2010年2月25日木曜日

検察の歴史


悪政のアレゴリー(イタリア 壁画)

昨日NHKのドキュメンタリー番組で小林多喜二(日本のプロレタリア文学の旗手で、日本共産党に入党し、のちに治安維持法下で特高警察ー現在の検察特捜部の前身によって拷問死した。)の物語を見た。

現在若い世代における非正規雇用の増大と働く貧困層の拡大、低賃金長時間労働の蔓延などの社会経済的背景のもとに、2008年には『蟹工船』が再評価され、新潮文庫の『蟹工船・党生活者』が50万部以上のベストセラーになった。また、2009年にSABU監督によって映画化され、一躍マスコミに出てきた。作品は読んでいないが、現代の社会状況とダブった様相を映し出した番組を見たわけである。
現在日本における検察の在り方が程度の差はあるものの、戦前の公安、特高警察と変わらない取調べの実態が明るみに出て、国民の目は検察の動向に注目している。


特高警察とは特別高等警察の略称で、戦前の日本で天皇制政府に反対する思想や言論、行動を取り締まることを専門にした秘密警察のことである。
明治末期から第二次大戦の敗戦まで、思想犯罪取り締まりに当たった警察。大逆事件を契機として、明治44年(1911)警視庁に特別高等課が設けられたのが最初で、昭和3年(1928)までには全国に設置され、国民の思想・言論・政治活動を弾圧した。同20年にGHQの指令により解体された。
特高警察の創設は1911(明治44)年に警視庁に特別高等警察課として設置されたことにさかのぼることができる。
前年に起きた明治天皇の暗殺を計画したというデッチ上げによって全国の社会主義者などを弾圧した大逆事件が契機となったのである。 その後、1924(大正13)年に大阪、京都などにも増設され、さらに1928(昭和3)年には全国に配置された。 いうまでもなく国体(天皇制)に批判的なすべての思想と運動を「犯罪」とする治安維持法の制定にそなえての設置であった。

同法の主たるターゲットは、1922(大正11)年の創設された天皇制と侵略戦争に反対した日本共産党にあったが、特高は、内務省警保局保安課の統括下におかれ、共産党のみならず、いっさいの民主的な思想や運動の破壊に狂奔した。 そのやり方は、拷問やスパイによる弾圧など野蛮極まりないものであった。



● 民主党つぶしの検察の動き

検察対小沢の第2ラウンドが終わり、検察は決め手もないまま不起訴の結果となり、判定は小沢のTKO勝ち寸前のリードで試合は第3ラウンドにもつれ込む気配が見え隠れするが、今、大阪地検に激震が走っている。元厚労省局長の村木厚子被告(54)が特捜部に逮捕、起訴された「郵便不正事件」の公判で、捜査のデタラメが次々と明らかになっている。

8日の公判では、検事が関係者を聴取した際、ウソの“証拠”をチラつかせ、供述をムリやり引き出していたことが発覚。もはや公判維持さえ危うい状況である。この事件をめぐっては、村木が完全否認している上、「(村木に)指示された」と供述した部下の上村勉被告(40)も証言を覆す方針。
頼みの供述調書もウソの証拠を突き付けて作成していたとなれば、信憑(しんぴょう)性が疑われる。「デッチ上げ不当逮捕」との声が高まるのは必至で、無罪になれば地検幹部のクビも吹っ飛びかねない。
驚きの証言は8日の第5回公判で飛び出した。 民主党の石井一参院議員から口利き電話を受け、村木に便宜を図るよう指示したとされる塩田幸雄・元厚労省障害保健福祉部長(58)が証人出廷し「(聴取した)検事から『あなたから石井議員に電話した交信記録がある』と言われて(村木への指示を)証言したが、後に『実は記録はない』と言われた。大変な供述をして(村木を)無実の罪に陥れてしまった。事件自体が壮大な虚構ではないのか」とブチまけたのだ。
「特捜部の狙いは石井議員だったのだろう。彼らは巨悪を挙げるのに『犠牲もある』と考える傾向にあり、周辺の関係者を“捨て石”と呼んで引っ張るケースがある。村木や上村がまさにそれである。また大阪地検の過去にあった大阪府枚方市の副市長冤罪事件が問題になっている。参照URL


小沢捜査では、東京地検特捜部が逮捕、起訴した石川知裕衆院議員の女性秘書を恫喝(どうかつ)し、長時間の拘束と取り調べしたことも報じられている。もはや取り調べの全面可視化は待ったなしであろう。

