2010年1月26日火曜日
権力闘争の行方
検察 VS 小沢
小沢民主党幹事長の政治資金疑惑をめぐる検察との闘争は、検察の西松建設捜査の空振りから検察の威信をかけて第2ラウンドに移ったが、検察にリークされた報道が過熱する中、現職の秘書が政治資金規正法違反で逮捕された。今や現況は民主党と検察の権力闘争の様相を呈してきた。
戦後、許認可権を行使して、日本の政治、経済、国民生活など全ての分野を支配する「陰の統治者」になった官僚。法律の大半は官僚が立案し、成立までのすべての根回しも官僚が行い、自民党時代に法案を決める閣議では、慣例として大臣は盲目的に決裁をするだけで国会は法案をあげる構図が続いた。
独立法人、公益法人、経済団体、企業など経済から教育、文化、福祉にいたるまで、あらゆる分野に補助金と利権を餌にして「高級官僚」を天下りさせ、中央官庁の意向を「中央」が指示・命令することなく、一般庶民の見えないところで「あうんの呼吸」「暗黙の了解」で統治する「闇の支配体制」をつくり上げたこの官僚支配体制を壊そうとしているのが小沢一郎である。
公務員制度改革、補助金制度廃止、官僚答弁禁止、天下り禁止、地方主権など、小沢改革は官僚支配のネットワークをずたずたにする。その結果、利権を失う者は猛烈に抵抗する。それが対立の基本的な構図である。
鳩山政権は、検察が最も恐れている取り調べの模様を録音・録画する「可視化法」を制定する方針である。官僚の中の官僚である検察は心穏やかではない。
なぜなら密室で行う取調べに権力の恣意的な行使が出来なくなるからである。
これは昨今冤罪事件が取りざたされている警察も同じことである。
密室で行われる情報操作がマスコミを利用して垂れ流され、国民は都合のいいように誘導されていく恐ろしさを検察が行った冤罪事件で知らされた国民は多い。最近では検察との裏取引で偽証して佐藤福島県知事を辞職に追い込んだ前科のある獄中の水谷建設の社長が、5000万を小沢側に渡したとの供述など裏の取れていない情報が独り歩きしている。
さて小沢一郎という政治家はいろいろ論議はあるにせよ、負の部分を差し引いても(革命家)としての存在感はある。彼と反革命の検察の闘いは今後どうなっていくのか予断を許さないところであるが、
過去の自民党の政治家を振り返ってみると、田中角栄にはじまってその一派である経世会の面々、竹下、金丸、中村、鈴木(宗男)橋本と、失脚または逮捕が東京地検特捜部によって粛々と行われてきたが、小沢もその流れにあるので検察の立件次第では逮捕の可能性は捨てきれない。
一方CIAのエージェントと言われた岸信介にはじまる清和会の佐藤、福田、中曽根、森 小泉、安部、福田、麻生などの親米派は皆無傷である。
今更ながらわが国の権力構造の裏にアメリカが見え隠れする構図がうかがえる。
検察並びにアメリカがどのような手を打ってくるかまさに政局は波乱含みである。
小沢という求心力に下支えされた民主党連立政権は、小沢が勝つか検察が勝つかの瀬戸際に立たされている。勝敗の行方次第では、政治主導か従来のエリート官僚支配かに方向性が変わるだろう。
2010年1月16日土曜日
アートな話 「黄金比」
古今東西、美に対する規範や基準値なるものが時代によって変容しているが、普遍的に今日まで継承されているものに、黄金比という概念がある。形や構図のバランスにおいておさまりのいい形や、心地の良い配置はすべてこの黄金比が潜んでいる。
古代ギリシャでは、人体の肉体美を表現するために、人体比例として黄金分割を積極的に取り入れ、美しい彫刻を誕生させている。また、規範となる理想の人体比例をカノン(CANON)という。このような理想美を追求するための規範を研究し、普遍的な美しさを追及した歴史は、分割とプロポーションを研究することの重要性を物語っている。
ルネッサンス期には美の基本的な尺度として、積極的に利用され、作者の感性から切り離され、美を構成するための原理として美術、建築などに応用されている。人体比例の研究としてはレオナルド・ダ・ヴィンチの「カノン」やミロのビーナスなどがあげられる(上図参照)ビーナスのプロポーションはへそを起点として上部1:下部1.61となっており、プロポーションは、分割することによって生じた形同士、全体の形と部分的な形、部分的な形同士のバランスと数量的な比例関係をいう。それは部分同士が支えあい、全体を形成していることを意味している。そのプロポーションを維持するためには画面を支える統一的な構成原理である黄金分割が、絵画や彫刻などに駆使されたのである。
ちなみに、下の図を見ていただいて分かる通り、2種類の直角三角形が2つずつ、組み合わせて構成されているだけである。
しかも、この2種類の直角三角形の大きさの比率も、1:1.61になっている。図形の対角をむすんだ線に対し、90度直角に図形の一番近い角に向かって線を結んだものであり、この大きさは日常カード類、名刺、ノートなどに多く見ることができる。
下図●ABCDは正方形である。この正方形のABの中央のE点を基点にC点へ直線を引き、ABの直線の延長線であるFへ向かって円を描くと、 ABとBFの比率は黄金比になる。
美の基準 人間は?
