しかけるキリストや、噴火後の富士山などが印象に残った。


ポーズの途中に休憩するモデルと床に置く絵

3.西洋への眼差し
  セザンヌを模写し批評を加えた作品や、モナリザのモデルだった婦人がポーズの途中で休憩し横たわる絵、蝶盤付きの絵、床に置かれた絵などがある。筆者も歩いていいというからその上を歩いてみた。結構この作家遊んでいるが、鑑賞者も遊ばしてくれる。

夏ー震災後のアサリと秋ー悲母観音

4.今日を生きる眼差し
  日本の現実3.11を描いた作品が目を引いた。ただ花やモノ、あるいは風景を描いているだけの画家の内向きの目とは違い、画家を取り巻く社会の状況に眼差しを向けた、まさにサルトルが言ったアンガージュマン(社会参加)の絵であろう。
 

 ※ 会期 9月29日(日)まで

2013年7月1日月曜日

アートな話「富士山」

河口湖から見た富士と三保の松原から見た富士

2013年5月1日にユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議(イコモス)」が、富士山の『信仰対象として日本人の精神性を形成し、浮世絵等芸術の題材にもなった』という日本側の訴えた文化的価値に対し、『影響は日本をはるかに越えて及んでいる』と高く評価、世界文化遺産への登録を勧告していた。そして2013年の世界遺産会議にて、世界文化遺産「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」としてついに正式登録された。

富士山は、日本のほぼ中央に位置し、古来連山の多い我が国において独立峰の孤高の山でその形態は日本人にとって心のふるさとであり、精神の源泉、文化の母胎でもあった。絵画、文学、詩歌、あるいは演劇の舞台ともなり、現在に至るまで数多くの芸術作品を生み出している。その歴史は、日本文化の歴史そのものであり、日本人のみならず、海外の芸術家たちにも影響を与えてきた。いわば日本そのものでもある。
山梨県と静岡県が富士の世界遺産登録を目指したのは21年前。自然遺産での登録を目指したが、環境省の候補地検討会で2度も落ちてしまったのは、求められる自然の美しさの基準には及ばないだろうと、失格の烙印を押されたからだった。
遠目に見る富士は“霊峰”の名に恥じない美しさであるが、近づくにしたがってエクボならぬ痘痕(あばた)ばかりが目立ったのだろう。あたかも女性を遠目で見るような審美眼で見れば、あらゆる角度から死角がないかとあらを探がしてみても、近視眼的に見ない限りはこの山には死角はない。元来山は遠目に見てこそ山であり、登って瓦礫の山やゴミの山を見て興ざめするのは当たり前の話である。女性がきれいに見える条件を「夜目、遠目、笠の内」という。「上方いろはかるた」にあるそうだが、ようやく世界文化遺産に登録されることになった富士山に、そのまま当てはまる言葉である。ここにきてようやく環境面の問題から自然の景観より歴史的価値や芸術性が重視される文化遺産の登録へと方針転換して、悲願達成となったのは喜ばしいことである。
さて富士山は、れっきとした活火山”である。それも青年期であるため、近々噴火するのではないかと指摘されていて、その可能性は100%だとも言われている。そんな危うさも日本人の美意識に火をつける。

「画家の視点から見る富士山」
http://mohsho.image.coocan.jp/fuji-viewing02.html

 富士山ほど数多くの画家に描かれた山はない。なかでも有名なのが、葛飾北斎と歌川広重ある。「冨嶽三十六景」で知られる北斎は、富士山と人との関わりを豊かな想像力と見事な構図で表現。「三十六景」と銘打ちながらそれだけでは満足せず、「裏不二」十図を加えた計四十六点を世に送り出した。対する広重は「東海道五拾三次」「名所江戸百景」で、様々な場所から見える富士山を描いている。一般的には方位の点で南側(太平洋側の静岡)から見たものを表と見て、北側の山梨県から見たものを裏と見ているようだが、山梨県側は標高が高くなる分、開放的な視界が限られてくる。上の図は浮世絵に出てくる富士山だが、各々作者が描いた富士山の視点の位置がわかるようになっている。


こんな息苦しい登山は?見ているだけで高山病になりそう!
7月1日、今日は富士山の山開きである。私も以前5合目まで物見遊山で車で行ったことがあるが、人が多い印象が残っている。TVで富士山登山の映像をみると、渋滞する行列の中を登っていく人々の姿が見られるが、世界文化遺産登録で、登山者がさらに増えると見込まれる中、落石や転倒などの事故をどう防ぐかが大きな課題となっており、山梨県などは誘導員を去年の2倍にして、安全確保を図る計画らしい。さらに、関係者を悩ませているのが、いわゆる「弾丸登山」というもので、これは山小屋に泊まらず夜通し山に登り、朝、ご来光を見て帰ろうという人たちである。「弾丸登山」は登山者全体の30%ともいわれ、混雑を引き起こす原因になっているいっぽうで、さらに高山病になるリスクも高いとされている。特に高齢者は3000m級の山を甘く見ているとしっぺ返しを食うことになる。


2013年6月6日木曜日

アートな話「リンカーン」


主役のダニエル.デイ.ルイス

久々にスピルバーグ監督の最新作の映画「リンカーン」を観た。あらすじは第16代米国大統領エイブラハム.リンカーンが奴隷制度を廃止して南北戦争の終結と、南北統一並びに合衆国憲法修正13条を成立させるまでの苦闘を描いた映画である。
 周知のように米国は移民国家で、英国の植民地からの独立を果たした独立戦争以来2度目の戦争が南北戦争で、その背景には北の自由労働に支えられた工業地帯と、南の綿花を中心とした奴隷労働に支えられた農場地帯の対立構造があった。
リンカーンと妻のメアリー