2010年2月17日水曜日

アートな話「花鳥風月」


花鳥画

鎌倉彫に限らず工芸意匠の中で、花に次いで多いのが花鳥図である。我々が共有する自然の中で、図案になりやすいのが花および花鳥であろうか。
上の図は江戸時代に東西の絵画の流れを作った作家の絵である。左は京都丸山派の始祖丸山応挙右は江戸琳派の一人酒井抱一のいずれも花鳥画である。

東洋的な自然観は西洋的な自然と対峙する自然観と違い、自然と融和し自然との一体化の中で生活し、そこに美を見出す。
東洋の美意識は、「山水」「花鳥」の言葉で表され、日本では「花鳥風月」といわれるように「風月」といわれる自然の移ろいとも結びついている。
これは日本の風土が四季の変化が明確にみられる背景があり、そこに抒情性が存在するのである。


さて、美術において花鳥画の源流をたどると、それは中国唐代に存在していたが、宋代に入って山水画とともに本格的な中国美術の源流となっていく。
こうした中国の絵画の流れは、日本にもすべての文化と同様に連動して現れ,唐絵として影響を与えていった。
「花鳥」は中国絵画史の中で生まれた題材による分類名称であり、草虫、魚藻,果実などを含め、広範囲に使われた。それは濃彩画風と水墨に淡彩を交えた写実的な2種類の画風が確立し、以後この絵画様式はのちの時代に展開していく。右図は中国宋代の画家林椿の花鳥画。



わが国もまた中国に学びつつ、日本的な情緒、抒情性を加えて独自の様式を作り出した。平安時代以降、唐風を起点として季節感豊かな小景が日本的な詩情で表現されるようになり、その画様はのちの大和絵や琳派、さらに工芸的デザインの中に継承されていく。

花鳥は装飾衣装の中で早くから主様な位置を占めており、花鳥画が本来厳しい写生に基づいているのに対し、デザインとしての花鳥は,諸民族の宗教や思想を背景に、主に観念の世界で形作られた傾向があるように思われる。

一方では文様世界における「花」は自然の恵みの象徴でもある。自然と共存していた農耕社会では花が装飾の中心であった。BC1500年頃のエジプトのロータス(蓮華)、ギリシャのパルメット唐草、西アジアの生命の樹、インドの蓮華など、いずれも生命力の象徴として意味を持っている。


また「鳥」については、東アジアでは鳥類の王者としての鳳凰(瑞鳥)がある。鳥のデザインの中で特徴的なものに咋鳥文がある。これは寿福のシンボルをついばんで飛来するもので、これは理想郷と人間界とを結ぶ渡り鳥のような役割を果たした。いわゆる「花喰い鳥」「松喰い鶴」や旧約聖書に出てくるオリーブの枝を咥えたハトなどがある。右の図は愛煙家におなじみのピースのパッケージデザインである。
これら花と鳥の意匠は西域を起源とし、やがて東方に伝播していくが、花鳥画としての成立は中国をはじめとする極東で完結する。






2010年2月13日土曜日

貧困ビジネス





イギリスの古典派経済学者であるアダム・スミスは『国富論』の中で「1人の金持ちが存在するためには、500人の貧乏人がいなければならない」と述べているが、その言葉は現代でも通用するようだ。

現在の日本には、正社員と非正規雇用労働者のダブルスタンダードが存在する。前者には高度成長期につくられた手厚い保護がなされ、後者はそれを支えるためだけに使い捨てにされる雇用状況である。
日本経済の低迷と格差社会の広がりに伴い、生活保護世帯も年々増加している昨今、これら生活保護受給者や低所得者やホームレスの人たちを相手にしたビジネスが横行している。

そのうちのひとつに無料低額宿泊所がある。これは従来社会福祉法第2条第3項第8号に基づく事業として、ホームレス・野宿者等生活困窮者の自立支援を目的に、無料または低額料金で提供される一時的な住まいである。これらは民間によって運営されているものや 社会福祉法人やNPO法人のような法人格を有するものから任意団体までさまざまであるが、都道府県知事への届出制であるため、個人でも開設が可能である。