人間の容貌において、女性でも男性でも美人・イケメンと称する顔つきがあるが、あれも大きさや配置の比率やを追求していくと、この黄金比が当てはまるようだ。ということは、それぞれのパーツ自体が綺麗な形をしていても、大きさや配置の比率が黄金比にそぐわなければ綺麗に見えなくなり、逆に言えば、それぞれの顔のパーツの形が多少良くなくても、配置や大きさの比率が黄金比にあっていれば、それなりに綺麗に見えるのである。
女性の化粧もやり方次第で、綺麗に見えたり、そうでないように見えたりするのは、この黄金比が深く関わっているようである。
一般的に美人の条件としては左右シンメトリー 顔の輪郭形 顔の部品の美しさと、顔に美しく配置されていることが条件になるが、基本的なプロポーションはひたいの生え際目鼻だち”というように、顔全体のなかの目と鼻の位置は美のベーシックな要素。「額の髪の生え際から眉毛の生え際」「眉毛の生え際から鼻の先端」「鼻の先端からあごの先」が3等分されていると理想形とされている。
歴史上楊貴妃とクレオパトラは「絶世の美女」という形容詞までついて我々とはかなり縁遠い存在として捉えられている。また、この2人の美人は国家の統治者へ強い影響を与え、国を滅ぼしてしまうほどの強力な威力を持っていた。
ほとんどの人の場合、左右は微妙に非対称であるから右から見た顔と左から見た顔の印象が違うことも多々ある。例えば右から見たら美人度は高いが左から見たらやや低いということが人間には微妙なズレとしてあるものである。そのズレが許容範囲であれば問題はない。
このように造形学的バランスから絶妙にズレたところに美人の条件があるとするならば、それは自然のなせる業であり、おそらくズレというのは自然界の森羅万象の影響を受けて発生したもので、自然界には不揃いなものが多くみられる。
一般的にあまりにも造形学的バランスを持ちすぎたものは、人工的、機械的なものとして目に映るものと思われる。このことから人間の造形行為において、造形学的バランスをもう少し不規則、不安定にズラすと、情緒的な感覚を揺り動かす契機となる気がする。つまり自然の造形とは、人間が手を加えられない成り行きの所産であるから。我々は完璧に作られたクローン人間や人工的な美を望まない。
また親からもらった顔を無節操に整形を繰り返す、マイケルジャクソンの崩れた鼻も見てきた。人間の美はモノとして存在する美とは一線を画した位置にあることは言うまでもない。
2010年1月9日土曜日
混迷時代のリーダー
変動の時代のせいか、明治維新と時代がダブり、再び坂本龍馬が脚光を浴びている。龍馬については多くの人々が彼のことを書いているが、国際関係アナリストの北野幸伯氏が時代背景と龍馬の志をわかりやすく書いているのであらためて補足要約してみよう。
◇ルーツ
坂本龍馬は1835年(天保6年)11月15日、高知城下本丁筋1丁目(現在高知市上町1丁目)に生まれた。龍馬は、高知城下で呉服や酒などを扱う豪商「才谷屋」の次男であったため、龍馬は他の志士たちと違い、常に「経済」の観点から日本を見ていたことが言われている。
土佐の武士には二つの種類があった。関ヶ原の戦い以前、四国を支配していたのは長宗我部氏で、この戦で反徳川の西軍につき、破れた。山内氏がかわって土佐の支配者になった山内氏の家臣は「上士」と呼ばれ、長宗我部氏の関係者は「郷士」になった。
龍馬は「郷士」の息子だったため、豪商とはいえ「上士」に逆らえない、差別される立場にあった。それで龍馬は、「経済」「金儲け」を重視する一方、「差別される人々」「社会的弱者」を大切にする視点を持ち合わせていた。また、彼は天皇以外は皆平等」という思想をもち、これは「士農工商」の時代にあってはトンデモナイ思想だったのだが、こういう「万民平等思想」は彼が郷士の子で、差別される立場にあったことと関係があるのだろう。
◇黒船来航
幼少のころは泣き虫だった龍馬であったが14歳のときから剣道をはじめ、徐々にたくましくなっていく1853年3月、江戸の千葉道場へ剣術修行に行くことを許され、その3カ月後の1853年(嘉永6年)6月、ペリーの黒船艦隊が浦賀に来航し、日本は大騒ぎになった。当時19歳の龍馬は、江戸品川海岸の警備に動員された。翌1854年3月、ペリーが再び来航。
圧倒的武力を恐れた幕府は、「日米和親条約」締結に同意。200年以上つづいた鎖国体制は崩壊にむかい、龍馬は、この歴史的事件のときも、江戸にいた。いまだ体制は強固に見えたが、以後異国にあっさり屈した幕府への不満は高まることになる。まさに日本は混迷の時代に突入していったのだ。
◇土佐勤皇党の結成と脱藩
1860年(万延元年)に日本全国を仰天させる事件が起こる。尊王攘夷派を弾圧した井伊大老が、水戸の浪士に暗殺された。(桜田門外の変)この事件は、日本全国の武士たちに、大きな衝撃を与えた。