 
 
1860年にリンカーンは黒人奴隷開放政策により北部の資本家から支持を得て共和党大統領になったが、南部の奴隷州は反発し南部連合を作り離反した。
北部優勢のうちに1865年南北戦争は終決しアメリカは統一された。ストーリーでは、上院が可決している奴隷制度撤廃のための憲法修正13条を下院で民主党から20名近く賛成派に転じさせるため。説得、買収、脅迫とあの手この手の政治工作が繰り広げられる。リンカーン役のダニエル.デイ.ルイスも風貌といい体つきといいリンカーンによく似た名優で、悪妻と言われたメアリー役の女優もそっくりさんと言われてもうなずくキャスティングだ。唯一見覚えのある俳優(あのコーヒーBOSSのコマーシャルに出ているトミー.リー.ジョーンズ)の強面の弁舌に長けた、奴隷廃止論者の演技が単調になりがちなストーリー展開を引き締めた。

リンカーンについては、その人物像はいろいろなところで述べられているが、今回の映画はアメリカを南北統一に向かわせた彼の手腕と苦悩を、非常に多忙でしんどい政治家の日常生活を描くことで、歴史の1ページを浮き彫りにしてみせた。
リンカーン自身多感な時期にネイティブアメリカン(インディアン)に一家が襲撃され,
目の前で親父が殺されたこともあって、もともと大陸に住んでいた彼らを多数虐殺する政策をしたことでも有名な大統領で、こういった影の部分は今回のストーリーには入っておらず、また暗殺されたことも、歴史のひとコマとして淡々と述べられているに過ぎず、ドラマティックな仕立てにはなっていないが、政治というものをよく表現している映画である。

◆経済史から見た南北戦争

リンカーンが発行を命じた政府紙幣
アメリカ南北戦争の根底に潜む大きな問題は、国家金融カルテル及びその代理人とアメリカ政府の間で、国家通貨発行権及び貨幣政策がもたらす利益を奪いあった事実は見逃してはなるまい。過去の戦争全てに言えることは戦争には金がかかることである。そこで登場するのが国際金融カルテル、ロスチャイルドである。世界の戦争の裏には彼らの影がまといつく。日本の日露戦争や明治維新でさえも。
さて、戦費調達において、リンカーンはロスチャイルドらの提案した金利24〜36%の融資案を拒絶し緑背紙幣と呼ばれる「アメリカ政府券」の発行権限を財務省に付託。
1862年を皮切りに南北戦争中合計4.5億ドルを発行。これらが発行されたことで銀行家はリンカーンに対して憎悪をむき出しにした。アメリカ国民と産業界は緑背紙幣を歓迎。 リンカーンは南北戦争の戦費獲得の為に緑背紙幣を発行する必要があり、議会の銀行勢力に対して一つの妥協を行った。国立銀行法の制定により市場に出回る不安定なドル紙幣を回収し国立銀行が国家紙幣を発行するとしたものである。

国立銀行がアメリカ政府債を銀行券の発行の準備金に充てたことで、アメリカの貨幣発行と政府債はセットになり政府は永遠に債務を返済できなくなる。
昨今のアメリカ経済を見ると、2006年にはアメリカ政府債は8.6兆ドルだったのが、2012年度には、法定上限額である14兆2900億ドルというという天文学的数字にせまっている。その結果連邦政府の国債利払いもすざまじい限りだ。
リンカーンは再戦の暁には国立銀行法を廃案にしようとしたが、再選後の41日後に暗殺された。国際銀行家たちはリンカーンの実施した緑背紙幣をなくす為に通貨緊縮法を可決。通貨流通量を圧縮しアメリカ社会を疲弊に叩き込んだ。
南北戦争前後百年の間に米国政府と国際銀行家の間では、アメリカの中央銀行の構築と金融制度上の重要問題を巡り死闘を繰り広げ、その間に4人の大統領が暗殺され、数多くの議員が暗殺未遂に終わっている。 そして1913年のアメリカ連邦準備銀行(FRB)の設立は国際銀行家が最終的に勝利したことを意味する。 国際銀行家勢力はイングランド銀行の複製であるアメリカ中央銀行の実現に成功した。

ケネディー大統領令で発行された紙幣
アメリカ合衆国史上で暗殺された大統領は、いずれも政府紙幣の発行をめぐって暗殺された。最初は、16代大統領のリンカーンであり、二人目は20代のガーフィールド、三人目が29代のハーディング,四人目が35代のケネディーである。この四人は通貨発行の権利を連銀から政府に取り戻そうとした人達である。中央銀行が問題になるのは国家から高い利息を取るからなのだ。リンカーンの場合当時の舞台俳優のブースの凶弾によって観劇中に倒れたが、その背景には見えない闇の魔手が見え隠れする。暗殺された夜、リンカーン大統領はグローバー劇場で観劇する予定になっていたが、当日になって急にフォード劇場に変更された。なぜ急に劇場が変更されたのか、だれがそうしたのか、これも謎である。
ケネディ大統領も1963年6月に通貨発行権を取り戻し、政府発行紙幣を流通させるが、半年後にはオズワルドに暗殺され、実行犯も殺されて事件の真相はいまだ闇の中である。ケネディー死亡後、言うまでもなく政府紙幣は即座に回収された。まことに経済を支配するものは世界を支配するものでもある。(3月3日錬金術は止まらない参照)そのことは旧約聖書の言葉「借りる者は貸す人の奴隷となる。」が裏付けている。