法律上は「無料」とついているが、実際には生活保護を受給してそこから利用料が支払われるので、実態としては「低額宿泊所」が正しい。住むところを貸すことで生活保護費の受給を可能にし、運営する側はそこから安定的な収入を得ていくシステムになっており、生活保護費から住宅費、食費、光熱費、共益費などを支払うことになっている。高齢化や貧困化に対応しきれない行政の隙間を埋めている側面があるこれらの施設の中には、生活保護をピンハネするような悪徳業者も紛れ込んでくる。現在、「低額宿泊所」は全国に439カ所あり、1万4000人が宿泊している(2009年6月現在)。うち170カ所、4700人が東京都にいる。千葉県、埼玉県、神奈川県を含めた1都3県で全体の8割を占める。

一方、フリーターや派遣切り、また就職氷河期によって取り残された若年ワーキングプア(働く貧困層)のための簡易宿泊施設「レストボックス」というビジネスの実態もあり、1日1000円、平均して大体1日1780円~1880円程度が多く、一泊目は無料。いわゆるマンガ喫茶やインターネット喫茶で寝泊まりし、完全にその日暮らしとなって社会問題化している宿無しフリーターたちをターゲットにしている。

本来インターネットカフェは、他の貧困ビジネスのように社会的弱者を標的にして営業しているわけではないが、しかし、一部には「ネットカフェ難民」を主な“収益源”にしている店も存在している。1か月3000円で「店の住所」での住民票の登録と郵便物の受け取りを代行するサービスも実施しているところもあるほどだ。

ゼロゼロ物件

「敷金・礼金」が不要であるため一見格安費用で居住できるとして、非正規労働者のような低所得者に利用されるようになっているのがこれだ。しかし、派遣切り等の事由から経済的に困窮し家賃の全額もしくは一部でも滞納すると、違法でもある莫大な違約金を請求され、無断住居侵入、借家からの締め出しや鍵の無断交換、家財の没収や無断遺棄、「追い出し屋」による嫌がらせ等、利用者の同意や交渉の余地なく即時行使されるというケースが相次いでいる。


医は算術か?

医は仁術なりといった言葉が死語になりそうな話を2つ。

貝原益軒の養生訓[正徳三年(1713)]では、「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以て志とすべし。わが身の利養を専ら志すべからず。天地の生み育て給える人をすくいたすけ、萬民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命という、きわめて大事の職分なり」と述べられている。
最近起こった医者がらみの事件でひどいのが2つある。いずれも金に異常なまでに執着した銭ゲバ医者の話である。

◎ 奈良県大和郡山市の医療法人雄山会「山本病院」が生活保護受給者の診療報酬を不正に受給していたとされる事件で詐欺容疑で同病院の理事長、山本文夫容疑者(51)が逮捕された。
 不正受給は患者14~15人分の1000万円以上にのぼることが確認されており、捜査資料によると、山本容疑者らは平成17年から18年にかけ、患者に心臓カテーテル手術をしたように装い、診療報酬数百万円をだまし取った疑いが持たれている。いずれも生活保護受給者の医療費は全額が公費で賄われることになっていることを悪用したもので、生活保護受給者が患者の大半を占めていた。
中には必要のない手術までして患者を死なせたり、同病院関係者は生活保護者相手に入院を勧誘するなど“営業”もしており、やることがえげつない点では、ずば抜けている。

◎ 横浜市の菅谷クリニック これはさんざんTVで報道されたのでご存じだろうが、我が家の近所にある美容クリニックで、同じく診療報酬の不正請求で逮捕されている。院長は旧厚生省OBの菅谷良男で、名前だけみると良い男らしいが、これもえぐい男である。宗教法人「 宇宙教団錦教会 」の代表といった別の顔をもつ菅谷は、患者のアザやシミをみつけては治療を長引かせ金を儲けるといった事案で、訴訟問題も多く抱えていた医者である。だいたい金にまつわる宗教はカルトを含めろくな宗教はない。余談になるが民主党が宗教法人の課税強化を画策していることに、戦々恐々としている宗教団体は大小を問わず多いはずである。これも時代の趨勢であろうか。

2010年2月3日水曜日

日本経済はどうなってんの?