「一浪士が、幕府の大老を暗殺???」土佐の郷士は、「おれたちにも何か大きなことができるのではないか?」と夢を描くようになったことは想像するに難くないことである。 翌1861年、龍馬の親友・武市半平太を党首とする「土佐勤皇党」が結成され27歳の龍馬も参加した。目的は土佐を「勤皇藩」(=反幕府藩)にしてしまうことである。土佐勤皇党のメンバーはほとんど「郷士」であるため、藩を牛耳っている「上士」が、軽蔑している「郷士」のいうことを聞くのかとの疑問と、藩主の山内氏は、徳川から土佐を与えられた体制側の人間であることを悟った龍馬は半平太と袂を分かち、1862年、土佐勤皇党結成の翌年、土佐藩に見切りをつけ脱藩した。脱藩というのは当時「重罪」であったが、龍馬血気盛んな28歳の時である。
◇勝海舟と神戸海軍塾
脱藩後、龍馬は昔お世話になった江戸・千葉道場に居候することになった。1862年(文久2年)秋、幕府の大物・勝海舟と知り合ったことが、龍馬の人生を大転換させることとなった。
勝海舟は1860年、ジョン万次郎や福沢諭吉などと共に、咸臨丸でアメリカを視察している。勝は幕府の中枢にいたことから、世界情勢にも精通していた。
勝は、アジアの国々が次々と欧米列強の植民地となっている状況を龍馬に話し、そして、欧米列強に対抗するためには、開国し、貿易により富を蓄積すること。その上で、どんどん黒船を購入あるいは生産し、欧米に対抗できる海軍をつくることが必要だと説く。この話は、現実主義者の龍馬の心に強く響くことになる。
勝海舟は、日本が進むべき道を、龍馬に明確に示してくれた。龍馬は迷うことなく、勝の弟子になり、土佐脱藩組を勧誘し、どんどん勝の弟子にした。この行為は当時、半平太を中心とする「尊王攘夷派」から理解されなかった。勝海舟はなんといっても、「敵」幕府の大物である。「なんで龍馬は幕府の大物の弟子になってるんだ!?」と非難されたがしかし、「海軍をつくることが日本を守ること」という彼の信念は揺るがなかった。
1863年10月、勝は「神戸海軍塾」を設立。龍馬は「塾頭」に就任する。それで、彼は「日本海軍の祖」と呼ばれることがある。土佐の脱藩浪人を塾頭にしてしまう勝海舟がいかにこだわりのない人物だったかが浮かび上がる。勝海舟と知り合った龍馬は、ここで飛躍する大きなきっかけを得た。
◇海援隊と薩長同盟
神戸海軍塾が、設立からわずか2年で、勝海舟の塾は、幕府の金で倒幕兵を養っている」と批判され勝海舟は塾の責任者を解任され、塾も閉鎖されてしまった。閉鎖のきっかけとなったのが、1864年の「禁門の変」で長州の尊王攘夷派と、幕府・会津・薩摩などが京都で戦った事件であるが、長州側、つまり反幕府側に、神戸海軍塾の塾生が多く参加していたため幕府の槍玉に上がったわけである。1865年(慶応元年)3月
その後龍馬は、勝に紹介された西郷を説得し、主に薩摩藩の出資で、日本初の株式会社といわれる亀山社中(後の海援隊)を設立する。さらに、土佐脱藩・中岡慎太郎と共に、薩摩藩と長州藩を同盟させるべく奔走した。1866年1月、龍馬と慎太郎などの努力が実り、薩長同盟成立。時代は倒幕にむけて大きく前進した。同年6月、幕府 対 長州 の戦争に参加。龍馬と社中は、当然長州側の倒幕軍で戦っていた。この戦争で長州が勝利。幕府の権威は完全に失墜していった。
◇大政奉還
さて、長州が戦争に勝利した後、薩摩と長州の力はますます強まっていき、倒幕までの道筋も見えてきたがしかし、この時期龍馬には、もし幕府と倒幕軍の全面戦争になれば日本の国力は疲弊し、イギリスかフランスの植民地になるのではないか?という不安がつきまっとった。
そんな折、龍馬は、「なんとかして全面戦争を回避する方法はないだろうか?」と考えていた。1867年(慶応3年)龍馬は土佐藩上士・後藤象二郎に「大政奉還案」を進言する。大政奉還とは要するに、将軍が国の統治権を天皇に返すこと。1867年10月14日、大政奉還実現。つまり、徳川将軍みずから幕府をつぶしてしまったわけである。薩摩と長州は、倒すべき相手がいなくなってしまった。龍馬らの努力により、日本は全面戦争を回避。日本が植民地化をまぬがれた大きな理由の一つが、この「大政奉還」であったことは疑う余地がない歴史の事実であろう。
◇船中八策
龍馬が革命家として傑出していたのは、「倒幕後の政体」について明確な方針をもっていたことである。1867年6月に記された「船中八策」がそれである。
一策 (大政奉還をする)
二策 (議会政治を行う)
三策 (身分にかかわらず、実力主義にする)
四策 (外国との交流を進める。不平等条約を改定する)
五策 (新しい憲法を制定する)
六策 (海軍力を増強する)
七策 (御親兵を設置する)
八策 (金銀の交換レートを変更する)
この八策は、明治新政府に引き継がれ、日本が近代国家・世界の大国になる道が開かれた。
◇龍馬がみた夢
坂本龍馬は、大政奉還が実現した約1カ月後の11月15日に暗殺された。龍馬33歳の時である。いまだ実行犯は諸説あるが推測の域を出ず歴史の闇に消えていった。
・海軍塾の設立・日本初の株式会社・亀山社中(=海援隊)の設立・薩長同盟・大政奉還・船中八策 と、数々の歴史的偉業を成し遂げた龍馬。しかも、これだけの大事業を成し遂げた期間は、脱藩した1862年から1867年の、わずか6年間。まさに奇跡的な人物、龍馬は一体なにを目指していたのだろうか?