           
2007年度の国連調査によると、日本は人類史上経験のない程の少子高齢化・人口減少時代に入り、21世紀半ばまでに人口は1億人(マイナス約25百万人、20%減)を切ると言う。逆に米国は、先進国の中で唯一、人口が大幅に増加する国として、今の3億人から4億人になり(30%増)、インド、中国に続き世界で3番目に位置する若い人口大国として君臨し続ける。生産年齢人口は、2050年に日本はマイナス39%、米がプラス28%。人口中央値の年齢は、日本が56.2歳、米国は39.6歳と親子程の年齢差になると言った恐ろしい予測になっている。そのため政府は少子化対策を必死ですすめている。




さらに経済の面ではGDP(国民総生産)において、日本の経済規模は中国に追い抜かれ第3位に転落することが確実視されている。同時にわが国の相対的な位置づけは下がり続ける。また日本は、核を持ったアメリカ、中国、ロシアの大国に囲まれた、変えることのできない地政学的な運命を抱えている現状で、日本は自らの将来像を冷静に見つめ、どんな国を目指すのか、新たな国力の源泉はどうするのか、国際社会の中でどうやって生きてゆくのか、地に足がついた中長期的な国家像を模索し国民に示すべき時に、国会では目糞鼻糞を笑うような政治資金の問答が繰り返し行われ食傷気味である。
金の問題がらみで内閣支持率も50%を切っている現状で、民主党の前途は多難である。
           
さて米国一国が、世界経済を牽引する構図は既に終焉を迎えており、世界経済の主役は、米国からBRICsなどの新興国に移りつつある。
「早くから内需拡大型の経済政策を進めてきたインドは、今回の世界不況の影響をほとんど受けていない。いち早く立ち直った中国も、09年の経済成長率は8%を維持。上海万博がある今年は、10%以上の成長を見込んでいる。2010年には、個人消費ベースで算出した世界のGDPの約52%が新興国で占められ、初めて先進国と逆転するとみられる。中国の購買層の主軸は45歳から25歳までの中間層であり、その数約4億人である。この大きな市場に先進国の自動車をはじめとする企業がなだれ込んで行き、熾烈な競争が繰り広げられている。

内閣府の試算によると、我が国の昨年度の上半期のデフレギャップは、金額ベースで見ても約40兆円の供給過剰が発生していて、依然、わが国の経済が大きなデフレから抜け出せないでいる。そうした背景には様々な要因があると考えられるが、先ず、景気の悪化に伴って、家計を取り巻く雇用・所得環境が悪化していることがある。足元で、企業は過剰設備・過剰人員を抱えた状態にあるため、今後も雇用や所得の環境が短期間に改善することは考え難い。また国民は、年金や介護、さらには医療などの問題を不安視しているから、どうしても、消費が盛り上り難い状況にあり、モノが売れない。さらに、わが国は、人口減少・少子高齢化という大きな問題に直面していることも、個人消費が伸び難い構造的な要因となっている。


経済主体の成長の決め手は「消費」と「設備投資」である事は言うまでもない。消費と民間の設備投資が伸びなくては経済の再生は有り得ないのである。その二つの需要項目が直ぐに回復を期待できないとなると、現在のデギャップを埋めることは難しい。デフレギャップが埋まらない以上、デフレからの脱却は難しい。

現在のデフレは日米欧の先進国に共通した現象となっており、今起きているのは、先進国の生産設備・土地・労働力・製品などの価値が下がっているということであり。そのことは、先進国が新興国に生産拠点を移したことと深い関係がある。今回大きな問題になった米国トヨタの大量のリコールも、部品の現地調達で、問題の部品の米CTSの供給元である中国の品質管理や技術的な問題から端を発した。

現在先進国のデフレ改善が進む中、依然わが国のデフレは改善が進まないでいる。国会も政治資金問題に多くの時間を費やしている場合ではないだろう。
政治家に金がかかることは、与党も野党も承知のはずで論戦を張っているのだから、国会は紙芝居である。みんな叩けば埃の出る御仁である。清廉潔白な政治家が、権謀術数の渦巻く世界の政治舞台で戦えるのかいささか疑問である。

本日、検察が小沢一郎の証拠が不十分なことから不起訴を決めたようであるが、これで終わったわけではない。次は国税庁や米国を巻き込んで脱税で起訴をする腹積もりでいるらしい。くわしくは評論家副島隆彦のページを参照されたし。
http://snsi-j.jp/boyakif/diary.cgi?start=1&pass=

2010年1月26日火曜日

権力闘争の行方


                
                             検察 VS 小沢


小沢民主党幹事長の政治資金疑惑をめぐる検察との闘争は、検察の西松建設捜査の空振りから検察の威信をかけて第2ラウンドに移ったが、検察にリークされた報道が過熱する中、現職の秘書が政治資金規正法違反で逮捕された。今や現況は民主党と検察の権力闘争の様相を呈してきた。

戦後、許認可権を行使して、日本の政治、経済、国民生活など全ての分野を支配する「陰の統治者」になった官僚。法律の大半は官僚が立案し、成立までのすべての根回しも官僚が行い、自民党時代に法案を決める閣議では、慣例として大臣は盲目的に決裁をするだけで国会は法案をあげる構図が続いた。


独立法人、公益法人、経済団体、企業など経済から教育、文化、福祉にいたるまで、あらゆる分野に補助金と利権を餌にして「高級官僚」を天下りさせ、中央官庁の意向を「中央」が指示・命令することなく、一般庶民の見えないところで「あうんの呼吸」「暗黙の了解」で統治する「闇の支配体制」をつくり上げたこの官僚支配体制を壊そうとしているのが小沢一郎である。

公務員制度改革、補助金制度廃止、官僚答弁禁止、天下り禁止、地方主権など、小沢改革は官僚支配のネットワークをずたずたにする。その結果、利権を失う者は猛烈に抵抗する。それが対立の基本的な構図である。

鳩山政権は、検察が最も恐れている取り調べの模様を録音・録画する「可視化法」を制定する方針である。官僚の中の官僚である検察は心穏やかではない。
なぜなら密室で行う取調べに権力の恣意的な行使が出来なくなるからである。
これは昨今冤罪事件が取りざたされている警察も同じことである。

密室で行われる情報操作がマスコミを利用して垂れ流され、国民は都合のいいように誘導されていく恐ろしさを検察が行った冤罪事件で知らされた国民は多い。最近では検察との裏取引で偽証して佐藤福島県知事を辞職に追い込んだ前科のある獄中の水谷建設の社長が、5000万を小沢側に渡したとの供述など裏の取れていない情報が独り歩きしている。


さて小沢一郎という政治家はいろいろ論議はあるにせよ、負の部分を差し引いても(革命家)としての存在感はある。彼と反革命の検察の闘いは今後どうなっていくのか予断を許さないところであるが、

過去の自民党の政治家を振り返ってみると、田中角栄にはじまってその一派である経世会の面々、竹下、金丸、中村、鈴木(宗男)橋本と、失脚または逮捕が東京地検特捜部によって粛々と行われてきたが、小沢もその流れにあるので検察の立件次第では逮捕の可能性は捨てきれない。

一方CIAのエージェントと言われた岸信介にはじまる清和会の佐藤、福田、中曽根、森 小泉、安部、福田、麻生などの親米派は皆無傷である。
今更ながらわが国の権力構造の裏にアメリカが見え隠れする構図がうかがえる。
検察並びにアメリカがどのような手を打ってくるかまさに政局は波乱含みである。

小沢という求心力に下支えされた民主党連立政権は、小沢が勝つか検察が勝つかの瀬戸際に立たされている。勝敗の行方次第では、政治主導か従来のエリート官僚支配かに方向性が変わるだろう。

2010年1月16日土曜日

アートな話 「黄金比」





古今東西、美に対する規範や基準値なるものが時代によって変容しているが、普遍的に今日まで継承されているものに、黄金比という概念がある。形や構図のバランスにおいておさまりのいい形や、心地の良い配置はすべてこの黄金比が潜んでいる。

 古代ギリシャでは、人体の肉体美を表現するために、人体比例として黄金分割を積極的に取り入れ、美しい彫刻を誕生させている。また、規範となる理想の人体比例をカノン(CANON)という。このような理想美を追求するための規範を研究し、普遍的な美しさを追及した歴史は、分割とプロポーションを研究することの重要性を物語っている。


ルネッサンス期には美の基本的な尺度として、積極的に利用され、作者の感性から切り離され、美を構成するための原理として美術、建築などに応用されている。人体比例の研究としてはレオナルド・ダ・ヴィンチの「カノン」やミロのビーナスなどがあげられる(上図参照)ビーナスのプロポーションはへそを起点として上部1:下部1.61となっており、プロポーションは、分割することによって生じた形同士、全体の形と部分的な形、部分的な形同士のバランスと数量的な比例関係をいう。それは部分同士が支えあい、全体を形成していることを意味している。そのプロポーションを維持するためには画面を支える統一的な構成原理である黄金分割が、絵画や彫刻などに駆使されたのである。


ちなみに、下の図を見ていただいて分かる通り、2種類の直角三角形が2つずつ、組み合わせて構成されているだけである。


しかも、この2種類の直角三角形の大きさの比率も、1:1.61になっている。図形の対角をむすんだ線に対し、90度直角に図形の一番近い角に向かって線を結んだものであり、この大きさは日常カード類、名刺、ノートなどに多く見ることができる。

下図●ABCDは正方形である。この正方形のABの中央のE点を基点にC点へ直線を引き、ABの直線の延長線であるFへ向かって円を描くと、 ABとBFの比率は黄金比になる。


 
美の基準 人間は?