龍馬、幕臣・勝海舟と共に「海軍塾」を設立した動機は日本が植民地にならないためには、「強力な海軍が必要」と考えたからである。その後、倒幕のために薩長同盟を成立させた。しかし、倒幕戦の準備が本格化すると、今度は「大政奉還」を実現させ、大規模な内戦を回避したが、それも龍馬が常に「日本の独立を守るため」に行動していたことに他ならない。
◇世界の海援隊 ~ 私利私欲をこえて
龍馬は常々「人は“利”によって動く」と言っていた。そして、この人間心理を倒幕運動にも利用している。「倒幕を実現するためには、薩摩と長州を和解させる必要がある。しかし、薩摩と長州は、何度も戦っているので非常に仲が悪い。幕府との戦に備える長州は、武器を購入することが出来ないため、そこで龍馬は、亀山社中を使い、薩摩名義で武器を購入し、長州を救い、さらに、米の不作で困っていた薩摩に、その年豊作だった長州の米を与えている。
こうして、薩摩と長州の利害を一致させることで、両藩の感情をやわらげていったが、両者ともお互いの面子からすんなりとはいかなかったが、そんな中、龍馬の一喝「わしが日本のことを考えちょるのに、おまんらは小さな藩の事しか考えられんのか!」で薩長同盟は成立した
その後、新政府の人事を見た西郷は龍馬の名前が出てないことを訝って、彼に尋ねる「この表を拝見すると、当然土州(土佐)から出る尊兄(龍馬)の名がみあたらんが、どぎゃんしもしたかの?」
龍馬は答える。「わしぁ、出ませんぜ。あれは、きらいでな」西郷が「なにが?」ときくと、龍馬は、窮屈な役人がさ」西郷は「窮屈な役人にならずに、お前さぁは何ばしなはる」とさらに聞くと、龍馬は身を起こし、同席していたすべての人が忘れられない言葉を言う。「世界の海援隊でもやりましょうかな」
大欲は無欲に似たりとの諺があるが、今の日本、第2の龍馬待望論が出ていることも時代の背景か?、、、
どんな理想を政治に掲げても、経済を忘れた政治は長続きしないことを我々は知っている。
2010年1月5日火曜日
今年はどうなる
さて、戦後6度目の寅年(とらどし)である。振り返れば朝鮮戦争、キューバ危機、ウオーターゲート事件に田中角栄首相の金脈問題、。内外の政治史上に残る大きな出来事が寅年にはあった。今年は何かありそうな予兆がする。
二大政党時代の到来を見据えて生まれた民主党が宿願を果たし、自民党を軸とする政党政治の枠組みである「55年体制」を突き崩して初めて迎える年でもある。前回1998年の寅年にその民主党が結成されたのも時の巡り合わせと言えるだろう。
エコノミスト門倉貴史氏によると
日本の地下経済(アングラマネー)の規模は約22兆円!と推定されている。日本の国家予算が約80兆円、(本年度は史上1位の92兆円)名目GDPが約500兆円なのでいかにヤミ世界で動く金が莫大であるかが計り知れる。
その地下経済の圧倒的多数を占めるのが3/4の「脱税」によるものである。日本の脱税額は、推定金額で、下限7.4兆円~上限14.2兆円と推測されている。日本の脱税規模は、世界的に見てもトップクラスである。これは、自営業者(農業なども含む)からの税収を「確定申告」という自主申告制度にしている事が大きな要因となっている。
その次は、暴力団の非合法ビジネスでの収入(闇金や詐欺、違法賭博開催・覚せい剤密売・占有屋ビジネス・外国人の不法滞在手助け・など)。それに続くのが、性風俗産業による闇所得。これらは実体を把握しきれない部分が多く、税務署の泣き所だと言われている。
脱税ワーストはパチンコ業、建設業、性風俗業、不動産業などが常連であったが、ここにきて「人材派遣業」も仲間入りし、申告漏れと称するあらゆる業種を含めるとわが国は脱税天国である。
民主党も税収の落ち込みから、埋蔵金などを当て込んで苦心惨憺の財政運営を余儀なくされているが、ここへ来て思わぬ税収があった。(笑い)
今話題の鳩山総理が相続税として早々おさめた6億円近い金も、毎月母親の老婆心からか、小分けに生前贈与をしてきた12億といった巨額の財産を、われ知らずとは言えないところまで追いつめられたところの年貢の納め時とばかりの申告で、納税者の国民の側からすると煙に巻かれたような幕切れであったが、自民党の世襲議員も政治資金管理団体を経由して同じような事をやっている者も少なからずいるという。国政の正念場である参議院選挙を夏に迎え、せめて新年度からの政治の方向性だけは内外の煙を晴らしてもらいたいものである。
2009年12月17日木曜日
戦後は終わっていない
沖縄普天間基地
戦後、アメリカの属国としての日本は吉田茂以来その門弟達によって引き継がれ、その政治体制は吉田の孫の麻生太郎まで脈々と続いてきた。鳩山内閣の普天間基地移転問題再考、インド洋での石油補給延長無し等の意思表示は鳩山内閣が明らかに吉田亜流と一線を画していることを内外に示した。
今回沖縄の米軍基地移転問題も来年の日米安保条約改定50周年の節目を前にして、従来の対米従属からの脱却とアジアを視野に入れた多極主義的な色合いを感じさせる民主党の動きに対して自民党やマスコミを含め批判的な論調が多い。
日米安保は今後の日本を占う正念場であるので、そう簡単に米国の思うままに基地問題の解決を早急に図ってはならない点では、来年度持ち越しは正解であるだろう。すんなり前政権の方針を踏襲するだけなら誰も苦労はしない。わが国は沖縄から覚醒する時点に立っている。
現在アメリカとの水面下でのせめぎ合いが継続中であるが、そんな状況の中、国際情勢解説者、田中 宇氏がウエブ上で興味深い記事を載せていたので御紹介させていただくと以下のとおりである。