人間の容貌において、女性でも男性でも美人・イケメンと称する顔つきがあるが、あれも大きさや配置の比率やを追求していくと、この黄金比が当てはまるようだ。ということは、それぞれのパーツ自体が綺麗な形をしていても、大きさや配置の比率が黄金比にそぐわなければ綺麗に見えなくなり、逆に言えば、それぞれの顔のパーツの形が多少良くなくても、配置や大きさの比率が黄金比にあっていれば、それなりに綺麗に見えるのである。

女性の化粧もやり方次第で、綺麗に見えたり、そうでないように見えたりするのは、この黄金比が深く関わっているようである。
一般的に美人の条件としては左右シンメトリー 顔の輪郭形 顔の部品の美しさと、顔に美しく配置されていることが条件になるが、基本的なプロポーションはひたいの生え際目鼻だち”というように、顔全体のなかの目と鼻の位置は美のベーシックな要素。「額の髪の生え際から眉毛の生え際」「眉毛の生え際から鼻の先端」「鼻の先端からあごの先」が3等分されていると理想形とされている。

歴史上楊貴妃とクレオパトラは「絶世の美女」という形容詞までついて我々とはかなり縁遠い存在として捉えられている。また、この2人の美人は国家の統治者へ強い影響を与え、国を滅ぼしてしまうほどの強力な威力を持っていた。

ほとんどの人の場合、左右は微妙に非対称であるから右から見た顔と左から見た顔の印象が違うことも多々ある。例えば右から見たら美人度は高いが左から見たらやや低いということが人間には微妙なズレとしてあるものである。そのズレが許容範囲であれば問題はない。

 このように造形学的バランスから絶妙にズレたところに美人の条件があるとするならば、それは自然のなせる業であり、おそらくズレというのは自然界の森羅万象の影響を受けて発生したもので、自然界には不揃いなものが多くみられる。
一般的にあまりにも造形学的バランスを持ちすぎたものは、人工的、機械的なものとして目に映るものと思われる。このことから人間の造形行為において、造形学的バランスをもう少し不規則、不安定にズラすと、情緒的な感覚を揺り動かす契機となる気がする。つまり自然の造形とは、人間が手を加えられない成り行きの所産であるから。我々は完璧に作られたクローン人間や人工的な美を望まない。
また親からもらった顔を無節操に整形を繰り返す、マイケルジャクソンの崩れた鼻も見てきた。人間の美はモノとして存在する美とは一線を画した位置にあることは言うまでもない。

2010年1月9日土曜日

混迷時代のリーダー



変動の時代のせいか、明治維新と時代がダブり、再び坂本龍馬が脚光を浴びている。龍馬については多くの人々が彼のことを書いているが、国際関係アナリストの北野幸伯氏が時代背景と龍馬の志をわかりやすく書いているのであらためて補足要約してみよう。


◇ルーツ

坂本龍馬は1835年(天保6年)11月15日、高知城下本丁筋1丁目(現在高知市上町1丁目)に生まれた。龍馬は、高知城下で呉服や酒などを扱う豪商「才谷屋」の次男であったため、龍馬は他の志士たちと違い、常に「経済」の観点から日本を見ていたことが言われている。

土佐の武士には二つの種類があった。関ヶ原の戦い以前、四国を支配していたのは長宗我部氏で、この戦で反徳川の西軍につき、破れた。山内氏がかわって土佐の支配者になった山内氏の家臣は「上士」と呼ばれ、長宗我部氏の関係者は「郷士」になった。
龍馬は「郷士」の息子だったため、豪商とはいえ「上士」に逆らえない、差別される立場にあった。それで龍馬は、「経済」「金儲け」を重視する一方、「差別される人々」「社会的弱者」を大切にする視点を持ち合わせていた。また、彼は天皇以外は皆平等」という思想をもち、これは「士農工商」の時代にあってはトンデモナイ思想だったのだが、こういう「万民平等思想」は彼が郷士の子で、差別される立場にあったことと関係があるのだろう。

◇黒船来航

幼少のころは泣き虫だった龍馬であったが14歳のときから剣道をはじめ、徐々にたくましくなっていく1853年3月、江戸の千葉道場へ剣術修行に行くことを許され、その3カ月後の1853年(嘉永6年)6月、ペリーの黒船艦隊が浦賀に来航し、日本は大騒ぎになった。当時19歳の龍馬は、江戸品川海岸の警備に動員された。翌1854年3月、ペリーが再び来航。
圧倒的武力を恐れた幕府は、「日米和親条約」締結に同意。200年以上つづいた鎖国体制は崩壊にむかい、龍馬は、この歴史的事件のときも、江戸にいた。いまだ体制は強固に見えたが、以後異国にあっさり屈した幕府への不満は高まることになる。まさに日本は混迷の時代に突入していったのだ。

◇土佐勤皇党の結成と脱藩

1860年(万延元年)に日本全国を仰天させる事件が起こる。尊王攘夷派を弾圧した井伊大老が、水戸の浪士に暗殺された。(桜田門外の変)この事件は、日本全国の武士たちに、大きな衝撃を与えた。
「一浪士が、幕府の大老を暗殺???」土佐の郷士は、「おれたちにも何か大きなことができるのではないか?」と夢を描くようになったことは想像するに難くないことである。 翌1861年、龍馬の親友・武市半平太を党首とする「土佐勤皇党」が結成され27歳の龍馬も参加した。目的は土佐を「勤皇藩」(=反幕府藩)にしてしまうことである。土佐勤皇党のメンバーはほとんど「郷士」であるため、藩を牛耳っている「上士」が、軽蔑している「郷士」のいうことを聞くのかとの疑問と、藩主の山内氏は、徳川から土佐を与えられた体制側の人間であることを悟った龍馬は半平太と袂を分かち、1862年、土佐勤皇党結成の翌年、土佐藩に見切りをつけ脱藩した。脱藩というのは当時「重罪」であったが、龍馬血気盛んな28歳の時である。

◇勝海舟と神戸海軍塾

脱藩後、龍馬は昔お世話になった江戸・千葉道場に居候することになった。1862年(文久2年)秋、幕府の大物・勝海舟と知り合ったことが、龍馬の人生を大転換させることとなった。
勝海舟は1860年、ジョン万次郎や福沢諭吉などと共に、咸臨丸でアメリカを視察している。勝は幕府の中枢にいたことから、世界情勢にも精通していた。
勝は、アジアの国々が次々と欧米列強の植民地となっている状況を龍馬に話し、そして、欧米列強に対抗するためには、開国し、貿易により富を蓄積すること。その上で、どんどん黒船を購入あるいは生産し、欧米に対抗できる海軍をつくることが必要だと説く。この話は、現実主義者の龍馬の心に強く響くことになる。
勝海舟は、日本が進むべき道を、龍馬に明確に示してくれた。龍馬は迷うことなく、勝の弟子になり、土佐脱藩組を勧誘し、どんどん勝の弟子にした。この行為は当時、半平太を中心とする「尊王攘夷派」から理解されなかった。勝海舟はなんといっても、「敵」幕府の大物である。「なんで龍馬は幕府の大物の弟子になってるんだ!?」と非難されたがしかし、「海軍をつくることが日本を守ること」という彼の信念は揺るがなかった。

1863年10月、勝は「神戸海軍塾」を設立。龍馬は「塾頭」に就任する。それで、彼は「日本海軍の祖」と呼ばれることがある。土佐の脱藩浪人を塾頭にしてしまう勝海舟がいかにこだわりのない人物だったかが浮かび上がる。勝海舟と知り合った龍馬は、ここで飛躍する大きなきっかけを得た。

◇海援隊と薩長同盟

神戸海軍塾が、設立からわずか2年で、勝海舟の塾は、幕府の金で倒幕兵を養っている」と批判され勝海舟は塾の責任者を解任され、塾も閉鎖されてしまった。閉鎖のきっかけとなったのが、1864年の「禁門の変」で長州の尊王攘夷派と、幕府・会津・薩摩などが京都で戦った事件であるが、長州側、つまり反幕府側に、神戸海軍塾の塾生が多く参加していたため幕府の槍玉に上がったわけである。1865年(慶応元年)3月
その後龍馬は、勝に紹介された西郷を説得し、主に薩摩藩の出資で、日本初の株式会社といわれる亀山社中(後の海援隊)を設立する。さらに、土佐脱藩・中岡慎太郎と共に、薩摩藩と長州藩を同盟させるべく奔走した。1866年1月、龍馬と慎太郎などの努力が実り、薩長同盟成立。時代は倒幕にむけて大きく前進した。同年6月、幕府 対 長州 の戦争に参加。龍馬と社中は、当然長州側の倒幕軍で戦っていた。この戦争で長州が勝利。幕府の権威は完全に失墜していった。