●日本のマスコミや国会では「沖縄からグアムに移転するのは、海兵隊の司令部が中心であり、ヘリコプター部隊や地上戦闘部隊などの実戦部隊は沖縄に残る」という説明がなされてきた。しかし伊波市長ら宜野湾市役所の人々が調べたところ、司令部だけでなく、実戦部隊の大半や補給部隊など兵站部門まで、沖縄海兵隊のほとんどすべてを2014年までにグアム島に移転する計画を米軍がすでに実施していることがわかった。
ヘリ部隊や地上戦闘部隊(歩兵部隊)のほとんどがグアムに移転するなら、普天間基地の代替施設を、名護市辺野古など沖縄(日本国内)に作る必要はない。辺野古移転をめぐる、この数年の大騒ぎは、最初からまったく不必要だったことになる。
米軍が沖縄海兵隊をグアムに全移転する計画を開始したのは2006年である。日本政府は米軍のグアム移転に巨額の金を出しており、外務省など政府の事務方は米軍のグアム移転計画の詳細を知っていたはずだが、知らないふりをして「グアムに移る海兵隊は司令部などで、沖縄に残るヘリ部隊のために辺野古の新基地が必要だ」と言い続けてきた。
米当局が11月20日に発表した、沖縄海兵隊グアム移転(グアム島とテニアン島への移転)に関する環境影響評価の報告書草案の中に、沖縄海兵隊のほとんどの部門がグアムに移転すると書いてあることを根拠に、同市長は12月9日には外務省を訪れ、普天間基地に駐留する海兵隊はすべてグアムに移転することになっているはずだと主張したが、外務省側は「我々の理解ではそうなっていない」と反論し、話は平行線に終わった。
沖縄海兵隊の「実数」は、軍人1万2500人、家族8000人の計2万0500人だ。これに対してグアムが受け入れる人数は軍人8000人、家族9000人の計1万7000人で沖縄には3500人ほど駐留する計算であるが、外務省は10000人と表明している。さらに外務省は「米国に逆らうと大変なことになりますよ」と政治家や産業界を脅し、その一方で、この「1万人継続駐留」を活用して思いやり予算などを政府に継続支出させている。
この「グアム統合軍事開発計画」は、グアムを世界でも有数の総合的な軍事拠点として開発する戦略だ。米国は「ユーラシア包囲網」を作っていた冷戦時代には、日本や韓国、フィリピンなどの諸国での米軍駐留を望んだが、冷戦後、各国に駐留する必要はなくなり、日本、韓国、台湾、フィリピン、インドネシアなどから2000海里以下のほぼ等距離にあるグアム島を新たな拠点にして、日韓などから撤退しようと考えてきた。
日本政府が沖縄海兵隊グアム移転の費用の大半(総額103億ドルのうち61億ドル)を払うことが決まった。米軍は、日本が建設費を負担してくれるので、グアムに世界有数の総合的な軍事拠点を新設することにしたと考えられる。
▼日本の将来を決する天王山に
「海兵隊はグアムに全移転しようとしている」という、宜野湾市長の指摘も、マスコミでは報じられなかった。だが、11月末に伊波市長がその件を与党議員に説明した後、12月に入って鳩山首相が「そろそろ普天間問題に日本としての決着をつけねばならない」「グアムへの全移転も検討対象だ」と発言し、事態が一気に流動化した。鳩山がグアム全移転を言い出したことが、伊波市長の指摘と関係あるのかどうかわからないが、議論の落としどころは「グアム全移転」で、それに対する反対意見を一つずつガス抜きしていくような展開が始まっている。
日米首脳会談、要請もできず…米側も消極的
海兵隊グアム全移転が政府方針になると、海兵隊1万人沖縄残留という捏造話に基づく対米従属の構造が崩れ、外務省など官僚機構は力を失っていく。だから外務省とその傘下の勢力は、全力で抵抗している。事態は、日本の将来を決する「天王山」的な戦いとなってきた。自民党は、民主党政権を批判すべく、今こそとばかり党内に大号令をかけた。自民党は、官僚依存・対米従属の旧方針を捨て、保守党としての新たな方向をめざすべきなのだが、依然として官僚の下僕役しか演じないのは愚かである。
以上 <中略>
今回の問題は「55年体制」として事実上の一党独裁政治を継続してきた自民党政権が擁護温存してきた米軍基地問題の象徴である。そして、今もかれら自民党はこの「不平等条約」としての本質を持つ安保条約にもとづく基地提供だとして沖縄の米軍基地を擁護し、普天間の辺野古移設を「国と国との約束」として鳩山政権へ履行を迫っている。メディアもまた「日米関係の基盤は安保条約であり、日本が基地を提供するのは不可欠の要件である」(「朝日」10日社説)という旧安保時代の論議を展開している。
船頭多くて船進まずの日本丸であるが、鳩山内閣が米国の恫喝に屈せずに決定される決断次第で、真の独立国家としての出発と、長い戦後が終わることになるだろう。またそれは戦後わが国を懐柔してきた米国の日本に対する見方が変わることを意味している。今、国民が選んだ民主党が答えを出さなければならない最大の政治課題を国民は固唾を飲んで見ている。
2009年12月9日水曜日
アートな話「現代アートの行方」
デュシャン 階段を下りる裸体
20世紀に入ると周知のように、美術の舞台はヨーロッパからアメリカに移り、現代アートは多様な歩みを始めていく。
1970年代以降は世界的に流行し、日本にも三尾公三や森秀雄などの作家がいるが、ちょうど日本経済が高度成長期から成熟期に入った頃で、日本特有の情念的なリアリズムはアメリカのリアリズムとは違った様相を示していたように思う。このころわが国では、絵筆に代わってエアーブラシによる絵画制作がはやり、筆者もエアーブラシを使った絵画に手を染めていた頃である。
スーパーリアリズムとは、写真というメディアによってもたらされた新しい映像世界を、 再び「人間の手で描かれた絵画」という伝統的な枠組みのなかに息づかせようとしたものであった。スーパーリアリズムの絵画では、日常性をを彩る風物がモティーフとなっており。驚嘆すべきテクニックを駆使して活写された画面に は、アメリカが抱えているその時代が描き出されていた。
20世紀アメリカは、現代の典型となる強力な社会システムとしての「大量生産/大量消費社会システム」あるいは「記号化社会システム」を作り上げた。
しかし、ギリシャ、ローマに始まる古典から近代に至る文化を築いたヨーロッパ諸国にしてみれば、アメリカは安価で高機能だが品の悪い機械を大量生産するだけの非文化的な大国に見えたことだろう。
アメリカにとって、ポップ・アートを中核とする20世紀アメリカ現代美術の誕生は、超合理的に物質的豊かさのみをひたすら追求する社会システムのなかで花開いた絵画が、文化システム国家に押し上げたことを意味している。
芸術の後進国の汚名を返上したばかりか、このあらたな産業・文化システム、システム「アメリカ」を広大な自国を皮切りに自国外の旧世界に向けて伝播させるメディアを得たのである。
芸術と酒は人間の精神を解放する作用がある点で一致する。芸術には個の創出した世界を生み、個人を解放する作用があり、芸術の本質は、個人の側に立った人間の解放作用である。その表現手法はどのジャンルにおいても時代を反映するものであり、時代の表現は次の時代の芽吹きとなる新たな世界の志向性を内包している。つまりその時代の目となって表現されるものが芸術のリアリズムであるだろう。
村上 隆 フィギュアー
今、日本発の現代アートは、アニメと漫画にとってかわり、日本的なアニメやマンガを連想させる村上隆や奈良美智の作風への評価が定まってきたことに加え、コンテンポラリーな美術シーンが展開している。
2006年5月、ニューヨークのオークションで、両者の作品がそれぞれ100万ドルを超える値で落札されたことも時代を現わしている。
「人間社会は、いま人類史上かってないほど大きな変貌をとげようとしている。物理空間を基盤に構成された社会から、情報空間を基盤に構成される社会へ変わろうとしているのである。この変化は、森を基盤に生活していた縄文人が、畠を基盤に生活する弥生人にとって代わられたよりはるかに大きな変化になるだろう」と評論家立花隆は 「インターネット探検」1996 , 講談社で述べている。
一方通行のマスメディアに対して、いつでもどこでも自由にコンタクトできるインターネットは超民主的なメディアで、それは現在の世界の枠組み、国家や社会、大企業などの組織のあり方を必ずしも絶対的なものとしない、新たな世界の到来を予告しており、この流れは誰も止められない。
また一方で、視覚芸術領域を変えたもう一つの現在の時空をあらわす技術に、コンピューター. グラフィックス(CG)がある。私たちは日常的にCG映像にふれ、それをもはや特殊なものと思わずに楽しむようになっている。
映画の特殊撮影、テレビ番組のタイトルやエンディング、強い印象を与えるCMには、必ずと言っていいほど、CG映像が使われている。また写真映像も多くの場合、コンピューター処理がなされている。これらのことから私たちの時代は、CGによって高度に視覚化された概念像をもつようになっていった。
自在でスムーズな視点の移動とイメージの変化は、CG以外では作り出せなかったものである。クリアーに視覚化された概念像を我々に提供するCGは、概念と視覚の問題を占有しようとする現代芸術に、より高次元の概念化を強いていると言えるだろう。
20世紀に入ると周知のように、美術の舞台はヨーロッパからアメリカに移り、現代アートは多様な歩みを始めていく。
20世紀初頭の創生期に戦時下の前衛美術表現が弾圧される中で、ヨーロッパで戦禍を逃れたモダンアートの一派はアメリカへと渡ったデュシャン、モンドリアンに始まって、 50年代、近代芸術の突破を果たした抽象表現主義絵画 ポロック、デ・クーニングや、続いて現れた現代都市の事物と記号化された表現 や、ネオ・ダダのラウシェンバーグやジャスパージョーンズそして60年代、アメリカ現代美術は商業主義と結びつき、リキテンシュタイン、ウォーホルに代表されるポップアートを生んだ。
●60年代後半からスーパーリアリズムと言うジャンルが登場する。
リチャード .エステス
写真と見まごうばかりの驚くべきリアリズムで現代の風物を鮮烈に描き出す絵画。スーパーリアリズムと呼ばれるこの動向は、ポップ・アート最盛期の1960年代後半のアメリカに登場した。「リアリズム(写実)を超えた迫真のリアリズム」を意味するこの表現法は、絵画制作に写真の映像をきわめて意識的に導入し、カメラ・アイ(=機械の眼)を世界を見る手段の中心に据えることで、新しい視覚世界の地平を開いた。日常世界を撮した写真を素材にして描かれた作品は,対象への思い入れや主観的な感情をいっさい排除しクールに描写する表現が特徴で、スライド写真などの映像を忠実に写しとるためフォトリアリズムとも呼ばれ、その無機的な表現法は現代に潜む孤独と虚無を映し出ている。1970年代以降は世界的に流行し、日本にも三尾公三や森秀雄などの作家がいるが、ちょうど日本経済が高度成長期から成熟期に入った頃で、日本特有の情念的なリアリズムはアメリカのリアリズムとは違った様相を示していたように思う。このころわが国では、絵筆に代わってエアーブラシによる絵画制作がはやり、筆者もエアーブラシを使った絵画に手を染めていた頃である。