◇大政奉還

さて、長州が戦争に勝利した後、薩摩と長州の力はますます強まっていき、倒幕までの道筋も見えてきたがしかし、この時期龍馬には、もし幕府と倒幕軍の全面戦争になれば日本の国力は疲弊し、イギリスかフランスの植民地になるのではないか?という不安がつきまっとった。
そんな折、龍馬は、「なんとかして全面戦争を回避する方法はないだろうか?」と考えていた。1867年(慶応3年)龍馬は土佐藩上士・後藤象二郎に「大政奉還案」を進言する。大政奉還とは要するに、将軍が国の統治権を天皇に返すこと。1867年10月14日、大政奉還実現。つまり、徳川将軍みずから幕府をつぶしてしまったわけである。薩摩と長州は、倒すべき相手がいなくなってしまった。龍馬らの努力により、日本は全面戦争を回避。日本が植民地化をまぬがれた大きな理由の一つが、この「大政奉還」であったことは疑う余地がない歴史の事実であろう。

◇船中八策

龍馬が革命家として傑出していたのは、「倒幕後の政体」について明確な方針をもっていたことである。1867年6月に記された「船中八策」がそれである。
一策 (大政奉還をする)
二策 (議会政治を行う)
三策 (身分にかかわらず、実力主義にする)
四策 (外国との交流を進める。不平等条約を改定する)
五策 (新しい憲法を制定する)
六策 (海軍力を増強する)
七策 (御親兵を設置する)
八策 (金銀の交換レートを変更する)

この八策は、明治新政府に引き継がれ、日本が近代国家・世界の大国になる道が開かれた。

◇龍馬がみた夢

坂本龍馬は、大政奉還が実現した約1カ月後の11月15日に暗殺された。龍馬33歳の時である。いまだ実行犯は諸説あるが推測の域を出ず歴史の闇に消えていった。

・海軍塾の設立・日本初の株式会社・亀山社中(=海援隊)の設立・薩長同盟・大政奉還・船中八策 と、数々の歴史的偉業を成し遂げた龍馬。しかも、これだけの大事業を成し遂げた期間は、脱藩した1862年から1867年の、わずか6年間。まさに奇跡的な人物、龍馬は一体なにを目指していたのだろうか?

龍馬、幕臣・勝海舟と共に「海軍塾」を設立した動機は日本が植民地にならないためには、「強力な海軍が必要」と考えたからである。その後、倒幕のために薩長同盟を成立させた。しかし、倒幕戦の準備が本格化すると、今度は「大政奉還」を実現させ、大規模な内戦を回避したが、それも龍馬が常に「日本の独立を守るため」に行動していたことに他ならない。

◇世界の海援隊 ~ 私利私欲をこえて

龍馬は常々「人は“利”によって動く」と言っていた。そして、この人間心理を倒幕運動にも利用している。「倒幕を実現するためには、薩摩と長州を和解させる必要がある。しかし、薩摩と長州は、何度も戦っているので非常に仲が悪い。幕府との戦に備える長州は、武器を購入することが出来ないため、そこで龍馬は、亀山社中を使い、薩摩名義で武器を購入し、長州を救い、さらに、米の不作で困っていた薩摩に、その年豊作だった長州の米を与えている。
こうして、薩摩と長州の利害を一致させることで、両藩の感情をやわらげていったが、両者ともお互いの面子からすんなりとはいかなかったが、そんな中、龍馬の一喝「わしが日本のことを考えちょるのに、おまんらは小さな藩の事しか考えられんのか!」で薩長同盟は成立した
その後、新政府の人事を見た西郷は龍馬の名前が出てないことを訝って、彼に尋ねる「この表を拝見すると、当然土州(土佐)から出る尊兄(龍馬)の名がみあたらんが、どぎゃんしもしたかの?」
龍馬は答える。「わしぁ、出ませんぜ。あれは、きらいでな」西郷が「なにが?」ときくと、龍馬は、窮屈な役人がさ」西郷は「窮屈な役人にならずに、お前さぁは何ばしなはる」とさらに聞くと、龍馬は身を起こし、同席していたすべての人が忘れられない言葉を言う。「世界の海援隊でもやりましょうかな」

大欲は無欲に似たりとの諺があるが、今の日本、第2の龍馬待望論が出ていることも時代の背景か?、、、
どんな理想を政治に掲げても、経済を忘れた政治は長続きしないことを我々は知っている。