スーパーリアリズムとは、写真というメディアによってもたらされた新しい映像世界を、 再び「人間の手で描かれた絵画」という伝統的な枠組みのなかに息づかせようとしたものであった。スーパーリアリズムの絵画では、日常性をを彩る風物がモティーフとなっており。驚嘆すべきテクニックを駆使して活写された画面に は、アメリカが抱えているその時代が描き出されていた。
20世紀アメリカは、現代の典型となる強力な社会システムとしての「大量生産/大量消費社会システム」あるいは「記号化社会システム」を作り上げた。
しかし、ギリシャ、ローマに始まる古典から近代に至る文化を築いたヨーロッパ諸国にしてみれば、アメリカは安価で高機能だが品の悪い機械を大量生産するだけの非文化的な大国に見えたことだろう。
アメリカにとって、ポップ・アートを中核とする20世紀アメリカ現代美術の誕生は、超合理的に物質的豊かさのみをひたすら追求する社会システムのなかで花開いた絵画が、文化システム国家に押し上げたことを意味している。
芸術の後進国の汚名を返上したばかりか、このあらたな産業・文化システム、システム「アメリカ」を広大な自国を皮切りに自国外の旧世界に向けて伝播させるメディアを得たのである。
芸術と酒は人間の精神を解放する作用がある点で一致する。芸術には個の創出した世界を生み、個人を解放する作用があり、芸術の本質は、個人の側に立った人間の解放作用である。その表現手法はどのジャンルにおいても時代を反映するものであり、時代の表現は次の時代の芽吹きとなる新たな世界の志向性を内包している。つまりその時代の目となって表現されるものが芸術のリアリズムであるだろう。
村上 隆 フィギュアー
今、日本発の現代アートは、アニメと漫画にとってかわり、日本的なアニメやマンガを連想させる村上隆や奈良美智の作風への評価が定まってきたことに加え、コンテンポラリーな美術シーンが展開している。
2006年5月、ニューヨークのオークションで、両者の作品がそれぞれ100万ドルを超える値で落札されたことも時代を現わしている。
「人間社会は、いま人類史上かってないほど大きな変貌をとげようとしている。物理空間を基盤に構成された社会から、情報空間を基盤に構成される社会へ変わろうとしているのである。この変化は、森を基盤に生活していた縄文人が、畠を基盤に生活する弥生人にとって代わられたよりはるかに大きな変化になるだろう」と評論家立花隆は 「インターネット探検」1996 , 講談社で述べている。
一方通行のマスメディアに対して、いつでもどこでも自由にコンタクトできるインターネットは超民主的なメディアで、それは現在の世界の枠組み、国家や社会、大企業などの組織のあり方を必ずしも絶対的なものとしない、新たな世界の到来を予告しており、この流れは誰も止められない。
また一方で、視覚芸術領域を変えたもう一つの現在の時空をあらわす技術に、コンピューター. グラフィックス(CG)がある。私たちは日常的にCG映像にふれ、それをもはや特殊なものと思わずに楽しむようになっている。
映画の特殊撮影、テレビ番組のタイトルやエンディング、強い印象を与えるCMには、必ずと言っていいほど、CG映像が使われている。また写真映像も多くの場合、コンピューター処理がなされている。これらのことから私たちの時代は、CGによって高度に視覚化された概念像をもつようになっていった。
自在でスムーズな視点の移動とイメージの変化は、CG以外では作り出せなかったものである。クリアーに視覚化された概念像を我々に提供するCGは、概念と視覚の問題を占有しようとする現代芸術に、より高次元の概念化を強いていると言えるだろう。
2009年12月2日水曜日
知られざる中国
中国が核武装を決意したのは、建国の5,6年後の1955~56年という非常に早い時期である。朝鮮戦争(1950~53)、インドシナ戦争(~54)、台湾海峡での国民党政府軍との戦争(54~55)と、立て続けに戦争を行い、しばしば米国の核兵器に威嚇された。
朝鮮戦争ではマッカーサーが中国に対して原爆使用を提案し、トルーマン大統領に解任されている。毛沢東は米国のような大国に対して、対等な発言権を持つには核兵器が必要であることを明確に認識していた。
.『シルクロードの死神』
ある日本人青年がシルクロードを一人で旅をしていた時のこと、こんな体験をした。
ローカルバスに乗って南新彊をめざしていたところ、突然昼間なのにピカッと光るものを感じた。その後、バスの中を見渡すと同乗者たちが皆、鼻血を流している。その光景は滑稽にさえ思えた。ところが、鼻に手を当てると自分も同じように血が出ているのに気がついた。バスの中は騒然となった。あの時、彼は被爆したのかも知れない。
4月30日の 産経新聞ならびに月刊「正論」6月号の高田レポートによると
新彊ウイグル自治区の南部に広がる西遊記でおなじみのタクラマカン砂漠には、 中国の核実験基地がある。その風下に位置する西側の村々では直接、放射性物質が降り注ぐ。大脳未発達の赤ちゃんが数多く生まれ、奇病が流行し、ガンの発生率は中国の他の地域に比べて極めて高い。その9割が血液のガン、白血病である。中国政府の圧力のために、こうした事実は公にされず、貧しい患者たちは薬も買えずに死を待つ。
こうした状況を報道したドキュメンタリー "Death on theSilk Road" 『シルクロードの死神』が1998年、イギリスのテレビ局で放映され、衝撃を与えた。この番組は、その後、フランス、ドイツ、オランダなど欧州諸国をはじめ、世界83カ国で放送され、翌年、優れた報道映像作品に送られるローリー・ペック賞を受賞した。なぜか我 が国は放映されていない。
中国核実験の実態
東トルキスタン地域は、中国共産党が1949(昭和24)年に軍事侵攻し、支配下においた土地である。そしてこの地で最初の核実験が1964(昭和39)年10月の東京オリンピック期間中に始まり、1996(平成8)年まで続けられた。この東トルキスタンと国境を接するカザフスタンは、かつてソ連の支配下にあり、そこにはソ連によるセミパラチンスク核実験場が設けられていた。中国の核実験の非道ぶりは、ソ連と比較しても民族浄化のそのえぐいやり方は群を抜いている。
ソ連の核実験場は四国ほどの面積の土地から人々を外部に移住させ、周囲に鉄線で囲いを設け、実験場につながる道路の出入りを厳重に管理していた。その広大な面積においても、場外の民衆の安全に配慮して、最大0.4メガトンに抑えていた。さらに核爆発を実施する際には、核の砂が降ると予想された風下の村の人々を、事前に避難させる措置も一部とっていた。
一方、中国は、鉄条網で囲んだ実験場など設けていなかったと、現地の人々の証言からも推察される。しかも、最大4メガトンと、ソ連の10倍もの規模の核爆発を行った。さらに住民に警告して避難させるなどという措置もとらなかった。(核爆発)基地では、漢人の住む方向に向かって、つまり西から東に風が吹く時は核実験をしない。このためにわが国では放射性物質の観測データにほとんど出ていない。
中国は90年代にこの地域で11回もの核爆発を行っており、東トルキスタン南部のタリム盆地での石油・天然ガス油田開発が始まった時期と一致していることから、高田教授は資源開発に核兵器が使われたと推定している。つまり核爆発により地震を人工的に起こし、そこで発生した地震波の伝わり方を調べて、地下の構造を分析する手法である。ソ連もこの目的で12回の核爆発をシベリアで行っている。
● 中国が新疆ウイグル自治区で実施した核実験による被害で同自治区のウイグル人ら19万人が急死したほか、急性の放射線障害など甚大な影響を受けた被害者は129万人に達するとの調査結果が札幌医科大学の高田純教授(核防護学)によってまとめられた。被害はシルクロード周辺を訪れた日本人観光客27万人にも及んでいる恐れがあるとしている。
爆発では楼蘭遺跡の近くで実施された3回のメガトン級の核爆発で高エネルギーのガンマ線やベータ線、アルファ線などを放射する「核の砂」が大量に発生した。上空に舞い、風下に流れた「核の砂」は東京都の136倍に相当する広範囲に降り、その影響で周辺に居住するウイグル人らの急性死亡は19万人にのぼる。甚大な健康被害を伴う急性症は129万人のうち、死産や奇形などの胎児への影響が3万5000人以上、白血病が3700人以上、甲状腺がんは1万3000人以上に達するという。中国の核実験は、核防護策がずさんで、被災したウイグル人に対する十分な医療的なケアも施されておらず、129万人のうち多くが死亡したとみられる。
広島に投下された原爆被害の4倍を超える規模という。高田教授は「他の地域でこれまで起きた核災害の研究結果と現実の被害はほぼ合致している。今回もほぼ実態を反映していると考えており、人道的にもこれほどひどい例はない。中国政府の情報の隠蔽(いんぺい)も加え国家犯罪にほかならない」と批判している。
東トルキスタンの人口は2005(平成17)年で2千万人である。中共政府はその地で、住民を退避させることもなく、核爆発を行った。高田教授は楼蘭地域での3発のメガトン級核爆発の影響を計算した。その値は1千キロ離れたカザフスタンの報告値と良く一致した。それは胎児が奇形となるレベルのリスクであった。その核放射線影響を現地の人口密度に当てはめて推定すると、核の砂による急性死亡は19万人となった。2メガトン地表核爆発では、風下およそ245キロメートル、すなわち横浜-名古屋間に及ぶ範囲で、急性死亡のリスクがあった。この地域では核の砂が降って、住民が全員死亡した村がいくつもあったということになる。
また、死亡には至らないが、白血病などを誘発する急性放射線障害のリスクのある地域は、風下およそ440キロメートルに及ぶ。東京-大阪間に相当する距離である。この地域で白血病などを誘発する急性症を起こした人々は129万人と推定された。
■被爆地に呼び寄せられる日本人観光客■
楼蘭遺跡付近の核爆発は東京オリンピック開催中の1964(昭和39)年に始まり、1996(平成8)年まで続けられ,それ以降も核爆発は続いていたのである。
この間シルクロードを訪問した日本人27万人の中には核爆発地点の ごく近くや「核の砂」の汚染地域に足を踏み入れた恐れがありこれに加えて、核爆発が終了した1997年から2008年ま での日本人観光客数は57万人と見積もられている。このペースだと今後、数年のうちに合計100万人に到達するだろう。
戦後唯一の被爆国の日本人が、皮肉にもそれ以上の被爆地に観光で訪れている。こうした日本人への影響調査が必要と高田教授は 指摘している。
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